「きょうはハンバーグを食べたい気分なんだよねえ」。あたかも自分の意思でそう決めているようで、実は昨晩見たグルメ番組に無意識に引っ張られていることがある。それと同じで、自分で人生を選択して生きていると思っていても、何かに大きく影響されているということは、ままある。
僕の場合、それは父・マサルと母・トシコという両親の存在だ。いま僕には、妻と5歳になる男の子がいる。自分が思うがままに築いているように見える家族のカタチさえ、マサルとトシコという夫婦の影響を過分に受けているのだと思う。
夫婦である前に親になってしまう
両親はともに昭和11年生まれで、トシコは現在82歳。マサルは13年前に死んだ。
両親から「勉強しろ」とうるさく言われた記憶もない。そういったいわゆる「しつけ」のようなものも少なかったように思う。そして何より、2人はとても仲がよく、母はとても父を愛していた。どうして、そこまで母は父を愛していたのだろうと考えるとき、いつも浮かんでくる強烈な思い出がある。
思春期真っただ中のころ、僕はトシコを“ぞんざい”にしていた。
メシを作ってくれて、お小遣いをくれるだけでいい。余計なことは言うな。そんなふうに思っていたので、何を言われても基本無視。そんな母親を母親とも思わない僕の態度に、ついにマサルがキレたことがあった。母親の小言に、僕が「うるせえ、黙れ」と悪態をついたのだ。これが一般的な父親であれば「お母さんになんて態度を取るんだ! 謝りなさい!」と叱るのだろう。だがマサルは僕にこう言い放ったのだ。
「おまえ、俺の女に何しやがるんだ、この野郎!!」
まるで酒場でケンカを売るかのように、マサルは僕に怒鳴ってきたのだ。
えっ!?「俺の女」って! 僕のお母さんだわ! 普通、自分の子どもにそんなこと言う? と思わず言いたくなるような、このセリフ。
「俺の女に何しやがるんだ」という台詞に象徴されるように、マサルにとって、トシコは僕ら子どもたち「母」としてよりも、自分の「妻」だったのだろう。それは、父だけに限ったことではない。マサルが亡くなり、号泣する母を慰めようと「こんなときのために、俺ら兄弟3人もいるんじゃん」と言った僕に、トシコは「お母さん、あんたらよりマサルさんのほうがいい!!」と答えたのだから。マサルもトシコも“3人の子の親”ではなく、“夫婦”だったのだ。
愛するふたりは常時見つめ合っているのだから、3人の子どもが視界に入るわけがない。こんな両親に育てられたせいか、僕はこれが“フツーの親”だと思っていた。しかし大人になるにつれ、我が両親の愛のカタチというのは、どうやら普通ではないみたいだぞと気づいた。
いや、僕も結婚して15年経つけれど、なかなかどうして「夫婦である前に親」になってしまう。まだ小さいので、どうしても子どもにつきっきりで妻の存在をないがしろにしがちだ。
もしいつか、いま5歳になる息子が反抗期になって、あの頃の僕のような態度を妻にとったとき、僕は何と言って息子を叱るのだろうか。そんなことを思うと、少しふたりを尊敬する。マサルとトシコの愛のカタチは“理想”なんだと思うようになった。
笑顔で協力できる夫婦関係を築けているか?
僕はマサルと性格がそっくりだ。幼い頃、マサルは僕にやさしく、いつも遊んでくれた。よく野球に連れていってくれたし、試合が終わったらそのままレストランやスナックにも一緒に行っていた。夜11時ぐらいに酔って家へ帰って来たマサルが、「行くぞー!」と僕を連れ出し、ラーメン屋に行くこともよくあった。
今思うと、マサルとしては〆のラーメンに僕を誘っていたのだろう。しかし当時、僕はまだ小学生。そんな小さな子を夜中に連れ出して……今なら眉をひそめる人も多いだろう。先日実家に行った際、これらの思い出をトシコに話すと「そんなこともあったねえ」と笑っていた。
悪い思い出ではないということは、当時トシコも「行ってらっしゃーい」と快く僕を夜中外に出していたのだろう。たぶん「マサルさんがそうしたいなら」と、笑っていたはずだ。
マサルはとても洒落ていて、着物をよく着ていた。見えないお洒落が大好きで「おい、裏地に刺しゅうがあるだろ? こうやって見えないところに凝るのが粋ってもんなんだよ」と、僕によく自慢していた。値段を聞くと、ウン十万もする着物だという。
トシコは「本当に困っちゃうのよ。お金なくなっちゃう」とこぼしていたが、言葉とは裏腹に満面の笑顔だった。こちらも「マサルさんがそうしたいなら」の笑顔なのだろう。
ひるがえって、互いのやりたいことに対して「あなたがそうしたいなら」と笑顔で協力できる夫婦関係を今、僕は築けているだろうか?
