私のパートナー、とてもとても大切な、そして心から尊敬する人。
私の妻であり、最大の理解者であり、すべてをさらけ出せる唯一の人、あずみさん。
その関係に触れる前に、私自身の人生の道のりを綴りたいと思います。
私は男性としてこの世に生を受けました。
幼少期、両親は仕事が忙しく、「男は男らしく、女は女らしく」というような明治生まれの祖父母のもとで育ちました。
祖父母は私にこの上ない愛情を注いでくれ、何ひとつ不自由のない暮らしをさせてくれました。私も祖父母が大好きでした。
ただひとつ、
心に抱き続けていたのは、私が男性として生まれてきたことに対する違和感でした。
ままごと遊びをしては怒られ、人形で遊んでいれば取り上げられ、「女がするようなことをするんじゃない!」。台所に入って手伝いをしようとしても、「男が台所なんぞに入るものじゃない!」と叱られました。
本当はピンクや赤のかわいいデザインの洋服が着たいのに、なんで私は着てはいけないんだろう。なぜスカートをはいてはいけないの?
幼い頃から精一杯、葛藤していました。
でも、大好きな大好きな祖父母を悲しませまい、と思う気持ちが強くなったのでしょうか。男らしく生きなければ、そうしなければいけない、と自分自身に言い聞かせる別の自分がいました。
そうして、いつしか私は世間で言う”ツッパリ”になっていました。
中学・高校時代、私の髪はリーゼントやパンチパーマ。
制服は長ランにドカン。
今思うと、本来の自分が望む姿と正反対の世界に身を置くことで、精神の均衡を保っていたのでしょう。
何度か仲の良い友人に「自分の心は女性である」ということを伝えようとしたことはあります。
でも怖くて…結局できませんでした。
そんな折に出会ったのが、あずみさんです。私が16歳のときでした。
私にとって彼女はとても癒やされる存在でした。
何が、どこが、そういうことでは語れない、ある意味不思議な存在でした。
アプローチは彼女から。
そのとき、私はとてもとまどい、悩みました。
私は女、はたしてこのまま彼女と一緒にいて良いものだろうか。
友達以上の男女の関係を求める彼女に、どう対応すべきなのか。
ずるずると時が過ぎ、一緒に過ごす時間が増え、いつしか私にとって彼女の存在が心の安定になくてはならない存在になっていきました。
また祖父母、両親のことを考えると、彼女と一緒にいることが私にとっても幸せなのかなと思うようになっていきました。
そんなある日、私は彼女と一夜を共にしました。
なぜ、そういう気持ちになったのか。
今でも正直よくわかりません。
そしてその後、彼女から妊娠を告げられました。
私は当時、専門学校を卒業し、柔道整復師として国家資格を取得したばかりの青二才。
日曜日は彼女に嘘をつき、新宿・歌舞伎町で女としての自分をさらけ出す日々。
そんなさなか、彼女の妊娠に加え、大好きだった祖母が亡くなる現実も重なり、どうしたら良いか、パニックになっていたことを覚えています。
彼女に嘘をついて男性として生きていくのか、本当のことを告白すべきか……。
考える時間は限られていました。
悩んだ末、私は彼女の夫となり、父として彼女のお腹の子を共に育てていくことを決意しました。
その日。
「子供が産まれた」との連絡が職場にありましたが、私は手術の助手についていて、駆けつけることができませんでした。
お産は命がけ。彼女はひとりで奮闘し、大切な子供を産んでくれました。
私が病室に到着したとき、彼女のベッドの隣にはベビーベッドがあり、産まれたばかりの赤ん坊が静かに寝ていました。
妻によると、へその緒が首に絡まった影響で、産まれた直後に産声を上げず、もうダメかと思ったとか。しぜんと涙が出てきたそうです。
どれだけ心細かったか。
それでも彼女は私に笑顔で「おつかれさま」と言ってくれました。
彼女の心の内を思うと、どう言葉をかけてよいものか。
ただ私はひとこと「ありがとう」と言ったのを覚えています。
産まれたばかりの息子は、とにかくかわいかった。
素直に愛おしい気持ちと共に、重い責任を感じました。
両親に子育てを手伝ってもらいながら、私たち3人の生活がスタートしました。
それでも私は、自分が女であるという気持ちを捨てきることはできず、相変わらず日曜日には彼女に嘘をつき、歌舞伎町に向かう生活を続けていました。
あずみさんは愚痴ひとつ言わず、いつも笑顔で子育てとパートに励んでくれていました。
彼女のお腹に子供がいるとき、そして子供が生まれて数ヶ月。
2人の交わりはなく、私としてはホッとしていた面がありました。
それでも年に数回の交わりはあり、そのたびに耐え難い気持ちが強くなっていきました。
もうこれ以上、自分を偽って彼女に嘘をつき続けることはできない。
そう思い、意を決して彼女に告白することにしました。
それは私が27歳のときでした。
「私は心が女性で、できれば女として生きていきたい」
あずみさんに伝えるのはつらかった。
彼女の夫であり、子供の父親として生きていく決意をしておきながら、女である私を秘めたまま墓場まで持っていけなかった。
情けない自分を責めました。
あずみさんはその日、涙して無言のままでした。
そして数日後、彼女は私にこう言いました。
