「可愛い」を言われるのも、言われないのもコンプレックスだ
誰もが褒め言葉と信じてやまない、「可愛い」の一言。
「可愛い」という言葉を今、私はあまり聞きたくない。
「可愛い」なんて言葉で、もう私を振り回さないで。
「可愛い」が疎まれると知ったあの日々
私は小さい頃、あまりピンクの服が似合わなかった。でも、ピンクが好きでよく着ていた。それなのに幼稚園くらいになると、いつの間にか周りの子たちが水色を着るようになった。
そして
「ピンクって子どもっぽい〜」
「ぶりっ子みたい〜」
そんな風に友達が言うので、私もいつの間にかピンクをあまり着なくなった。
今思えば、幼稚園の頃から、「女の子らしい」格好だと、媚びを売っているように思われたのはなぜだったのか疑問に思う。
どうして自分の好きな可愛い服を着られなかったのか、今となっては不思議だ。
「可愛い」を渇望したあの日々
中学生くらいになると、みんな恋バナをするようになった。誰が可愛いとか、誰がモテるとか。
私も好きな人がいた。好きな人に可愛いと言われたかった。でも、自分の名前が誰かの可愛いランキングに入ることはなかった。
男の子に言われることはなかったが、女の子には可愛いと言われることがあった。
でも、それはお世辞だと、よく言われる「女の子の可愛いは嘘」なんだと自分を卑下していた。
男の子の可愛いランキングに入らないと、可愛いの言葉に意味はないんだと思っていた。彼らのランキングに入らない私は、可愛くないんだと思っていた。実際、私は肌の色が黒かったし、それがとてもコンプレックスだったので、自分がランキングに入らないことも納得はしていた。「まぁそんなブスではないし、いいか」くらいに思っていたと思う。
でも、である。私はどうしてもそのランキングに入りたかったのだ。しかし、可愛いと言われるために行動しようとすると、「ぶりっ子」という友達の言葉が待っていて、素直に「男の子に可愛いと言われたい」という感情を実現するための行動をすることができなかった。「可愛い」が欲しいのに、それを手に入れる過程で笑われるのが怖くて、結局私は何も変わらなかった。
「可愛い」がなんの意味も持たないと知った
中高生になっても、私はあまり可愛いと言われることがなかった。「お前なんか、女として見れねーよ」といった言葉が私に飛びかかってきて、「うるさいな〜もう」と笑いながら、受け流していた。本当は心無い言葉に傷ついていたのだけれど、そんなそぶりを見せるのも怖くて、いじられ役の女の子、からかっても怒らない女の子、そういうポジションを獲得し、満足していた。それで、男の子の友達とも、女の子の友達とも上手く距離が取れるのではないかという私の作戦だった。
そんな中、私に可愛いと言ってくれた人がいた。毎日毎日、その人からの「可愛い」を私はずっと待っていて、家に帰るとウキウキしながらメールをしていた。
自分のことを可愛いと言ってくれる人がいるなんて思ってもいなかったから、この「可愛い」は特別だろうと、きっと私のことを好きだから可愛いと言ってくれるんだろうと思っていた。そうでなければ、私なんかに可愛いなんて言うはずがない…。
とても可愛い子なら、誰かから可愛いと言われても、自分のことを好きなんだろうなんて、誤解はしないと思う。たくさんの人に言われ慣れていたら、「そんなことないよ〜。ありがとう。」であしらえたのかもしれない。
でも、可愛いなんて言われ慣れていなかった私は恥ずかしい話、可愛いと何度も言ってくるあの子は私のことが好きなんだと勘違いしてしまった。実のところ、その子は私のことを好きでも何ともなかった。誤解した自分が恥ずかしくなったし、可愛いと言われることが怖くなってしまった。もう可愛いに期待なんてしないようにしようと思った。特別じゃなくても、可愛いが言えるんだってそう思った。
「可愛い」のランキングに組み込まれて
大学に入ったら、「クラスのあの子が七海のこと可愛いって言ってたよ!」と人づてに聞くことも、「七海ちゃん可愛いね」と直接言われることも増えた。初めは嬉しかった。でも可愛いに何の意味もないことをより痛感するようになった。だってみんな、気軽に「可愛い」って言えちゃうんだもん。あれだけ渇望していたのに、実際に「可愛い」と言われるようになって得たものは、虚無感だった。可愛いは特別なんかじゃない。可愛いなんて、気持ちがこもってなくても、誰に対しても、言おうと思えば簡単に言えるんだ。そう思った。
とりあえず「可愛い」の称号をもらった私は、ずっと入りたかった「可愛い」のランキングで上位になっていることに気づいた。「〇〇で一番可愛いと思う」と褒めてくれる人がいた。ずっとずっと入りたかった、ずっとずっと獲得したかった称号を手に入れた。そう思った。一番という言葉は、気軽に伝える可愛いよりも特別な気がした。
でも、でも、「〇〇な中で一番」だったら?もっと母集団が大きくなってしまったら?母集団が大きくなって、私が一番ではなくなってしまったら?そんな可愛いが、好きに繋がるなんて到底信じられなくなってしまった。もう可愛いに順位なんかいらないし、私の顔や体をそんなに話さないで欲しいなと思った。
この記事を見て、私のことを「うわ〜、可愛くない」という人もいるかもしれない。
ほら、「可愛い」のトーナメント戦で私は勝ち進めない。
どれだけ可愛いアイドルも、SNSの中では、「ブス」という誹謗中傷に晒されている。
クラス、仲間うちといった“ある集団”の中の「可愛い」も、より大きな母集団になれば、意味のない言葉になってしまう。
「可愛い」を巡る戦いに、私たちは望む望まないにかかわらず、常に晒されている。
この戦いを作り出しているのは誰か?人を外見で判断するのは、私たち人間の性なのか?
誰がこの戦いを生み出したのか、リングの外にいる観客は誰なのか。そんなことはもうどうでもいい。私はレースから棄権させてほしい。いつの間にか参加させられたランク付けの競争で、「可愛い」と言われても、言われなくても、あるのは虚無感だけだから。
私は特別な「可愛い」しか必要ない
でも、その一方で、私は可愛いと言われて嬉しいこともたくさんあることに気づいた。自分も可愛いと伝えたい瞬間がたくさんあることに気づいた。それは、どういう時なんだろう。少し考えていた。可愛いと言われて嬉しい時。恋人と過ごしている時、自分のお気に入りの服を着ている時、仲の良い友達と楽しそうに遊ぶ写真を誰かに見せる時。
そういった時に言われる可愛いには「愛しい」という気持ちが含まれていると気づいた。もちろん、私が大切な人に伝える「可愛い」もそこには愛しいという思いが混ざっている。
そして、何より人の評価とは関係なく、自分がご機嫌で過ごせている時、「私、可愛い」のだと気がついた。
きっとこれからも誰かが私を無理やり引っ張って、「可愛い」のリングに上げると思う。
でも、私はそこで勝ち負けが出てももう気にしない。
やっと私は、他人からの評価がどんなものであっても、自分だけの「特別な可愛い」を手に入れたのだから。
(編集:榊原すずみ @_suzumi_s)
コンプレックスとの向き合い方は人それぞれ。
乗り越えようとする人。
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それぞれの人がコンプレックスとちょうどいい距離感を築けたなら…。そんな願いを込めて、「コンプレックスと私の距離」という企画をはじめます。
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