7月12日に全国で公開された、『トイ・ストーリー4』を観た。
7月16日に発表された最新の映画観客動員ランキングでは、初登場で首位を獲得。興行収入はすでに28億円を突破し、最終的な興行収入が255億円となった2014年公開の『アナと雪の女王』の公開3日間のオープニング記録も上回った。
9年前に公開された前作の『トイ・ストーリー3』は、アカデミー賞長編アニメーション賞を含む2部門を受賞した。
物語はそれをもって“きれいに完結した”と感じていたので、正直、この最新作に何を期待して観るべきか、観る前は分からなかった。
それは、30歳である私自身が『トイ・ストーリー』という物語と共に成長してきたからこそでもあったと思う。
しかし、観た今ならばはっきりと言える。
最新作は、「日々葛藤を抱えながら生きる、“大人”こそ観るべきアニメーションである」と。
その理由を、3つのポイントに絞って紹介したい。
※なお、ここから先はストーリーの「ネタバレ」を一部含んでいます。
《1》“大人”だからこそ、今のウッディに感情移入できる
主人公でカウボーイ人形のウッディは、長年自分を愛してくれた持ち主・アンディとの別れを経験し、彼から譲られる形で少女・ボニーが新たな持ち主になっていた。
日本では1995年に初めて公開された『トイ・ストーリー』シリーズ。
おもちゃの視点から日常が描かれる中で大切にされてきたのは、“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”という考え。この概念は、最新作の序盤では変わっておらず、ウッディもそれが自分の使命だと、信じて疑わない。
しかし今作では、物語におけるウッディの立ち位置が大きく変わった。
ウッディはボニーのもとではもはや遊び相手に選ばれず、クローゼットの奥に追いやられる日々が続き、次第に自分の“アイデンティティ”を見失っていく。
これまで「誰かに必要とされること」を生きがいとしてきたのに、全く需要がなくなってしまったことへの喪失感が、ウッディの表情から伝わってきた。
仕事や恋愛、そのほか複雑に絡む人間関係...。
日常生活に置き換えて考えてみれば、「誰かに必要とされなくなる瞬間」はほとんど誰しもが経験する。
筆者の私も、まだ30年しか生きていなくても、過去を振り返ればそんな経験はいくつもある。
打ち込んできたスポーツでは怪我をしたことがきっかけに急にチームに必要とされなくなったと感じたことがあったし、長年交際した相手からは 「別に好きな人ができた」と突然言われて振られ、担当していた仕事を何の説明もなしに外されたこともあった。
そんな瞬間は、ある日突然やってきたりする。
ただ、人生において大切なのは、一度喪失感を感じた後に新たな生きがいや存在理由をどう自分で見いだせるかどうか、ということではないだろうか?
本作は、その方法をウッディというキャラクターを通して我々に教えてくれているように思う。
だからこそ、愛されなくなり自分の存在意義を必死に探すウッディの姿に、大人たちが感情移入できるのだろう。
そして、そのウッディの新たなアイデンティティを探す旅のきっかけを作ったのが、今回新たにシリーズに登場した「フォーキー」というキャラクターだった。
《2》「僕はゴミ!」と言い張るフォーキーに学ぶ、“自己否定感”との向き合い方
今作新しく登場したキャラクターのフォーキーは、少女・ボニーが初めて幼稚園に登園した日の工作の時間に作った手作りのおもちゃ。ゴミ箱に捨てられていた使い捨ての先割れスプーンを胴体として、モールで口や手が作られている。
“手作り”のおもちゃが登場するのは、95年に同シリーズが始まって以来初めてのこと。
手作りということもあり、ボニーのおもちゃの中で最も大切に扱われ、彼女にとっては無くてはならない存在だ。
しかし、当のフォーキーは自分の価値に全く気付いておらず、ゴミ箱を見つけると「僕はゴミ!」と言い放ち、自ら入ってしまう。
たしかに、“ゴミ“から生まれた存在ではあるのだが、この行動は非常に強い“自己否定感”から生まれているのが特徴的だ。
フォーキーが発する“ゴミ”という言葉に初めて聞いた感覚がなかったのは、前作『トイ・ストーリー3』に登場していた悪役のロッツォの存在を思い出したからだろう。
過去に持ち主に捨てられたことから性格が歪んでしまったロッツォも、「俺たちはみんないつか捨てられるゴミだ。それがおもちゃなんだ!!」と言っていた。
「根深い“自己否定感”と、どう向き合っていくのか?」という問い。
ここにおいて、3作目と最新作との繋がりを感じることができる。
「どうせ自分なんて」と他人と比べて自分のことを卑下したり、他人から裏切られるなどして人間不信に陥ると、自己否定感を抱いてしまう。
そんな経験もまた、誰しもが持っているのではないか?
