詩人から借りた10冊の詩集。意味にとらわれない「言葉」は時にわたしを助けてくれる

《本屋さんの「推し本」 ほんやのほ・伊川佐保子の場合》
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イメージ写真
Natalia Perlik via Getty Images

本のおすすめはむずかしい。  

「それってただの押しつけじゃない?」とか「ほんとうにいいって言える?」とか、頭の中がごちゃごちゃする。すすめてもらうのもうれしいけれど、なかなか読めなくて申し訳ない気持ちになったりする。

おすすめの中でも、紹介やプレゼントよりももっとむずかしいのが、貸し借りだと思う。

気前よくあげてしまえば、その後本がたどる道までは責任を持たなくてもいい。でも貸し借りということは、借り手が「読む」というプロセスを経て、持ち主に返す必要がある。その人がほんとうに読みたい本かわからないのに、「読む」ことへの義務のようなものが生じてしまう。だからむずかしい。

そうは言っても、本のおすすめや貸し借りはけっこう好きだ。

最近も、ある人に無理を言って10冊の本を借りた。

貸してくれたのは詩人で、借りた本はすべて詩集だ。

わたしは詩という種類の言葉にとても惹かれていて、でもどう読んだらいいのか分からないような、身構えた気持ちでいた。詩集を前にしては、いつも困っていた。だから、自身の詩集を出しているだけでなく、詩の合評会の主催もしているその人に、詩集をすすめてほしいとお願いしたのだ。

ある日、詩人は10冊の詩集を持って、ちいさなわたしの本屋に来てくれた。その人は、「こんなにたくさん貸すのは申し訳ない」と言っていたけれど、この本のなかに詩への、言葉への、なんらかのいとぐちがあるかもしれないと、期待がふくらんだ。

でも10冊を預かると、わたしはやっぱりすぐに困ってしまった。
「どれから読んだらいいでしょうか」

すると、その人は本の山から1冊抜き出してくれた。

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斉藤倫『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』(福音館書店)

詩人が帰ったあと、わたしはお客さんのいない店でその本を読みはじめてみた。それはやさしい物語で、しかも詩集でもあった。

物語は、語り手の「ぼく」と少年の「きみ」のふたりが、実際にさまざまな詩人によって書かれた20篇の詩を読むことで進んでいく。

「ぼく」は「きみ」に、詩集を渡す。
「ここんとこ、読んでみな。ラーメンくってるあいだに」

読者のわたしも、「きみ」とおなじように詩を読む。それから「ぼく」と「きみ」が話すことをまるで自分のことのように追いかける。

夢中で読んだ。読み終えて、わたしは、「なぁんだ」と思った。がっかりではなく、腑に落ちてほっとしたときの「なぁんだ」だった。わからないかどうかなんて、気にならなかった。

こうして紹介される20篇の詩と、「ぼく」と「きみ」が話す言葉は、わたしを「どうしたらいいかわからない」から自由にした。

 *

最近、「みんながいい本を読まなくなった」とか、「わかりやすい言葉ばかりではだめだ」とかいう話をきく。わたしはそういう話をきいて、そうなのかなぁ、そうなのかもなぁと思う。

一方で、わたしは本屋とはべつの仕事で、わかりやすい言葉のおかげでお金を稼いだりしている。

わかりやすい言葉と、いい言葉は対極にあるようにすらきこえるけれど、そうなのだろうか。その違いはどこにあるのだろうと、ここ最近ずっと考えていた。ずっと、頭で考えて、考えて、ピンとこなかった。

でも、その答えのかけらのひとつかもしれないものに、さっき、この本をめくりながら思い当たった。

つらい夜がある。朝がある。そういうとき、頭のなかはつよい「言葉」でいっぱいで、わたしはそれに振り回される。死ぬまでずっとそうなのだと、なかば諦めていた。

だけど、わたしはこのひと月くらい、おぼえている限りでいちばん落ち着いた日々をすごしている。いちばん幸せかはわからない。その時々の幸福があるから。でも安寧ってこういうことかと思う毎日をすごしている。

