8月8日からNetflixで公開された『全裸監督』(全8回)は、「アダルトビデオの帝王」と呼ばれた村西とおるの伝記ドラマだ。ある世代以上のひとにとって、村西の存在はもはや説明不要だろう。その異様に、丁寧に話す独特のキャラクターは、地上波のテレビ番組にも頻繁に登場していたからだ。この作品は、ビデオデッキが右肩上がりに普及した80年代を舞台に、新たな性メディアで成り上がっていく伝説のAV監督を描いたものである。
黎明期のAV業界、裏社会を克明に描く
原作は、本橋信宏のルポルタージュ『全裸監督 村西とおる伝』(2016年/太田出版)だ。だが、このドラマはかならずしもこの原作に忠実ではなく、事実関係や時間軸は少なからず改変されている。登場人物も村西とAV女優の黒木香を除けば実名ではなく、あくまでも事実をもとにしたフィクション(「実話に基づく物語」)として創られている。
ドラマでは、村西ばかりに焦点をあてられているわけではない。たしかに山田孝之演ずる村西のキャラクターは独特だが、周囲のさまざまな関係者も丁寧に描かれている。たとえば、村西の会社スタッフ(玉山鉄二や満島真之介、伊藤沙莉など)、同業他社(石橋凌)、警察(リリー・フランキー)、裏社会(國村隼)、業界団体、販売店(ピエール瀧)、そしてAV女優(森田望智、川上奈々美)などである。そこでは、新しいメディア産業に群がり、翻弄されるひとたちの姿が活写されている。
この作品が極めて秀でているのは、黎明期のAV業界の状況をしっかりと描いているこの点にある。とくに当時のAV業界と裏社会や警察との接点は、原作では詳述されていない。独自にそうした側面を加えることで、このドラマは厚みを増した。村西の無鉄砲な欲望は本人の内から湧き上がるだけではなく、その受け皿となる他者や社会状況があるからこそ成立したのである。
加えて、AV業界をけっして明るくて素晴らしい世界などとしても描いていない。ここも原作ではさほど見られないスタンスだ。
とくに、転落していくAV女優・南みくの描写はシビアだ。借金まみれの彼女は、村西作品での本番行為によって警察に逮捕され、親にも仕事がバレてしまい、そのままフェイドアウトする。その展開はまったく救いがない。しかも、それを演じているのは現役AV女優の川上奈々美だ。ほかにも世間バレして会社を辞めた元AV女優も描かれており、このあたりも職業としてのAV女優のリスクの高さを意識的に描いていた。
「性の自己決定をする女性」としての黒木香
キャストでは、黒木香を演ずる森田望智が圧倒的な存在感を放っている。オーディションでこの仕事を勝ち取った彼女は、黒木と同じくワキ毛を生やし、本人にしか見えないあの過剰に上品な話し方で役に臨んでいる。それは、「熱演」といった手垢がついた言葉では語れないほどの水準だ。
黒木香は、村西を語るときにけっして無視することができない存在だ。飯島愛や蒼井そらなど、90年代以降はAV女優が一般のメディアに顔を出すことは珍しくなくなったが、その嚆矢であったのは間違いなく黒木だった。作中でも描かれているように、当時の彼女は『朝まで生テレビ』や『鶴瓶上岡パペポTV』に出演し、その独特の弁舌を披露していた。
本作はまだAVの世界に入る前の村西と並行して、黒木香の生い立ちも描かれる。非常に厳格なクリスチャンの母子家庭で抑圧されて育ち、そして「本当の自分」を探し求めた末に、彼女はAVの世界に行き着いたのだった。
一見すると、本作における黒木は母親の抑圧から解放された女性として描かれ、加えて男性を支配する女性──「性の自己決定をする女性」として描写されている。このあたりは、黒木に対してかなり好意的な解釈だろう。それは当時の彼女の評価とはほど遠いからだ。当時は、一般的には単なるキワモノの女性としてしか認識されていなかったからだ。
同時に、この「性の自己決定」にもひとつの留保が必要だ。やはりAVは、男性に向けた性的ファンタジーでしかないからだ。母親に抑圧されていたときも、そこから解放されても、常に彼女は男性を中心とした社会構造下に位置している。既存の基準(男性社会)までも変えることまではできないからだ。「性の自己決定」とはいえ、黒木における主体的なそれは当時の日本では極めて限定的にしか機能せず、従来の社会規範を強化する側面もあったはずだ。
よって、黒木のあの解放的な姿を見ても、簡単に腑に落ちないひともいるだろう。どこまで行っても彼女が出演するのはAVであり、そこに搾取の構造を感じ取ってしまうからだ。だが、絶妙なバランスで創られているこの作品は、観賞者にそうした感受をされることもおそらく想定している。
現代日本の“ギョーカイ作法”から解き放された作品
このドラマを観ているときに思い出すのは、90年代の同じ時期に公開されたふたつのハリウッド映画だ。ひとつがミロス・フォアマン監督の『ラリー・フリント』(1996年)、もうひとつがポール・トーマス・アンダーソン監督の『ブギーナイツ』(1997年)だ。ともに70~80年代にかけて性メディア業界を生きる男性を描いた物語だ。前者はアダルト雑誌『ハスラー』の編集人、後者はポルノ男優が主人公だ。
『全裸監督』のクオリティは、ともに高く評価されたこの両作にけっして引けを取らない。潤沢な予算で組まれた歌舞伎町のセット、入念に構成された脚本、ハリウッドのカラリストによる映像の色調整、そして映画の3倍以上の尺によって、かなりのクオリティに仕上がっている。
加えて、世界的にも知られる日本のアダルトビデオを題材とし、それをNetflixを通じてグローバルに展開している。テレビのスポンサーや放送コード、映画の製作委員会などを気にすることなく突き通している。そこに、さまざまなしがらみが透けて見える現代日本の“ギョーカイ作法”はまったくない。『全裸監督』は、これまでの日本では実現できなかった映像作品だ。
興味深いのは、それまでなかった性表現を成し遂げた村西とおると、これまでは不可能だった作品を創り上げた武正晴総監督をはじめとする『全裸監督』のスタッフが重なることだ。共通するのは、それぞれビデオと動画配信という新しいメディアで映像表現の可能性を求めていることだ。
映画、テレビ(放送)、ビデオと、映像メディアは拡大してきた。そして動画配信の黎明期である現在、そこで日本発のグローバルコンテンツが前世代の映像メディアを描いた作品であることは強い象徴性を帯びている。日本の映像産業が新たな歩みを始めた瞬間だと言っても決して大げさではないだろう。
『全裸監督』は国内だけでなく、海外でも評価は上々だ(たとえばアメリカのレビューサイト’Rotten Tomatoes’ )。公開から1週間たらずの16日には、早くもシーズン2の制作と公開も発表された。
その内容は、おそらく90年代以降のAV業界の状況を描くことになる。しかも、けっして明るい話にはならないはずだ。AV黎明期に大活躍した村西とおるは、90年代に入って大きな挫折をする。黒木香も、原作では酒浸りとなって表舞台から姿を消したと記されている。バブル時代の勢いあるAV黎明期から、開拓者が力を失っていくAV成熟期へ──シーズン2はそうした状況が描かれるはずだ。
近年のAV業界では、女優に対する出演強要が問題視され、引退後の作品の販売停止措置も制度化された。これまで手つかずだった女優のプライバシーの問題に、やっと業界が取り組み始めた段階だ。シーズン2では、21世紀になって顕在化したこれらの問題に繋がる90年代をどう描くかも注目される。
(編集:毛谷村真木 @sou0126)