子どもに一緒に遊ぼうと誘われて、遊ばないと言ったら(その理由が家事であろうと、ただ自分の気分が乗らないからであろうと)、親であるあなたは、自分に対してどんな気持ちを抱くだろうか。あるいは、子どもがいないあなたは、そんな親をどう思うだろう。親として取るべき行動リストが点滅し始め、「今の行動は、親としては黄色信号だよ、気を付けて」という声が聞こえたりしないだろうか。もっと子どもと一緒に時間を過ごしてあげなくちゃいけないんじゃないの、という声に、親として罪悪感を抱いたりはしないだろうか。
デンマークで子育てをしていると(というより、デンマークで子育てをしていてもと書いた方が良いのかもしれないが)とにかく頑張る親が多いという印象を受ける。たとえば、
・学校に入学してからも3年生ぐらいまでは毎朝親が教室前まで送る
・学童保育所へも親が迎えに行く
・習い事にも親が付き添い、習い事中もその場で見ている
・やる気があれば、スポーツのコーチを引き受けて毎週教える
・習い事のタームの終わりごとにBBQパーティなどを自発的に企画
・小学校低学年までは、放課後に遊ぶ約束を親同士が取る
・様々なクラスメートと放課後や週末遊ぶ約束を積極的にする
・誕生日会などの招待状からイベント内容まで親がほぼすべて準備
・低学年で出される毎日20分読書(音読)を聞く、宿題を手伝う
・担任の先生から学校のイントラネットに届く時間割表をチェック
・遠足時は給食をネット上でキャンセルし、お弁当やかばんの準備をする
・体操服の準備、学校図書館の本をかばんに入れる(よう指示する)
・週末、休暇中に子どもと一緒に時間を過ごすことが理想
・できればたまには早めに幼稚園や学童に迎えに行ってあげること
・できればたまには園をお休みして家庭で子どもと過ごすこと
・休暇中は当然、園や学童には子どもを預けず一緒に過ごす
・家庭では家事の手伝いをするように(楽しく)教える
・中学年ぐらいには、自分で自分のお弁当が作れるように教える
このリストをもっと続けることはできるけれど、これを見ただけでも、デンマークの親も、仕事をしながら、なかなか子育てに気合が入っているとわかっていただけるかなと思う。きっと日本では日本のリストが延々と続くのだろう(保育園児の荷物リストとか手作りバッグとか)。
子どもが就学前でベビーカーに乗っているならまだしも、小学校に入学しても、数年間は朝夕の送り迎えをしたり、6、7歳だと離れた友人宅に一人で自由に遊びに行くこともない。約束した友人宅へ一人で行かせるなら、始めの数回は、まず相手の親にSMSをして、着いたらまた返信をもらってというプロセスを踏んだり。それにどこか異常だと感じつつも、でももし何かあったら、それはわたしの責任だからと、万全に万全を期してしまう。
自分の取る行動、自分の判断が全て子どもの育ちに影響すると考えると、恐ろしくなる。その一方で、周りの親の気合の入れ具合を見ていると、私の考えは怠慢なのかとも思えてくる。
そんなとき、ある本を読んだ。
サラ・アルフォート著『もしあなたが自分の子どもの未来に決定的な影響を与えないとしたら』(2018)Zetland この本は、Zetlandというネットメディアでジャーナリストをしている、サラ・アルフォート (Sara Alfort) が、子どもの成長に、親の一挙手一投足が本当にそれほど強く影響しているのだろうか、という疑問を投げかけたもの。鋭い疑問や議論が展開されているこの本を、わたしは夏前に読み終え、とても感銘をうけたのだけれど、あまりにも混沌としていて上手く言葉にできないまま数か月が過ぎていった。
アルフォートがこの疑問について考え始めたきっかけは、ある時彼女が出合った一つの言葉だった。その言葉は Parental determinism 日本語に言い換えると【子どもへの親の影響が決定的であるという論】といえるだろうか。アルフォートの言葉を借りると、親は子どもに良い刺激を与え、継続的に修正しながら、幸せで、知的で、将来成功するよう子どもをつくりあげることができる、あるいはその反対も可能であるということ、つまり、親が子どもの将来を形成する最大の影響力を持つ、という考え方。そのために親(特に母親)は、妊娠中から胎児に良いものを摂取し、アルコールやコーヒーは控え、胎教に良い音楽を聴き、産後は母乳を与え、添加物のない離乳食を手作りし、食材はオーガニックにこだわり、寝る前には必ず本の読み聞かせをし、添い寝をし…などなど、もう書く必要もないと思うが、要するに子どもの未来に最大の影響力のある存在として、子どもの成長に良いと言われることを、財力と時間と体力の許す限り最大限に行うことが重要だ、という行動の根拠になっているものなのだそう。