それは、いろいろな人や、できごとのおかげでもあるけれど、よく考えたらうまくいかなくて泣いたり、自己嫌悪した日もあるから、特別ラッキーな月だったというわけでもなさそうだ。

そのなかで、いつもと違うことがひとつあった。このひと月、わたしは回文をものすごく書いた。毎日ひとつ、ふたつ、みっつ……多いときには10個以上。泣けば「理不尽」とはじめ、自己嫌悪すれば「自己嫌悪」とはじめ、雨でお客さんがこなければ「雨」とはじめ、とにかく回文を書いた。そうすると、つらい気持ちもどうしようもなさも、どこかに行ってしまう。もちろん、気分がいいときも回文を書いた。

そうしているあいだに、わたしはどうやら回文に、「言葉」に助けられたらしい。

わたしをつらい気持ちにさせる言葉と、安寧をもたらす言葉にはどんな違いがあるだろう。
つらくする言葉は、意味がふくれあがった言葉なのだと思う。意味はふくれあがると、微妙なニュアンスだとかちょっとした色合いだとか、そういうものを極端にして、「わかる」か「わからない」か、「いい」か「わるい」か、二項対立で迫る。

でも安寧をもたらす言葉は、意味に支配されていない。音があり、形があり、繊細なイメージがあったりして、それを感じることができる言葉。それを感じられれば、「わかるかどうか」はそんなに問題ではなくなる。

生活していると、言葉の便利さや意味ばかりが気になってしまう。それはちょっと、しょうがない部分もある。でも言葉を便利に使うことだけに集中すると、意味は自分の持ちもののようにどんどん重たくなって、しまいには抱えきれなくなる。

だけどほんとうは、すべての言葉には音だって形だってあって、それは意味に支配されていないし、わたしにも、だれにも支配することができない。それを思い出せるような使い方が、できればいいだけなのではないか。

詩ってそういうものなのかもしれない。

つまり音や形があり、意味に還元されないすべてのものをふくんではじめて「言葉」であることを、忘れずにいられるもの。
それらすべてのイメージとしての「言葉」が、わたしたちを「わかるかどうか」や「いいわるい」という二項対立ののろいから、掬い上げ、拾い上げるのかもしれない。

本をすすめるのはむずかしいのだが、それでもすすめられることはうれしいし、どうしてもすすめたくなる本もある。

この本は、こどももおとなも、おとこもおんなも、だれもかれも、日本語を使う人がみんな読んだらいい。言葉に疲れたときや、言葉がわからなくなったとき、この本を開いたらいいと思う。そのあと、思いついたら、日記でも書いてみてもいい。詩でも、小説でもいい(もちろん回文でも)。

わたしはこの本を読んでうれしくなった。だから、そのあとの9冊を、わかったりわからなかったり、考えたり感じたりしながら、ゆっくりと読むことができた。それから回文を書いた。

貸してくれた詩人の古溝真一郎さんが、今度また詩の合評会をひらくという。私はそこに回文を持っていこうと思っていて、その日をとても楽しみにしている。

連載コラム:本屋さんの「推し本」

本屋さんが好き。

便利なネット書店もいいけれど、本がズラリと並ぶ、あの空間が大好き。

そんな人のために、本好きによる、本好きのための、連載をはじめました。

誰よりも本を熟知している本屋さんが、こっそり胸の内に温めている「コレ!」という一冊を紹介してもらう連載です。

あなたも「#推し本」「#推し本を言いたい」でオススメの本を教えてください。

推し本を紹介するコラムもお待ちしています!宛先:book@huffingtonpost.jp

今週紹介した本

斉藤倫『ぼくがゆびをぱちんとならして、きみがおとなになるまえの詩集』(福音館書店)

今週の「本屋さん」

伊川佐保子(いかわ・さほこ)さん/ほんやのほ(東京都中央区)

どんな本屋さん?

2019年2月1日、東京メトロ日比谷線小伝馬町駅より3分のビルの2階にオープンした会員制本屋です。入会資格は「なんだか本が気になること」。 

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(企画協力:ディスカヴァー・トゥエンティワン 編集:ハフポスト日本版)