「あなたはこれまでの裁判のなかで『いまの日本の社会はHIVに対する差別や偏見が強い』と、繰り返し述べています。感染していない人がね、感染者からウイルスをうつされたくないって思うのは差別なんですか?偏見なんですか?」
「あなた以外の他の人は、自分自身を感染から守っちゃいけないんですか」
この発言は、HIVキャリアで服薬を続けている北海道の30代男性に対し、法廷の場で投げつけられた言葉だ。
男性は、採用面接でHIVキャリアであることを告知せず、カルテを確認された後に内定の取り消しをされたことを不服として札幌地裁に訴えを起こしている。
訴訟では、男性が服薬を続けており、血液中のウイルスが「検出限界以下」、つまり血液からはウイルスが検出できないレベルまで消えていることが証拠として提出されている。
「あなたのHIVのウイルスって、他者に感染する可能性は無いんですか。完全に?」
被告側代理人からの質問に、男性は「ないと聞いています」と答えた。
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※AIDS/HIV……HIVとは、Human Immunodeficiency Virus(ヒト免疫不全ウイルス)のこと。ヒトの体をさまざまな細菌、カビやウイルスなどの病原体から守ってくれる細胞に感染するウイルス。
治療をしなければHIVが増殖。徐々に免疫に大切な細胞が減り、普段はかからないような病気にかかってしまう。この病気の状態をエイズ(AIDS:Acquired Immuno-DeficiencySyndrome、後天性免疫不全症候群)と言う。代表的な23の疾患を発症した時点でエイズと診断される。
服薬治療をすれば、ウイルスが増えないのでエイズも発症せず、他の人へ感染もしない。そのため早期発見のための検査が重要だといわれている。
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HIVに感染しても、服薬していれば男性の言う通り日常生活でも、体液に触れたとしても感染の心配は全くない。
治療の最前線はいまどこまで進んでいるのか。
国立国際医療研究センターにあるエイズ治療・研究開発センター長の岡慎一さんに話を聞いた。
血液や精液などの体液からもウイルスが消える。「検出できない」=「感染しない」
ーー治療すると、ウイルス量はどのくらいまで下がりますか。感染症のリスクは。
服薬治療をすると、ウイルスの数は一気に減っていきます。
治療しなければ、血液1㏄あたり10万~100万のウイルスがいます。それが治療すればいなくなる。いつどれだけ血液を採ろうが、いなくなっちゃうんです。
血液や体液中に現れることはなくなる。「検出限界以下」となる。
そうなると、相手にうつらないんです。血液からも、精液などからもウイルスが消える。コンドームがなくても、まずうつらないレベルです。
ーーしかし、「うつらない」と説明しても、なかなか納得されない社会です。
そうですね。正しい知識が広がっていない。
世界的にはいま、U=Uと言われています。Undetectable = Untransmittableという言葉です。
Undetectable、つまりウイルスが「検出できない」ならば、Untransmittable、「感染することはない」という意味です。
これはとても強い意味があります。感染しないのだから、差別されるゆえんもない。
感染者個人にとっても「パートナーにうつるかもしれない」という不安は、すごいプレッシャーなんです。しかし、治療さえ受けていればその不安からも解放される。
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医学雑誌The Lancetの6月15日号に掲載されているロンドン大学ユニバーシティー・カレッジのアリソン・ロジャー氏の研究では、コンドームを使用しない性交渉でもウイルスが「感染できない」ことを明示している。
ロジャー氏のチームは、8年にわたってヨーロッパの男性同性愛者カップル約1000組を対象に研究を行った。
カップルの一方はHIVキャリアで服薬をしており、パートナーはHIV陰性だった。申告されたコンドームを付けない性行為76088件のうち、HIVの感染は0件だった。
服薬をしなかった場合の数値ではあるが、男女のカップルの場合、男性同士のカップルよりも感染率が低い。つまり、男性同士のカップルで証明されれば、それよりも感染率の低い男女カップルでも同様の結果であることが分かる。
この8年にわたる研究の成果は、U=Uの理論を支える決定的な証拠となった。
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なぜ医療機関でも無知からくる差別が起きてしまうのか
ーー治療の現状とは違い、医療機関では透析治療を断られたり、就職を断られたりすることもあります。
断られるという事態も、まだまだあるのが現状だと思います。医療機関だけでなく、一般企業でも同じです。
U=U運動があるといっても、皆がみんな知って理解しているわけではない。もっと、この知識が認知されていけばと思っています。
そもそも医療機関だからHIVキャリアの方の就職が良い悪い、なんてことも全くありません。医療機関に勤めることは全く問題ないんですよ。
医者だろうが看護師だろうが、そのほかの職種だろうがどう働いたって問題ありません。性行為でもうつらないし、医療行為でうつることもありえません。