物語では、持ち主に愛されなくなったウッディが、一方で愛されるフォーキーの価値を理解しその存在を肯定する。
「君はゴミなんかじゃない。ボニーの大切なおもちゃなんだ。幸せな思い出をボニーと一緒に作るんだ...」
フォーキーはウッディのこの言葉によって新たな存在価値に気付き、これ以後、ゴミ箱に向かうことが無くなる。
他者から肯定されることが、自分すらまだ気付いていない新たな可能性を見出すことに繋がるのだろう。
そしてウッディは、ボニーが大切にしているフォーキーを守ることを通して、失いかけた自分のアイデンティティを再び取り戻していったのではないか。
ウッディとフォーキーが並んで手を繋ぎ夜のハイウェイを歩くシーンは物語のハイライトの1つだが、このシーンでは、我々がコンプレックスが渦巻く社会を生きる上で必要な、“誰かに肯定される”ということの重要性を暗示していたように思う。
《3》ボー・ピープが示した、定義できない「幸せの多様性」に共感できる
『トイ・ストーリー』の物語が3部作で完結せず4作目が描かれた理由の1つは、ボー・ピープというキャラクターの存在があったからだ。
ボー・ピープは、本シリーズの1・2で登場したキャラクター。ランプ飾りの羊飼い人形(女性)で、ウッディの仲間として、彼と心を寄せ合っていたが、“ある事情”で離れ離れになった。
そのため、3には登場していなかった同キャラクターについて、本作のジョシュ・クーリー監督は「私たちは、ボー・ピープを(今作で)再登場させたいと考えました。ウッディの人生において重要な形で二人の再会を描きたかった」と語っている。
ウッディとボーの2人は、『セカンドチャンス・アンティーク』という店舗で再会を果たすが、筆者の私が本作の中でもっとも感銘を受けたことは、ボーの価値観が驚くほどアップデートされていた事だった。
ウッディが自身の考える“おもちゃの使命”をまっとうしてきた間、一方のボー・ピープは、与えられた(もしくは与えられたと思い込んでいた)役割から逃れ、外の世界に飛び出して運命を自ら切り開いて自由の身になっていた。
「子供部屋にこだわる必要はない。だってこんなに広い世界があるのよ?」
ボーがウッディをこう諭す場面は、とても印象的だ。
『トイ・ストーリー』がこれまで大切にしてきた“おもちゃにとって大切なことは子供のそばにいること”という概念は、見方を変えれば、おもちゃは“子供に常に依存する存在”とイコールになる。
ボーはウッディが大切にしてきたその概念を半ば否定して、代わりに持ち主のいない“自由なおもちゃ”になる道を選択したのだ。
“子供たちにとっておもちゃはどう在るべきか”という事を描き続けてきた『トイ・ストーリー』において、ボーという女性のキャラクターが“おもちゃの在り方”を覆した事は、人やモノにとっての幸せのかたちはそれぞれで、定義できないものであり、多様であるという価値観を新たに示したことになる。
近年のディズニー作品では、大ヒットしている実写版『アラジン』のジャスミンもそうであったように、女性のキャラクターを通じて抑圧された境遇から自由になることの大切さを描く手法は、特徴の1つになっていると言える。
ボーの姿に感化されたウッディが、おもちゃとしてどんな人生を今後歩んでいくのかという物語の結末は、劇場でぜひ楽しんで頂きたい。
最後に紹介したボーをはじめ、ウッディ、そしてフォーキーの3つのキャラクターに共通しているのは、“一度は誰からも必要とされなくなった経験を持つ存在”ということだ。
社会で生きていく中で、自分は「不必要な存在」だと感じてしまったり、またそのレッテルを他者に貼られてしまうこともある。
“誰からも必要とされなくなる”という事は、人生におけるコンプレックスになり得ると、私は思っている。
もし、そんな風に今悩んでいる人がこれを読んでいたとしたら、『トイ・ストーリー4』を観てみてほしい。
きっとおもちゃたちが、コンプレックスと日々向き合う多くの大人たちにヒントを与えてくれるだろう。
(文:小笠原 遥 @ogaharu_421)