社会の憎悪を超える武器としての「無知」 〜レペゼン地球セクハラ騒動を軸に考える〜

「#metoo」と「レペゼン地球」のどっちを知っておくべきなのだろうか。
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Bronek Kaminski via Getty Images

 

レペゼン地球炎上問題

数ヶ月前、レペゼン地球という音楽グループがセクハラ騒動で大炎上したことがあった。私もこの件については一通り目にしてとても差別的だと思ったし、炎上後もどんどん煽っていくスタイルに嫌悪感を覚えた。ドーム公演が中止になったと聞いたときには正直「ざまぁ」とスッキリした。

まあ、Twitterの噂も72時間、ということでそのうち忘れていたわけだけど、10月28日、HUFFPOSTからDJ社長がどういう意図をもって「でっちあげセクハラ炎上」をしたのか、というインタビュー記事が出た。

記事を読む時間がない人のために簡単に要約すると「面白いと思った」ということだ。本当にそれだけのようだ。そして、(本当にこのインタビューの通りのことを思っているなら)「#metoo」や「セカンドレイプ」という言葉も知らなかったそうだ。

インタビュアーの白河桃子氏は男女共同参画やセクハラについて積極的に世間に発信しているし研究もされている人だけども、DJ社長の発言にはかなり動揺した感じが伺える。

この「軽率さ」と「社会的問題に関する無知」についてはTwitterでも批判されていて、「ここまで無知だとは思わなかった」とか「ここまで話題になった#metooをネットで有名になった人が知らないことが驚きだ」というツイートが多い。

私自身も、この記事を読んで「素直に知らなかったんだなぁ」という脱力感があったし、TwitterやSNSでは「フィルターバブル効果」とか「エコーチェンバー現象」とか、自分の見たいものしか見えなくなる、というのは常識化しつつあるけど「#metoo」を知らない人が当たり前にネットで広報戦略を仕掛ける、ということに軽い恐怖すら覚えた。

でも、同時に私はこのレペゼン地球というYouTubeの登録者数が200万人もいるグループをセクハラ騒動が起きるまでは全く知らなかったし、彼らの音楽を聞いたこともない。レペゼン地球のファンからしたら「なんでこんなに有名なのに知らないの?」となるんじゃないだろうか。それこそ、私達が「#metoo」を知らない人たちに投げかけるような軽蔑した眼差しで。

ネットは広がっていない

私が子供の頃なら、CDが100万部も売れたら社会的に認知されるはずだし、(私は耳が聞こえないにせよ)どこかで誰もがメロディを耳にしたはずだ。でも、今はリスナーが200万人いようと知らない人は全く知らない。どうもネットでの盛り上がり、というものは「リアルでどれほど知られているか」ということと全く無関係に進んでいくようだ。

同時に、あれだけネットで炎上した「#metoo」や「#kutoo」もおそらく、約1億3000万人いる日本人の一部しか知らないであろう。もしかしたら1000万人くらいはネットでこの議論を目にしたかもしれないけど、残りの1億2000万人はほぼ無関心なんじゃないだろうか。レペゼン地球のチャンネル登録者が200万人いても、1億2800万人が登録していないのと同じように、だ。

本当に知るべきこととはなにか

人間は誰だって、自分の知っていることが大事だと思いたがるし、自分の知っていることを知らない人を蔑む傾向がある。だから、「#metoo」を知らない人に対してそれを知っている人に「教育してやらねば」と思うのも当然だし、レペゼン地球を知らない私に彼らのファンが「レペゼン地球を知らない無知なおっさん」と老害扱いするであろうことも当然だろう。

では、「#metoo」と「レペゼン地球」のどっちを知っておくべきなのだろうか。両方知っていたらいいんだろうけど、人間は無限の興味も、尽きない記憶力も、すべてを知るための時間も足りない。

私はいわゆる障害者差別の問題を話していて、「合理的配慮」だとか、「アクセシビリティ」だとか、そういう言葉をよく使うんだけど、おそらく、日本人の大半はこの言葉を一生に一回も使うことがないだろう。

また、盲導犬などの補助犬を飲食店が入店拒否するのも、交通機関が車椅子の人の乗車を拒否するのも立派な差別だ。以前、格安航空会社が車椅子の人が搭乗の際、自力で歩かせたということで(車椅子の人の対応を含めて)大炎上したことは記憶に新しい。だけども、これを「差別だ」と知っている人は案外多くないし、しょっちゅう拒否されて繰り返し問題になっている。これは国が方針を決めているんだから、日本人なら知っておかなければいけないことだ。

