すべてのものが寝静まる丑三つ時。真っ暗な部屋にひとつの怪しい影。
物音も立てずにひたひたと枕元にやってくる。ふと、べちょりと頬に生ぬるい感触を覚えると、そこには……。
し、死にかけのネズミ!
Amazonで上級製品管理部長、ベン・ハムさんは月に何度も、息も止まりそうな最悪の事態を迎えていた。目を輝かせているのは愛猫メトリックくんだ。
そう、このメトリックくん、家猫にも関わらず野生本能が旺盛。狩りができないベンさんを哀れに思ってか、毎度毎度、狩猟の成果をおすそ分けしてくれるのだ。
猫は基本的に夜行性。当然“おみやげ”も夜中に運んできてくれることが多い。
この小さなアサシンと住んだことがある人なら、誰しもが1度は苦しめられたことのある悩みだ。
寛大な心で、与えるエサのグレードをアップし、メトリックくんに家で落ち着いてくれるよう頼んでも、「何の効果もなかった」と落胆するベンさん。
彼はこの悲劇から脱する方法を考え、様々な技術を使ったユニークなアイディアの発表する「Ignite Seattle」でその経緯を語った。
人間が対抗できる手段は頭脳だけ。仕方ないから機械学習をマスターすることに
ベンさんの思いついたアイデアは、「“おみやげ”を咥えているメトリックと、咥えていないメトリックを画像で診断し、“おみやげ”があれば即座に鍵をかける自動ドア」を作ることだった。
プログラミングに関しては素人だったというベンさん。Amazonの本社があるシアトルには、優秀なエンジニアたちがそろい踏みしている。
当初、画期的なアイデアの開発と実装をその誰かに頼もうとしたものの「自分でやれよ。やり方は教えるから」と一蹴されてしまったそう。
スヤスヤ寝ていようが、パートナーといちゃいちゃしていようが、お構いなしにベッドへ死んだ(時には瀕死の)ネズミや鳥を差し入れてくるメトリックくん。
「彼が普通にお家に戻ってくるか、私の夜が台無しになるか…」
迷っている時間はなかった。
必要に迫られたベンさんは、自力で機械学習の勉強を始めた。
さすがAmazonの部長。自社製品をフル活用
まず手に取ったのは、電子工作と言えばコレ!との呼び名も高いArduino(アルデュイーノ)。
この基板とシステムは2005年にイタリアで開発され、2009年ごろから世界的に広まったメカ好き御用達アイテムだ。
動作に必要な開発システムをアルデュイーノのサイトからダウンロードできるオープンソースハードウェアで、すぐに電子工作を始められるお手軽さが人気を呼んでいる。
ベンさんは、ドアの鍵にアルデュイーノを取り付け、さらにドアの上にはAmazonが発売しているディープラーニングのアプリ開発に使えるビデオカメラ「ディープレンズ・カメラ」を設置。
ちなみにこのアイテム、AI(人工知能)を勉強したばかりでも「クールなアプリを開発しつつAI、IoT、サーバレスコンピューティングのハンズオン体験を得られる」のだそう。
ドアが獲物を持ってきたメトリックくんの画像を検知すると、ドアは15分間メトリックくんを閉め出す。
この15分間でメトリックくんがあきらめてくれたらいいのだが、万が一の場合に備え、同時にベンさんに写真付きのアラートを送信する仕組みになっている。
15分あれば、ベッドから逃げ出すことも可能だ。
さらには、尊い犠牲となったネズミや鳥のつぐないからか、野鳥保護を中心に環境保全に取り組む全米オーデュボン協会に寄付をするよう設定されているという優れもの。
2万3000枚近くの画像を覚えたAIドア、素晴らしい効果を発揮
ベンさんは、AIドアに機能してもらうため、2万3000枚近くにのぼる途方もない数の画像をAmazonの機械学習ソフト「SageMaker」に読み込ませた。
「猫がいない」が6542枚、「猫はいるけどドアに向かってきていない」が9504枚、「猫が登ってくる」が6689枚、そして「おみやげを持ってきた猫」が260枚だ。
「よし、きょうはちょっくら狩ってくるか…」とメトリックくんがヤル気を出すのは月に数回程度で、かなり気まぐれ。
おしなべて10日に1回程度という。
このAIドアが動き始めてから5週間で、メトリックくんがおみやげを運ばずに穏やかに帰宅したのは180回。そして閉め出されたのは6回だった。
ただ、6回のうち1回だけ、アルゴリズムの不調によって、おみやげを持っていないメトリックくんが入れない出来事があったそう。
しかし、ベンさんは夜通しぐっすり眠るという幸せを手に入れた。
ベンさんは「ディープラーニングを学ぶ最高のモチベーションをくれた、フレッシュで恐ろしい獲物をプレゼントしてくれるメトリックに心から感謝したい」と語った。