父は大らかな太陽だった
しつけや児童教育の本には載っていないやり方で僕を愛してくれたマサル。僕は本当にパパっ子だった。いつも冗談ばかり言い、よくからかわれていた。町中にある鉄塔を「ほら、東京タワーだぞ」と言い、「知ってるか? 大根って、柿みたいに木になるんだぞ」と真面目にささやいてくる。それを僕が信じ込むと、大笑いして喜んでいたマサル。
気がつけば、これらのイタズラは僕も5歳の息子によくやっている。あることないこと言ったり、からかったり。そのおかげで、今じゃパパの言うことを全然信じてくれなくなり、「まま、ほんとう?」と確認される始末。
平日週末問わず子どもと遊び倒すのも、マサルと今の僕と一緒だ。銭湯だゲーセンだ、お台場だスカイツリーだと僕はしょっちゅう子どもを連れて遊び歩いている。「子育てしてます」なんて言っているけれど、オヤジがしてくれたことを、まんま子どもにしているだけなんだと痛感する。
先ほど、僕が思春期でトシコの手を煩わせていた時期、マサルが「俺の女に何しやがるんだ!」とキレた、と書いた。「俺の女に迷惑かけんじゃねえ」と。そのくせ、一切の家事をやらなかったマサル。夕飯どき、ひとり晩酌をしているマサル。そのつまみを作るために台所を忙しく動くトシコ。
すると、ひとりで飲むのが淋しくなったマサルが言う「トシコ! お前も一緒にこっち来て、やろうよ!」。
「そんなことを言うなら、マサルも動けばいいだろう!」。何度そう思ったことか。身支度ひとつするのも、「あれがない、これがない」と騒いでいたっけ。その場にオフクロがいないのに、「トシコー! カフスどこだー!!」。本当に、うるさかった。
そんなマサルを反面教師にしてか、僕は一切の家事を担当する兼業主夫になった。有形無形の影響を受けているのである。
高校を卒業してすぐ、テレビ制作会社にADとして就職した僕。しかし3カ月で辞めてしまった。しかも親に黙って。
仕事はすぐに辞めるわ、かといって大学進学を考えてる素振りもない息子。そんな僕に「お前、何がしたいんだ!!」と怒鳴り散らしてくるかと思ったら、マサルは違った。何と1泊2日の箱根旅行に誘ってくれたのだ。旅行中、仕事を辞めたことには一切触れず、ただただ楽しく過ごすことができた。
将来に怯え悶々としていた18歳という繊細な時期に、マサルは不器用ながら寄り添ってくれたのだ。マサルはいい加減だったけど、やさしくて大らかな太陽だった。実家にいたときはあまりに近く、太陽は暑すぎて鬱陶しかった。
しかし家庭を持ち、遠く離れてからは、そのぽかぽかとした陽だまりのようなマサルの存在が心から離れない。そして死んでから一層、僕のなかでより大きくなっている。
マサルと最後に交わした言葉は今でも覚えている。正月に実家へ帰った僕はマサルと痛飲。ベロベロに酔ったマサルは「俺は3人も子どもいるけど、お前が一番かわいいんだよぉ」。
それから2週間後マサルはくも膜下出血で倒れ、そのまま死んでしまった。あのときは照れて言えなかったけど、オレもオヤジのことが大好きだよ。家族のなかで一番好き。それと、アンタみたいにひとりの女と息子からベタ惚れされるような男になれるよう、頑張ってみるよ。
(編集:榊原すずみ)
■村橋ゴローの育児連載
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