この考え方は、イギリスのケント大学の教授である、フランク・フレディ(Frank Fredi)教授が2001年に発表した本、“Paranoid parenting” (妄想的な子育て)で明らかにした考え方だ。この傾向は、フレディ教授によると現在も引き続き加速しているという。例えば母乳を与えることが子どものIQや健康、情緒の安定に影響するとか、あらゆる研究結果に基づいた最新の知識に基づき、最善のことをしようという親の傾向はどんどん加速しているのだそう。そして同時に、この傾向は、親が子どもをあらゆるリスクから守ろうという行動にもつながっている。親はできる限りの努力をして、子どもにリスクがあると思われる場所や物から子を守り、警戒し、危険を取り除く。そしていつも「最悪の事態」を想定して行動する。だから親は守りに入ることが多く、重要なことは、とにかくとんでもない事態に陥らないことだと考え、子どもの行動に目を配る。そしてもしそれが失敗するようなことがあれば、大きな罪悪感を持つ。それは自分が子どもに最大の影響を与える存在だと信じているからだ。
このような不安やリスク回避、また子どもにとって最善のことをしてやりたいという親の願いは、上手くビジネスにも結び付いている。世の中にはありとあらゆる赤ちゃんグッズがあるが、これさえあれば便利とか、リスク回避できるというものだけでなく、知能開発や発達を促すものなど、親の不安や希望を上手く形にしたものが多い。専門家のアドバイスで作られたものだと知れば、間違いないはずと手に取ってしまう。育児経験が少なければ、自分で考えて判断することも難しい。そうして実際には使わずに終わってしまうグッズを山ほど買ってしまった新米ママ・パパは多いはずだ。
さらに、専門家の意見は子育ての日常にも忍び寄ってくる。幸せな脳は抱っこで育つ、日々赤ちゃんに言葉がけをして言語的刺激を与えましょうなど、専門書や専門家の意見を目にすると、思わず無視できないこともある。自分自身が目の前にいるわが子を見て判断するより、目の前にいない専門家の意見を取り入れてしまうのも、自分の判断が全て子どもの成長、未来に影響するという、ある種の恐怖心から行動してしまう。
しかし、だ。
こういった一連の行動について、アルフォートは疑問を投げかける。この親の影響力最大論は、本当に正しいのだろうか。アルフォートは作家でフェミニストのエリカ・ジョング (Erica Jong)がウォール・ストリート・ジャーナル紙に書いたエッセイ「母親の狂気」(Mother madness) を取り上げ、反論している。エリカ・ジョングによると、現代社会では、愛情で子どもを完璧に育てることができると考えられているのだそうだ。その考え方に大きな影響をあたえてきたものとして、70年代に現れたシアーズ博士夫妻が提唱する、アタッチメント・ペアレンティング(愛着形成の大切さ)が挙げられる。アルフォートもジョングも、愛着形成の大切さ自体に問題があるとは述べていないが、ジョングは、愛着形成のためにどれだけ努力しても、決して十分に与えられることはないと感じている現代の母親たちへの、社会的な期待について批判している。そして母親が常に子どもの要求に対して応えられなければならない、という状態は、女性解放の視点から見ると大きな後退であると述べ、「(女性に対して)『できる限りのことをすれば良いのです。ルールはないのだから』と誰かが言わなくてはならないのです」と述べている。
またアルフォートは、過保護に育てると子どもの自立心を育むことができないという育児論等にも触れ、わたしたち親は本当に自分がどう行動するかで、別の人間の未来にそれほど決定的な影響を与えてしまえるような力があるのだろうかと問うている。そして、わたしたちは本当にそういう存在(親)になりたいのだろうかとも。
