ここ4カ月間、私は完全な禁欲生活を続けてきた。誰かとセックスすることが頭に浮かぶことすらなかった。完全に自らの意思のよるものとは言えないかもしれない... 夏の初め、私はイギリスを離れてジンバブエにある父の家に引っ越した。1月にケープタウンで大学院に通い始めるまでそこに住んでいる。
引っ越す前は、イギリスのリーズに15年間住んでいた。10代をリーズで過ごし、大学もそこで通った。シェアハウスに、時には仕事仲間と住んだり、時には大学の友達と住んだりした。やりたいことを自由にして、何でも自分で決めた。
誰とも付き合わない時期がすごく長くて、セックスに対しては常にとても解放的だった。一夜限りの関係が多かったというわけではないけど、何回かはあった。出会い系アプリで知り合った人や、友達の友達とかとカジュアルなセックスを楽しんだ。何度か会ったらそれでおしまいの関係だ。
とても信仰深くて敬虔なキリスト教信者だった家庭で過ごした子供時代を考えると、信じられない。自分のセクシュアリティを探究できるようになったのは、実家を出てからだ。大学に入って初めて、無神論者である自分を受け入れ、キャンパスライフに没頭した。つまり、「デート」に明け暮れた、ということだ。
父親のもとに帰ることを決めたのは人生の次の段階を追求するためだったけど、実家を出て得た自由を捨てることも意味するかもしれない。不安な私を見て、友達は私の禁欲に向けた「カウントダウン」をからかうようになった。最後にセックスしたのは、ジンバブエ行きの飛行機に乗った日の朝だった。これから状況が変わるって時だったので、思い切り楽しまなきゃいけなかった。
こうして状況は一変した。友達の冗談はさておき、父のところでは好き勝手にできることは何もないとわかっていた。毎週日曜日は一緒に教会に行く。1人で外出することは許されない。先週バーベキューに行ったら、夕方6時には父から電話がかかってきて、居場所と帰宅時間を聞かれた。ここにいる間は、家族は私の身の安全に関しては超過保護だ。
最初は、だれかとセックスすることで得られた親密さが恋しかった。キス、褒め言葉、きれいだねって言われることとか。でも数週間たつと、実際のところ、セックスはほとんど恋しくないってことに気づいた。すごく驚いた。
イギリスでのカジュアルなセックスが楽しくなかったわけじゃない。というか、全部が「いい」セックスだったわけではないけど、健康的だったし、相手はみんな私や、私の体や、私が求めるものをわかってくれていた。でも4カ月たった今、同じような形でそれを求めていない自分がいる。
今の私は、自分のエネルギーを他のものに注いでいる。健康的な食事、運動、マインドフルネスを行うこと、それに書くこともずっと多くなった。別のところから満足感を手に入れるようになったのだ。
この視点の変化を言葉で言い表すのは難しいけど、もっと心が落ち着いたように感じる。これまでは、自分を認めてもらう手段としてセックスしていた部分があって、自分で思っていたほど自分のことを愛せていなかったってことに、気づいたんだと思う。1人でいることを余儀なくされたことで、今までとは違った物の見方ができるようになったように感じる。砂漠に行って食べ物も水もない状態で暮らすことで、自分を発見した人みたいに。ほら、『食べて、祈って、恋をして』(2010年に公開されたジュリア・ロバーツ主演の映画)に色々と出てくるような。
こんなことは、リーズにいたら自然に起こったりはしなかった。きっとあのまま悪い習慣を続けていたと思う。ここでは他に選択肢がなかった。なかには「ああ、家族と住むようになって、また信仰が深まったのだろう」って言う人もいるかもしれないけど、それは事実とまったくかけ離れている。単に、物事を少し違った目で見ているだけ。神様とは関係ない。
後悔していることは何もない。それに、マスターベーションはまだしている。実際、セックスよりもマスターベーションの方が好きかもしれない。自分の体が前よりもよくわかってきたし、たった2分間でも、セックスを最後までした時より得られるものが大きい。それに、オーガズムも恋しくない。だって、今でもちゃんとあるから。
1月に南アフリカに引っ越す時は、できるだけこの調子でがんばって禁欲し続けたい。自分の進歩も、自分に起きている変化も好きだから。今は私の考え方を変えられる人には出会わないと思う...でも、それは誰にも分からない。
セックス・ダイアリーは、ハフポストUK版に読者から無記名で寄せられたセックスに関するストーリー。ハフポストUK版に掲載されたものを、翻訳・編集しています。様々なセックスにまつわるストーリーを通じて、性にまつわる喜びや悩みをオープンに語り合おうという企画です。