“東京大氾濫“の危険も。江戸川区が「ここにいてはダメです」と水害ハザードマップで訴えたワケ

江戸川区が11年ぶりに改訂した水害ハザードマップの表紙中央に浮き上がる「ここにいてはダメです」のコピーが、話題を集めた。
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地球規模の温暖化によって以前は経験しなかったような大雨や河川の氾濫が頻発している。最近の台風はどうもこれまでと勝手が違う、凶暴性すら感じる、という人も多いのではないか。

例えば2018年の夏、200人以上の犠牲者を出した西日本豪雨では、10日間でなんと琵琶湖の水量の3倍もの雨が一気に降ったという。一瞬耳を疑うが、現実の出来事だ。

もはや気圧配置によって日本のどこを大雨が襲ってもおかしくはない時代が来ている。ゼロメートル地帯を含む首都圏においても「東京大氾濫」の危険性が指摘されている。

ところが、被害者になるまではどこか他人事で、「自分だけは大丈夫」と思ってしまう人が多数を占めるのも、また現実だ。

いったいどうしたら、「自分ごと」としてリアルな危機感を持つことができるのだろうか?

それは非常に高いハードルだろうか? あるいは思ったよりも平易に超えられることなのだろうか?

5月、江戸川区が発表したとたん、「ここにいてはダメです」という強烈なフレーズが大きな話題を集めた水害ハザードマップから考えてみたい。

小学生でもわかる言葉に置き換えたとたん大反響

行政が災害時に住民に避難を呼びかける際に用いられる「広域避難」という言葉がある。防災上は「住民が住んでいる市区町村の外に逃げる避難形態」(出典 朝日新聞掲載「キーワード」)と定義されるが、この言葉に馴染みがない、という人がほとんどではないだろうか。

最近、この言葉を巡ってある象徴的な出来事が起こった――。

「ここにいてはダメです」

5月20日、江戸川区が11年ぶりに改訂した水害ハザードマップの表紙中央に浮き上がる「ここにいてはダメです」のコピー。

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江戸川区公式HPより
江戸川区水害ハザードマップ

このハザードマップが配布されたとたん、ツイッターなどSNS上で「ここにいてはダメです」という言葉が拡散した。お役所「らしからぬ言葉」に大反響が集まったのだ。「よくぞ正直に隠さず言った」という賞賛の声、「行政の仕事の放棄では」という辛辣なコメント。さまざまな意見が飛び交った。

「小学生並みの言葉を使った完璧なハザードマップだと思う」

「忖度しても事実は変わらない。危ないとはっきり言ったハザードマップの意味は大きい」

「責任とりません宣言なのか」

「江戸川の不動産が値下がりしそう」

「逃げろと言うのはよいが、せめて他の市区町村と協定結で欲しい。受け入れ先がない」

「行政で対応出来ないなら、行政自体の存在価値はない」

さて、このハザードマップのページをめくると……荒川や江戸川など大河川の最下流に位置する江戸川区には「関東地方に降った雨の大半が集まる」とある。また、「区の陸域の7割がゼロメートル地帯」であると書かれている。だから、想定最大規模の巨大台風や大雨があれば「ほとんどの地域が浸水します」。墨田、江東、足立、葛飾を含む江東5区は浸水するので「とどまるのは危険です!」。

具体的、かつリアルで強い表現が印象的だ。

「広域避難」と「ここにいてはダメです」の違いはどこか

これまでお役所が使ってきた「広域避難」という言葉。それを今回は、「ここにいてはダメです」という小学生レベルの表現に変えたとたん、人々にメッセージが刺さった。賛否両論だったとはいえ、これまで自らの住む地域の防災にあまり関心を持っていなかった人の耳目を集める効果は間違いなくあった、と言えるだろう。 

では、「ここにいてはダメです」というフレーズはどうやって生まれてきたのだろうか?

