コンプレックスというと容姿や学歴、家庭の経済状況などを思い浮かべる人が多いだろう。が、親の仕事である「農業」に対して強烈なコンプレックスを抱いて生きてきた人もいる。
恥ずかしい、絶対に継ぎたくない、とかたくなに拒絶してきた家業の農業。
ところがある時、どうしても向きあわざるをえなくなった。
それから18年--
いかにコンプレックスとの距離を測りながら農業を自分の仕事として受け入れ、さらにはプライドをもって語ることができるようになったのか。
その転換点はいつ、どうやって、訪れたのだろうか?
千葉県で年間約140種類の個性派野菜を栽培・収穫し、イタリアンやフレンチの人気レストランに販売。今や都市型農業の成功者として注目を浴びているタケイファーム・武井敏信さん(52)に話を聞いた。
「おまえんちは百姓だろ」という友達の言葉
「小学生の頃、両親はいつも畑にいて農作業で忙しく、父兄参観にもほとんど来てくれないし、運動会の応援をしてもらった記憶もありません。でもその頃は僕自身、農業に対する抵抗もなかったし、強い拒絶感は抱いていなかったと思います。
ところが中学生になると、状況が変わりました。友達から『おまえんちは百姓だろ』と言われ、家の仕事について意識するようになったんです。百姓という言葉に、バカにされているような気がして友達に農家だと知られるのがすごくイヤになりました」
もしかしたら、まわりも農家ばかりの環境だったらさほど劣等感を抱かなかったのかもしれません、と武井さんは振り返る。
実家は千葉県松戸市。電車に乗れば30分程で都心部にアクセスできるエリア。東京への微妙な「近さ」と、昭和40年代という経済成長の時代背景が、一種独特な社会環境を形成したのかもしれない。
「ちょうどその頃、周囲の畑が次々に一戸建てに変わっていきました。東京へ働きに行くサラリーマン家庭が増え、昔ながらの農業を続ける僕の家のような存在はむしろ特殊になっていったんです。
両親はネギと大根を交互に作って市場に出していました。当然ですが家も車もネギの匂いが漂っている。仕事では汗もかく。肥溜めもあった時代です。農業という仕事には独特の匂いがあり、それが『遅れた』『汚れた』職業というイメージと不幸にも重なりあってしまったのでしょう」
その頃の農業の一般的なイメージは、テレビによる影響も大きかった。
「『日本昔話』や『水戸黄門』の中で描かれる百姓は、いつも偉い人の前で地面にひれ伏す弱い立場。水飲み百姓とか百姓一揆という言葉から連想するのは、ぼろぼろの着物姿で貧しい人々という印象ばかり」
武井さんは父親に学校まで軽トラック車で送ってもらった時のことを今でも覚えている。軽トラが恥ずかしくて仕方なかった。
「どうしても友達に見られたくなくて、『ここでいい』と学校の手前で降りて歩いて行ったことを思い出します」
一番やりたくない仕事と、拒絶した農業
時代や社会環境によって子供たちは多大な影響を受ける。否定的な形で農業は武井さんの中に刻まれていった。
「畑からトラクターで帰る時、泥のついたタイヤで道路を汚してしまうことに、親はすごく気を使っていました。早朝から畑仕事をすれば騒音の元になる。新興住宅地の中での農家は、当時とてもネガティブで肩身の狭い立場だなと子供ながらに感じていました。今思うと、そうした一つ一つのことが積み重なってコンプレックスになっていったのかなと思います」
一番やりたくない仕事として、農業を拒絶した。
学校を卒業後は建設会社に就職し、さらに自動車の営業職に就いた。セールスマンとして成果を上げ店長にまで昇格。それなりに成功を収めた会社員生活は10年余り続いたが--。
「営業しつつ20人もの部下を使うという店長の仕事に、心底疲れ果ててしまったんです。もう限界で辞めるしかないというところまで追い詰められました。しかし、会社を辞めたとしても、どんな仕事をしたらいいのか。失業保険をもらいながら自分に合う仕事はないかと探しましたが、なかなか見つからなかった」
失業保険の支給期間も終わりを迎え、もうすべてを諦めた。
「希望も夢も一切を捨てた。仕方なく実家の農業を手伝うことにしたのです。それしか、選択肢がなかったんです」
消去法の結果、残ったのが「農業」という仕事だった。
コンプレックスそのものの仕事に、仕方なく向き合わざるをえない時がやってきた。
野菜創りが紡いでくれた縁
34歳で始めた農業。
しかし、人に「農業をやっている」と言うのが恥ずかしくて仕方がない。警察にスピード違反で止められた時も、職業を聞かれて「農業」と答えるのが苦痛だった。同窓会にも出ず友達と遊びにもいかず閉じこもった。
その上、農業の収益だけでは生活が十分成り立たず、夜の7時から夜中の3時までバイトをするというキツい日々が5年間ほど続いた。
「当時じわじわと注目を集め始めていたのがネットオークション。試しに野菜セットを出品してみたら、これが売れたんですよ。うれしくて、今でも最初のお客さんのことを覚えています。それからはオークション出品、ネットショップ、マルシェでの販売も少しずつ手がけていきました」
消費者と直接接点ができると、「野菜の味が濃い」「形や彩りがきれい」「また買いたい」と肯定的な声に触れることになる。
素直にうれしい。あれだけイヤだった農業の仕事が少しずつプラスの印象へと転換し始めた。