子ども時代のトラウマについても、アルフォートの指摘は興味深い。著名人が子ども時代の親との関わりや、そこでトラウマになったエピソード等を語ることに触れ、全ての人生についての語りは、子ども時代のトラウマや、親との難しい関係性から出発し、それがその人の運命を決定するかのように語られるが、本当にもっと他の語りは存在しないのだろうかと問うている。実際に、人の育ちというものは、もっと複雑なものなのではないか、子どもは社会や様々な場面で出会う人々からも影響をうけるのではないか、そして、少し大きくなった子どもが、自分の意志で人生を切り開いていくという可能性を、わたしたちはもう完全にあきらめてしまったのだろうかと。
著書の中で、アルフォートはデンマークの子育て指南書の著者で、家族セラピストの イェスパー・ユール (Jesper Juul) にも意見を求めている。ユールは自らの著書は、親が常に子育てで参考にするものとして書いているのではないという立場だ。特に2歳以下の子どもがいる親には読んでほしくないと述べ、その理由として「まず、親子がふれあいを通して、互いを知り、理解することに時間をかけてほしい。子育ての様々な方法論について学ぶのは、その後で十分だ」と語っている。わからないことがあれば、育児書を読むより、夫婦で、家族で、また友人と話をしてみてほしいという。そして、「そもそも、親とはどういう存在でなければならないか、という問いへの一般的な答えは存在しないのです。愛情に基づいた関係では、正しい行動というものは不可能なのです」という。ユールによると、愛情に基づいた関係とは、恋人同士が互いを見つめ合うように、まず親が子どもを見つめることなのだそうだ。「もし自分の子どもにとって何が良いか判断したければ、それを子ども自身に問うのです。子どもに決めさせたら良いということではなく、子どもに対して、親であるあなたが耳を貸したということを踏まえて、そこで共に判断していくのです。」「正しさを求めるという考え方自体を止めなければなりません。」そう語るユールの言葉を、アルフォートは「そうしなければ、親子関係とは、何が役に立ったかということでしか判断できなくなる。そのような視点は、親が子どもを子育ての対象としか見られなくなるからだ」と補足している。
親の影響力最大論について、アルフォートは結局自著の中で論破することはなかった。やはり親の影響力は最大とは言えないにせよ、ある。そしてそれは比較的大きいと彼女は認めている。しかし、親の影響力だけが子の全てを決定するということには同意していない。親のコントロールの外にも、子どもの人生に影響を与えるものはあり、またどれだけ親がコントロールしようとしても、完全にそうすることはできないと述べている。そしてどんな親の影響があろうと、子ども自らが未来を切り開いていく可能性があるという指摘は、むかし子どもだった者としても、また常に自分は未熟だと感じている親としても、忘れないでいたいと思う。
どれだけ何をやってもやらなくても、常に付きまとう親としての不足感、罪悪感。その根拠を解き明かしてくれた本著。最後の部分で(ここでは詳しく書かなかったが)あまり歯切れが良くなくて、結局、親はどうしたら良いのかすっきり語られないまま終わっているところが、まさにこの本が育児書の対局にあることを物語っている。はっきりわかっていること、だれにでもあてはまることはないのだ。子どもを育てるということは、別のひとりの人間を育てるということで、それは、一人ひとりが時間をかけて子どもと向き合い、悩み、試し、ごちゃごちゃしながら、共に育っていくしかない。全てをコントロールできてますなんていう親はいないし、それはおそろしい妄想なのだ。そして、アルフォートが言うように、子どもたち、わたしたちの育ちは、親の存在だけに因るのでなく、自分自身でも切り開いていけるはずだということ、そして、様々なことが複雑に絡み合っているということを、心に留めておきたいと思う。
(2019年8月17日のnote掲載記事「罪悪感を持ち続ける親たち」より転載)