いったいどのようにして、ハザードマップの表紙に登場したのだろう? 経緯を知るために江戸川区を取材した。

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山下柚実
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「実は広域避難という言葉については、わかりづらいのではないかという意見が前区長(2019年4月退任)の時から出ていたのです。『このままでは伝わらない』『つまり言いたいことは、ここにいてはダメ、という意味ですね』といった議論がありまして、今回11年ぶりの改訂のタイミングで、より正しく理解していただくためのハザードマップを作ることになりました」と危機管理室防災危機管理課・本多吉成統括課長は言う。 

そして、江戸川区防災アドバイザーでハザードマップ検討委員長の片田敏孝東大特任教授は「ここにいてはダメです」という言葉は当初ハザードマップに書いてなかった、とインタビューで語っている。敢えてこの言葉を加えたそのわけは……

「この言葉を加えた理由は、水害リスクを包み隠さず公表しなければ、早期の広域避難が実現できないと考えたからです。災害時に『役所が明確な避難指示を出さないから逃げない』という人は、目前に危機が迫った瞬間に役所のせいにして死ぬことに後悔はないのでしょうか。行政に依存する住民の意識を変えなければなりません」(「日経 xTECH」2019年6月7日)。

あらためて、「広域避難」という言葉を見てみよう。

広域=広い 

避難=逃げる

意味はわかるけれど、どこか曖昧だ。

どこへ避難する? そう、この言葉には「方向」が含まれていない。動く先のベクトルが欠けている。

だから、リアルな移動のイメージが喚起されない。

今もお役所の中で普通に使い続けられている防災用語の一つなのだが。

上層階へと逃げる「垂直避難」もダメです

タワーマンションや高層住宅に住んでいると、水害の時はつい「上の方の階へ」と逃げたくなるのが人間かもしれない。しかし、「ここにいてはダメです」というのは、上への「垂直避難」もダメということを意味している。

江戸川区は浸水時間が長く、ハザードマップによれば荒川や江戸川が氾濫したり、高潮が発生すると「長いところで2週間以上浸水が続く」と記されている。 

「台風などの水害は真夏の時期に起きることが多く、ライフラインが全部止まった中、トイレも冷蔵庫も使えない状態で1~2週間生活することを考えると衛生面からも危険性が高いことがわかると思います。ぜひ区外への広域避難を啓発したいのです」と本多統括課長は言う。

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江戸川区
江戸川区水没前水没前のイメージ
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江戸川区
江戸川区水没後のイメージ

時間軸こそリアリティ 自分ごとに惹き付けるポイント 

「外へ」という方向を示したこと。

加えてもう一つ、このハザードマップに注目すべき点がある。

それは、「時間軸」だ。

時の変化が一目瞭然でわかる、ということだ。

例えば、災害が予想される際の区のタイムラインを見てみると……      

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江戸川区
災害が予想される際のタイムライン

72時間前  江東5区で共同検討を始める。

48時間前  自主的な「広域避難」を呼びかける。

24時間前  「広域避難勧告」を出す。

9時間前   もはや広域避難は危険、緊急的な「垂直避難」の呼びかけ。 

刻々と時が進むにつれて、行政の発信は変化していく。その流れが具体的に記されている。

いや、行政の対応だけではない。このハザードマップには重要なタイムラインがもう一つ。

書き込み式の「わが家バージョン」だ。行政の情報とリンクするようにして、一人一人の家族の行動を書き込む形になっている。切迫感、臨場感をかき立て具体的なイメージを喚起する仕掛けだ。

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江戸川区
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まるでドリルのように時間軸に沿って家族一人一人の行動を書き入れる「わが家の広域避難計画」シート。またの名を「マイタイムライン」とも言う。

48時間前なら自動車で移動する。しかし24時間前は電車に……時間によって避難に使う移動手段は変わっていく。区民は70万人。江東5区で250万人。一斉に移動するとなると深刻な渋滞の発生が予測されるからだ。 

逃げる方向。

そして、時間の流れ。

「リアル」を作り出すヒントではないだろうか。

実感的な情報を受け取った時、それは「自分事」となる。

参考として私自身が暮らす杉並区のハザードマップを見てみると…「私の行動計画」という表があり「どこに避難する?」「持ち出すものは?」などを書き込む形になっている。

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江戸川区
私の行動計画

しかし、江戸川区のような時間軸による変化や、家族一人一人で違う行動を書き入れる欄、行政の動きと個人の動きが連動して見渡せる形式ではない。つまり「時間」「動き」の要素が少ない。

