山田参助『あれよ星屑』は含羞を帯びた痛切な鎮魂歌だ

“焼け跡の世界”戦後の日本で展開された性と死のリアリティー。
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山田 参助『あれよ星屑』(KADOKAWA/エンターブレイン)
Amazon.co.jpより

英語に「brothers in arms」という表現がある。ともに武器をとった仲間、戦友を指す言葉だ。一定年齢以上の読者なら、ダイアー・ストレイツの名盤のタイトルを思いだすかもしれない。戦場という極限状態を共有した強い絆は、文学や映画でも、男の友情を描く格好の題材となってきた。

『あれよ星屑』(エンターブレイン、KADOKAWA)は2人のbrothers in armsの友情を主題とした、いわゆる「バディもの」の傑作だ。ゲイ雑誌などで活躍してきた知る人ぞ知る漫画家だった山田参助は、この初の長編連載で一気に注目作家となった。

 

「焼け跡の世界」のリアリティー

単行本の帯に「焼け跡ブロマンス」「敗戦グラフィティ」とあるように、ストーリーの大部分は戦後の日本で展開される。復員直後、上京する汽車内で有り金をだまし取られた黒田門松は、闇市の屋台の雑炊屋で無銭飲食に及ぶ。地まわりのヤクザ、小津組とトラブルになったところで元上官の「班長殿」こと川島徳太郎と再会する。腕っぷしが強く、粗野で無学だが憎めない大男の元一等兵・門松と、英語と中国語に通じるインテリの元軍曹・川島を軸に、闇市で生業を営む人々や路上の娼婦、ストリップ小屋の踊り子たち、焼け出された孤児、刑事や進駐軍らが群像劇を繰り広げ、合間に戦中の回想が挟み込まれる。

まず特筆したいのは、「焼け跡の世界」のリアリティーだ。登場人物一人ひとりが、苦難と悲劇を背負いながら、それでも日々を生きていくしかない等身大の人間として丁寧に造形されており、息遣いが聞こえてくるようだ。作者の山田はインタビューで、戦後間もないころの映画などを愛好していること、この時代の資料を長年収集してきたことを明らかにしている。この蓄積が軍服など服装のディテールや終戦直後の生活のリアルな作画の土台となり、「空気」を再現する裏付けとなっているのだろう。人物造形に立体感を与える陰影のバランスも素晴らしい。酒におぼれ、死の影に囚われている川島でさえ、エネルギッシュな女たちに煽られるように時折、コミカルな明るさを見せる。

奔放なようで、計算しつくされたタッチの自在さにも舌を巻く。髭面の男2人の魅力を引き立てる濃度の高い劇画調をベースに、軽いギャグタッチやつげ義春風のキャラクターまで織り込み、違和感のないシームレスな1つの作品を形作っている。中国大陸の凄惨な前線や空襲時の回想シーンでは、圧倒的な画力が劇的な効果を上げている。

私の場合、初読の際にはストーリーとセリフの妙に引っ張られてページをめくらされ、再読、再々読で1コマ1コマ、その丁寧な仕事を楽しんだ。

一個のマンガとして見て、ストーリー、キャラ作り、セリフ、作画と、あらゆる面でここまで完成度が高い作品には滅多にお目にかかれない。単行本にして7巻、最初から最後まで一分の隙もない。

必然的要素である「戦争と性」

この作品の凄さは、そんな完成度を「戦争と性」という取り扱いの難しい問題を取り込んだうえで成し遂げている点にある。離れ業を可能にしているのは、作者の戦中・戦後の「現実」に対する理解の確かさと、セックスや男女関係の持つ、どうしようもない悲しみや残酷さ、滑稽さをありのままに受け入れる成熟した視点だ。

たとえば戦中の回想シーンでは、慰安所の様子や中国人子女に対する日本軍の残虐行為があからさまに描かれる。私が知る限り、これらは当時の実態に即したものであり、違和感は全くない。そうした事実を記した文献や資料を見つけるのはさほど難しくもないし、マンガを例にとれば当欄で紹介した『神聖喜劇』にもそうしたシーンは見られる。よほどの歴史修正主義者でなければ、ファクト自体は否定できないだろう。

『あれよ星屑』では、この「戦争と性」という題材が、断罪や正当化といった評価や価値観を抜きに、冷厳たる事実としてストーリーやキャラクター造形のなかに消化されている。その距離感の取り方はベクトルが変わってもブレず、ヤクザたちの猥談や、娼婦とストリッパーたちのあけすけで奔放な性のたくましさを描く場面でも貫かれる。「戦争と性」は、物語を前に進める必然的要素として、言い換えれば登場人物たちの人生の不可欠な一部として、作品のなかに組み込まれている。

この、性という他者との関わりが持つ光と影、愛と残虐性という2面を人間の本性として描き切る繊細にして大胆なドラマツルギーが、生半可な批判や反感を撥ね返す力強さ、説得力を作品に与えている。