そもそも、自分の仕事を他人に言えない状態はおかしいと考えた武井さんが、立てた目標は3つ。
「農業の地位を上げる」
「農業でメジャーになる」
「自分の作った野菜を有名人に食べてもらう」
ある時、畑仕事で腰痛がひどくなり鍼灸院で診てもらった。鍼灸の先生がたまたま元巨人軍の王貞治さんと知り合いだという。
そこで武井さんは一か八かで、こう聞いてみた。
「私が育てた野菜を王さんに渡してもらえませんか」
すると「直接渡してみたら」という返事が戻ってきた。近いうちに王さんが鍼灸院を訪ねてくるタイミングがある、と言うのだ。
初めて野菜を食べてもらった有名人は王さん。
今でも王さんと撮った2ショットは武井さんの宝物。
「野菜がつないでくれたご縁です。これは普通のことではないぞ、と素朴に思いましたね。この写真を見せる時は、野菜を作っていることもごく自然にありのまま伝えることができました」
珍しい野菜を見つけると育ててみたくなる性分だという。稀少品種を研究し撒いた種は300種以上。個性的な野菜を追求しているうちに、地元ガス会社の機関誌の取材が舞い込んできた。続けてNHKの番組に出ることに。
少しずつ自信が沸いてくる。ネットショップの個人客も順調に増えていき、状況は好転し始めたかに思えた。
その矢先だった--。
大きなハードルが立ちはだかったのは。
日本一の売り場がコンプレックスを打ち消してくれた
「東日本大震災」という試練。
津波による原発事故の影響で、関東にも放射能のホットスポットができている、と報道されると、たちまち野菜の注文が止まった。
汚染とは関係ないエリアであっても風評被害はすさまじく、「関東産」というだけで他県から敬遠されてしまう。ネットショップでつながった個人客たちも離れていった。
いくら野菜を育てても、買ってくれる人がいない。
いったいどうすればいいのか。
この先、誰にどう語りかければよいのだろう?
わずかな販路としてつながっていた先、それはレストランだった。
生き残るために、レストランとの直接取引へ重点を移した。野菜の種類もプロ向けに絞り、レストランの皿の上からイメージしながら野菜を栽培した。徹底的に鮮度にこだわり、採ったばかりの野菜をその日のうちに出荷し、食のプロであるシェフたちに評価してもらう、という循環が生まれてきた。
タケイファームで栽培する野菜は年間140種類以上。今ではその95%をレストランに販売する。日本最大級のアーティチョーク農園としても知られるようになった(AGRI PICK連載「アーティチョーク生産の第一人者タケイファームとは?」)。
「転換点と言える出来事がもう一つありました。2013年の秋、新宿伊勢丹のバイヤーから連絡が入ったんです。『ぜひタケイファームの野菜を販売したい』と。新宿・伊勢丹のデパ地下といえば日本でトップを争うブランド的売り場で、高価な野菜がズラリと並ぶ特別な舞台です。私自身、常にベンチマークにしてきた売り場でした。
そこにタケイファームの野菜が並ぶ日が来るなんて、最初はちょっと信じられませんでした」
販売初日から客がひきもきらず、「午前中にこんなにたくさん売れたのは初めて」とバイヤーに褒められた。
「農業に対するコンプレックスが完全になくなったのは、おそらくこの頃でしょう」と武井さんは振り返る。
今ではタケイファームは超有名店やミシュランの星を持つ人気レストランなど40店へ出荷する人気ファームになった。
それでも地下足袋だけは履かない
社会を見回せば、東日本大震災を経て、農業は命と直結する大切な産業という認識も定着し、一方で新技術のAIやICT、ドローンの活用が見込まれる産業として期待されている。
武井さんの子供の頃と比べると、農業の地位はずいぶん上がったようにも見える。
武井さん自身、大学のMBAの講座で授業したり講演を頼まれるようになった。
武井さんの半生について聞きながら、「コンプレックス」を世に広く知らしめた心理学者ユングの言葉を私は思い出していた。
「自分自身との出会いはまず自分の影との出会いとして経験される。影とは細い道、狭き門であり、深い泉の中に降りていく者はその苦しい隘路を避けて通るわけにはいかない。つまり自分が誰であるかを知るためには、自分自身とつきあってみなければならない」(『元型論』林道義訳)
まるで武井さんの人生とぴたり重なりあうような言葉。
目を背けるのではなく影を見つめ、影に対峙し、深い泉へと降りていった。
その先に、見つかったのは大きく広がる空。
「でもね、地下足袋だけは今でも絶対にはかないんです」
と武井さんは笑って言った。
「そう決めているんですよ。もちろん地下足袋という履き物は非常に機能的で優れているからこそ、長い間使われてきたのだと思います。ただ僕にとっては、コンプレックスを強烈に感じてきた農業のイメージそのものというか、代名詞みたいなものなんです。
僕は、かつての農業のイメージを変えていきたい。子供たちが憧れるような、カッコいいイメージに書き換えたいんです」
だから足もとはフランス製の長靴。
「農業の地位を上げたい」と願う武井さんの、消せないこだわりかもしれない。
「野菜の栽培から始まり消費者の口に入るまでの流れを設計したい」という武井敏信氏は農業の社会的地位を上げる活動にも積極的に参加。
(編集:榊原すずみ @_suzumi_s)