同時に、私はおそらくなにか知らず知らずのうちに法律違反をしているだろうし、無意識にSNSにアップされたら炎上しそうな危険行為もしていると思う。逮捕されなかったり炎上していないのは「たまたま」だっただけかもしれない。

車椅子を乗車拒否するドライバーを「プロのくせにそんなことも知らないなんて」と批判するのは簡単なんだけども、そのドライバーが私より頭が悪いか、というとそういう証左にはならない。あくまでも「たまたま知らないことがトラブルと噛み合ってしまったただけ」と考えることもできる。

レペゼン地球のプロモーションだって「たまたま」セクハラを題材にしなければ「無知」と思われることもなかっただろう。だから、レペゼン地球の炎上は一種の「事故」でしなかった、という見方もできるだろう。

情報の多さに窒息しないために

情報が無限に広がる現代社会だけども、人間の頭の容量は1万年前と変わっていないし、いくら時間を効率化できるといってもアメリカだけで1分に441万6720GBの情報がやり取りされる現状では文字通り「見えている情報」なんて砂漠の一粒の砂に等しい。そういう中で「社会全体が知っておくべきこと」をどう定義すればいいのかを定めるのはとても難しいんじゃないだろうか。

でも、直感的には「知っておくべきこと」と「そうでないこと」には明らかにランクがある。まず、一番大事なのは「自分の身を守ること」だろう。次に、身の回りにいる人のこと、仕事のこと、社会のこと…と積み重なっていくはずだ。身体性のあることから、抽象的なことへ向かっていく。

ここで一つ考えてほしい。あなたにとって「#metoo」はどのレベルで感じている「情報」だろうか。私にとっては「社会問題」なのだけども、多くの女性にとっては「自分の身を守る」レベルの話かもしれない。しかし、その女性の多くにとって、障害者差別の問題は「社会問題」だけども、私にとって障害者差別の問題は「自分の身を守る」レベルの問題だ。どちらに興味もないレペゼン地球ファンにとっては今回の炎上でドーム公演が中止になったことは「痛み」であるかもしれないけど、大半の人にとっては「問題」とすら感じない。

つまり、同じ情報を扱っていても、「身体性の有無」とか「興味の持ち方」で全く異なる受け止め方をするのが我々だし、その重み付けで理解しあえないということがグルグルとウロボロスのように渦を巻いている。

ここで「人間とは理解し合えないのだ」と絶望するのは簡単だし、たしかに理解し合うことは不可能に思える。だけども、一つ、この軸をなんとか持てないだろうか。それは「人を傷つけることを極力言わない」という綺麗事だ。

知らないことを蔑まない

どんどん社会は分断されている、と言われて久しい。そして、その分断を進める原動力はなにか、といえば「憎悪」だ。憎悪というのは、一度外に出してしまえば、それより大きな憎悪で返されてしまいやすいし、その言葉とは基本的に人を傷つける形で現れる。

無知に対して攻撃することほど簡単なことはないんだけども、指摘ではなく侮辱であるように思われれば、それは相手にとって憎悪の種となる

「#metoo」を知らない人に「そんなことも知らない差別主義者」という言葉を投げかけたとしたら、それで「#metoo」をポジティブに学ぼうとするだろうか? 知ったとしても、むしろ「うざいもの」として攻撃してくる可能性のほうが高い。

だから、正しい事を正しく伝えるためには、極力「人を傷つける言葉」を封印することが大事だし、そのためには相手への敬意を持つことが不可欠であるし、そのためには(ネット越しであれ)「身体性を持った人間である」という事実を常に念頭に置いて置かなければならない。

概念の存在にはとどまることのない憎悪をぶつけてしまえるが、身体性を持った人間に対して無限に罵るのは難しいであろう。それと同じことだ。例え、嫌いな人でも、いやむしろ、嫌いな人だからこそ「敬意」を持つことが、おそらくはこの世界の分断を超えるための橋となるだろう。これは綺麗事かもしれないけど、人間は綺麗事を言えるからこそ社会を変えることができたのだ。

だから、無知を知り、無知を許す。そういう「無知を知ること」の力を、今一度、深く思い返したい。無知であれ。それが私達の力になる。

さて、今回はこれくらいで。皆様、無知を信じつつ踏ん張っていきましょう。では。

(2019年10月27日noteより転載)