 今も半数の人が「すばやい避難はできないだろう」と思っている

とはいえ、江戸川区でも議論は始まったばかり。

「危険喚起はいい。しかし避難する受け皿も自治体が準備すべきではないか」という意見は根強くある。

「説明会の時に必ず出てくる意見です」と本多統括課長は言う。

 「自治体として、まだ十分な準備はできていませんので批判があることも予想しております。区としては、全域が水没するとなると公的避難場所をどうするのか、具体的な対処を決めるのはなかなか難しいという現実もあります。現在、国と東京都が首都圏における広域の避難について検討を進めている最中なので、状況をとらえて区として検討しています」

行政はしばしば、「ちゃんと全部の準備が整ってから情報を公開・報告しよう」と考えがち。しかし、今回江戸川区のハザードマップの場合は、準備が整うまで待とう、という姿勢を改めた点は注目すべきだろう。 

「区の防災アドバイザーでハザードマップ検討委員長の片田敏孝東大特任教授からアドバイスをいただき、最終的に、わかっている情報は全て出そうということを決めました」                               

江戸川区民を対象に重ねてきた説明会(6回)のアンケートを見ると、ハザードマップの内容について「よくわかった」「わかった」「どちらかというとわかった」という回答が、なんと92%に達している。

一方で、「広域避難ができると思うか」という問いに対しては、「48時間以上前に避難できると思う」「24時間以上前に避難できると思う」あわせて46%。ほぼ半数だ。

「裏を返せば、まだ半数の人がすばやい避難はできないだろうと思っている。その割合を下げていくことが私たちの仕事です」と本多統括課長。

 

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江戸川区
江戸川区はこれまでも水害に襲われてきた。利根川から水が溢れたカスリーン台風(昭和22年)
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江戸川区
平井駅前が水没したキティ台風(昭和24)

区に寄せられた不安の声も全て見せる 

5月20日から配布されたハザードマップはすでにテレビや週刊誌で取り上げられ、ものすごい反響があったが、「ここにいてはダメです」というコピーが一人歩きしたきらいもあった。

配布から2ヶ月ほど経った7月10日、広報「えどかわ」の表紙を区民の声が埋め尽くした。ハザードマップへの率直な意見が26件並ぶ。

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江戸川区
広報「えどかわ」の表紙

「寄せられた意見を区民の皆さんと共有し、より多くの方に水害への備えを考えてもらうきっかけになれば良いという思いで、広報に区民の意見を載せました。『江戸川区から一人も被害者を出したくない』という区長の強い思いがあり、敢えて表紙で取り上げる判断になりました」(江戸川区広報課)

命に関わる情報は、的確に伝わらなくては意味がない。

それを「自分ごと」としてリアルに感じ取るためのコミュニケーションはどうしたら生まれるのか?

江戸川区のハザードマップは、「いかに自分ごととして捉えるか」という課題に対して一石を投じたと言えるだろう。江戸川区民に限った話ではない。自然災害というものに対峙する基本姿勢としての問題提起だ。

そもそも人間とは、嫌なことを予見しかつ対応するのが苦手にできている。それを「正常化の偏見」(「正常性バイアス」)とも言い、人が陥りやすい心理だ。

「私だけは大丈夫」と思ってしまう偏ったバイアスを自覚しつつ、しかし本当に逃げるべき時には早急に動く。「ここにいてはダメです」というフレーズはそのことを端的に促している。

東日本大震災の際、岩手県釜石市で市内の小中学生、3千人ほぼ全員が自らの判断で避難して津波の難を逃れて助かった。「釜石の奇跡」として知られている事実。

実はその釜石で、2004年からコツコツと津波防災教育を子供たちに実施してきたのが、今回のハザードマップを監修した片田教授だと聞いたら、みなさんは納得するだろうか。

「ここにいてはダメです」の一言には、壮絶な自然災害の経験とそこから学んだ防災の文化が詰まっている。

災害列島に暮らすわたしたち一人一人への、切実な投げかけだ。

(編集:榊原すずみ @_suzumi_s