「あなたは私に嘘をつき、私を今までの人生の中で一番傷つけた人。でもあなたのつらさ、子供を愛し、親として責任を全うしようとしていること、そして私のことも愛してくれているのはわかります。私は人としてあなたが好きで一緒になりました。だからこれからも一緒に生活していくことに決めました」
いつまでも忘れることのできないあのことば。
このとき、改めて彼女のやさしさ、すばらしさ……もう言葉にするには無理があります。
ただ、ただ、私は彼女に感謝しました。
その日、彼女に誓ったこと。
このことは息子が成人し、一人前になったら話そう。
それまでは周囲に一切話さない。
まずは子供に伝えること。
あずみさんにカミングアウトし、彼女がそれを受け入れてくれたあとも、私たちの関係はすぐには変化しませんでした。
とにかく若い私たちは自分のため、そして息子を育てていくために、精一杯働きました。
それでも、彼女に隠して、子供に寂しい思いをさせているとわかっていても、週に一度の歌舞伎町通いはやめられませんでした。
このときの感情はとても表現しにくいのですが、私にとって歌舞伎町に向かう習慣は決して遊びではありませんでした。
あずみさんにしか打ち明けていないのだから、職場や家庭で女性の格好やふるまいができるわけではない。
だから週に一度、見様見真似のお化粧をして、お気に入りのスカートをはいて、行きつけのバーでママと話し、お酒を飲み、“本来の自分”をさらけ出す。精神のバランスを保つために必要な時間だったのです。
あずみさんに告白してから二十数年、息子も成長し、嬉しいことに私と同じ職業を選択し、独り立ちを迎えようとする頃。
私はあずみさんと相談して、あの当時誓ったように息子にカミングアウトしました。
どれくらいの時間がたったでしょう。
沈黙が続いたあと、息子が口を開きました。
第一声は「いいんじゃない」
一瞬あっけにとられた後、
「人はそれぞれ個性があるよ。他人に迷惑をかけている訳じゃない。お母さんはさみしかったこともあったと思うけれど、受け入れた。ぼくも受け入れるよ。だってぼくのお父さんであることに変わりはないし、そもそも同じ人間じゃない。否定することは人種差別みたいなもの。これからもお母さんを大切にしてあげてね」
この時も、私はただひとこと、「ありがとう」としか言えなかったことを覚えています。
私が一番大切に思っていること。
〈どんな人であろうと人間であることに変わりはない。その人の長所を見よう〉
息子が産まれ、共に暮らしてきた二十数年。
“偽りの姿”でいた私に対して、彼の口から出たことばはほんとうにうれしかった。
まだまだ子供だと思っていた息子のことが、一人の人間として、大人として頼もしく思えました。
その後、私はホルモン療法をはじめ、周囲にもカミングアウトしました。
それまでは女性の姿で歌舞伎町に通っていたことをあずみさんに伝えられませんでしたが、「女性の格好をしたい。お化粧品とか、一緒に買いに行ってくれる?」と話し、近所のショッピングセンターに出掛けました。
見様見真似でしていた自分なりのメイク方法もありました。
でも私は自分の年齢に相応しいお化粧がしたかった。だからあずみさんのやり方を黙って一から聞いていたことを覚えています。
あずみさんは女性としての私に、ふるまいやファッションまで様々なことを教えてくれました。
ときに厳しく。
彼女が女性として生きる私のことを第一に思いやり、愛情を注いでくれている証です。
50歳を過ぎてホルモン療法をはじめたことは、私のキャリアにも影響を与えました。
39歳で開業した整骨院は軌道に乗っていましたが、ホルモン療法の影響で容姿が変化していくことをすべての患者さんが受け入れてくれるわけではありませんでした。
私は店を息子に譲り、柔道整復師の資格を活かし、すべてをオープンにしながら介護施設で働きはじめました。しかし、同僚に私のジェンダーを理解してもらうことが難しく、自分らしくいることもまた息苦しい面がありました。
そして昨年、現在勤めている歌舞伎町のデイサービス施設に転職しました。
歌舞伎町は懸命に生きている人を、国籍やセクシュアリティで差別しない街。
昔から大好きな街で、自分らしく働けていることを、あずみさんや息子も喜んでくれているんじゃないかなと感じています。
歌舞伎町で出会った友人を含め、周囲で私をサポートしてくれた方々、私を受け入れてくれた息子、家族に、心から感謝します。
なによりこんな私とずっと一緒にいてくれたあずみさん。
あなたがいたからここまで生きてこられた。
私にとって最愛のパートナー、あずみさん。
良き同志であり、女としての大先輩であり、良き母であり、最も尊敬できる人。
人を差別せず、偏見を持たず、いつも一個人として尊重しあえる人、その人の長所をしっかり見てあげられる、そんな人。
パートナーは、出会うものではなく、築くもの。
最後に私の恩師のことばを紹介します。
「愛はなくても悲しみや苦しみは存在するが、悲しみや苦しみの伴わない愛はない」
パートナーとは、いくつもの山を乗り越えてはじめ築ける、”人間同士の関係”なのだということを、あずみさんは人生をかけて私に教えてくれました。
私の大切なパートナー、あずみさんへ。
一緒にいてくれてただただ感謝。
「ありがとう」
》特集「家族のかたち」の記事はこちら。