「現代の価値観で評価を下さず、『事実』をもって語らしめる」という態度は、朝鮮人日本兵という極めてタッチーな題材においても変わらない。元特攻隊員にして背中に「七生報国」の刺青を入れ、自ら「……俺は日本人だ」と語る青年・ジャンヒ(木村)は、アイデンティティの揺らぎと自分だけ生き残ってしまった後ろめたさ、戦死した敬愛する日本人の上官への哀惜の思いに苦しむ。凡百の作家なら複雑骨折を起こしそうな複雑なバックグラウンドを持つこんなキャラクターすら、ごく自然な1人の男として溶け込ませるほどの懐の深さが、この作品世界には備わっている。

登場人物たちは、戦争という巨大な歯車に人生を狂わせられながらも、喜怒哀楽を抱えて命を燃やしている人間たちであり、たとえば「加害者と被害者」といった単純な構図や後付けの価値観に押し込められない存在感を放っている。

「成熟」と呼ぶもの

私は毎回、このコラムを「この素晴らしいマンガを広く読んでもらいたい」と願って書いている。今回は、その思いがひと際強い。もし未読ならこの夏、ぜひ手に取っていただきたい。

日本人にとって夏は、歴史を振り返り、鎮魂と平和に思いをはせる季節だ。歴史に多少なりとも関心を持つ者なら、8月15日の終戦の日は、戦前の日本の帝国主義がアジア諸国に与えた甚大な被害と苦痛を自覚し、2発の原子爆弾がもたらした惨禍を思い、戦争という愚かな道を再び取らずに済んだ戦後日本の歩みについて考える節目となってきたことだろう。特に今年は令和という新しい時代に入って初めての8月であり、私も例年以上に強くそうした義務と責任を感じている。

だが、残念ながら、先の大戦を巡る日本の社会の認識やアジア外交の現状は、硬直的で、どこか幼稚で、かつてより後退しているように私の目には映る。その反動的な動きに対抗して「謝罪と反省」を求める側も強硬姿勢を強め、「名誉回復」と「修正主義許すまじ」という対立は先鋭化し、溝は深まるばかりだ。一連の「表現の不自由展」の中止騒動や、悪化の一途をたどる日韓関係はそうした空気の変化の一表象であろう。

『あれよ星屑』の主題はブロマンスであり、「戦争と性」や戦地での日本軍の蛮行などは、いわば物語を構成する要素や舞台装置とも言えるだろう。それでも、門松と川島の絆がbrothers in armsという関係性に立脚している以上、戦中・戦後の日本の歴史の歩みと作品は切り離せない。

そんな本作は、すれ違いっぱなしでどこか上滑りしているような、先の大戦のいくつかのイシューを巡る昨今の保守とリベラルの非難合戦とは違い、読み手に重厚で、深く、それでいてどこか清々しい読後感をもたらす。

それは作者の山田が、現代の政治的視点を排し、ときに高潔でときに愚かな人間という生き物の本性を、本質に踏み込みつつも客観的な目で見つめながら歴史的事実の土台の上に物語を構築しているからだ。安易な肯定も否定もなく、ただ運命と意志のはざまで漂う人生があり、そこには笑いや含羞やある種の諦念のようなものが流れている。

「まじめな話は常にいくらかの笑いといくらかの含羞を帯びなければならない」と喝破した故山本夏彦の言葉通り、そうした深みがなければ、大人の心に響くような物語にはなりえない。本来、そこまで昇華させてはじめて語りえるほど、戦争というテーマは複雑で重いものであり、そうした形で語れるのを「成熟」と呼ぶのだろう。むやみに攻撃的な最近の一部論者の言説に私がうんざりするのは、内容の是非とは別に、その物言いの幼稚さが一因と常々感じている。

最後にネタバレにならない範囲で、純粋なマンガとして、この傑作のラストシーンの素晴らしさに触れておきたい。門松と川島の2人のブロマンスは、戦死した他のbrothers in armsたちを包摂するような形で完結する。それは、in arms という言葉が想起させる、無念に散った男たちをその腕にかき抱くような、痛切極まりない鎮魂の姿をとる。そしてその後に、したたかさと諧謔を帯びたエピローグが続く。記念碑的と言って良いほど見事なこの緩急に富んだ幕引きを、できるだけ多くの方に味わってほしい。

高井浩章 1972年生まれ。経済記者・デスクとして20年超の経験があり、金融市場や国際ニュースなどお堅い分野が専門だが、実は自宅の本棚14本の約半分をマンガが占める。インプレス・ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から出した経済青春小説『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』がヒット中。 noteの連載はこちら→https://note.mu/hirotakai ツイッターアカウントはこちら→https://twitter.com/hiro_takai

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(2019年8月15日フォーサイトより転載)