これは、ずいぶん前から言われていることですが、頭で分かっていても、心で許せないのか、そういうスティグマというのはなかなか解消が難しいですよね。
まだ一般の社会ではエイズ、HIVというと20~30年前の「死に至る病」という暗いイメージしかない。それが刷り込まれていて、かつ日本は患者数が約3万人と多くないため、医療機関ですらまだ患者としてエイズの発症者やHIVの感染者が来たことがないという病院がほとんどです。
そうした医療機関の医療従事者は、身近なものではないエイズ/HIVを勉強しないので、知識としては昔の怖かったイメージをずっと引きずってしまう。そういう状態が根本にあると思います。
日本は完璧主義者が多いようで、U=Uと言っても「100%じゃないでしょ?」と言われるわけです。ゼロの可能性を「万が一」として言い続け、差別偏見を助長してしまうんです。
もし医療機関にHIV感染を知らないエイズ発症患者が来ても医療者側が「予防薬」を飲めば感染は防げる
ーーエイズの発症患者が救急搬送された場合、針刺し事故、流血した際の血液感染を防ぐ方法は。
例えば、医療現場だったら針刺し事故があるかもしれないと言っていますが、抗ウイルス剤を服用しているHIV感染者からの血液であればまず感染しません。
感染している人が病院に来ているということは、治療をしているということ。エイズを発症してHIV感染を知らず、体内のウイルスが多い人がいきなり来た場合は感染リスクはありますが、万が一針を刺してしまっても、患者に処方している治療薬と同じものをすぐに飲めば感染しません。
予防薬として医療者側が飲めば大丈夫です。
これはPost Exposure Prophylaxis(抗HIV薬の曝露後予防内服)、PEPと言います。
多くの病院は、ここもそうですがPEPの準備をしています。患者が多く来るところや、救急で運ばれてくる場所なんかには必ずPEP薬がスタンバイしてあり、すぐに手に取って飲めるようにしてあるのです。
もしPEP薬のない病院でも、近くのエイズ治療拠点病院に行けばもらえます。なんらリスクはないですね。
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HIV内定取り消し訴訟では、エイズを発症しているわけでもなく、かつHIVの感染を分かっていて抗ウイルス剤を服用している男性に対し、医師が「防御服」を着て診察にあたっていたことも口頭弁論で語られた。
裁判では、それについて病院側の代理人弁護士が「この医師のやり方、完全防備対応って差別とか偏見なんですか。あなた以外の他の人は、自分自身を感染から守っちゃいけないんですか」と、男性に畳みかけるように質問した。
しかし、医療者が持つべきは特に必要性もなく患者の尊厳を傷つけるような仰々しい防御服ではなく、正しい知識とPEP薬であることが分かるだろう。
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世界ではウイルス感染の危険が起きる前に予防できる薬を飲むのが常識
ーー予防法は、ウイルス曝露後のタイミングしかないのでしょうか。
先ほど、PEPのお話をしましたが、Post(曝露後)ではなくPre(曝露前)に飲む薬、PrEP(プレップ)があります。
相手がどうであれ、自分が予防薬を飲んでいればうつらないんです。
色んな方法がありますが、デイリープレップだと毎日1回飲み、確実性が高いです。オンデマンドという方法では、感染の可能性がある性行為の少し前に飲み始める。
避妊のピルと同じような感じですね。避妊薬は世界でいろんな種類が出ているように、PrEP薬もいろんなものを作ろうと開発が進んでいます。
錠剤だったり、膣錠だったりフィルムだったり。しかし、日本ではPrEPという方法すら認可になっていません。
ーーPrEPに注意点はありますか。日本で使いたい場合はどうすればいいのでしょうか。
PrEPは、HIV治療で使う薬よりも量が少ないです。3成分ではなく2成分です。
日本で使いたい場合は、方法としてはインターネットで海外から購入するしかない。
またPrEP薬にはHIVを抑える効果があるものの2成分だけですので、感染していた場合にPrEPを飲むことで薬剤耐性がついてしまい、薬が効かなくなる危険がありますので、定期的な検査が必要です。
定期的に検査をすれば、他のSTD(性感染症)も分かったら早く治療される。良いこと尽くめなのですが、なかなか日本では難しいようです。
PrEPは、世界44カ国で導入されています。なので、国も前向きに考えてほしいと期待しています。WHOが2016年に“Strong recommendation”として勧告を出しているわけです。
日本は、予防についても検査についても遅れていますね。治療は進んでいるんですが。
治療をすれば感染者が増えないのに、毎年新たな感染者がいるのはなぜ?
ーー日本では、HIV感染が新たに分かった患者が年間1300~1500人前後います。なぜ10年近く、新規感染者数が減少しないのでしょうか。
検査体制が整っていないから、というのは大きな要因です。
HIV感染を知らずに、治療をせず感染を広げている人が多いということです。
例えば、検査でも無料匿名で保健所でできますよ、と呼び掛けていますが、月1、2回、1時間くらいしかやっていない自治体ばかり。そんなに制限しておいて「カウンセリングが大切なんです」などと言うのも矛盾しています。
避妊や妊娠を取り巻く環境とすごく良く似ていて、妊娠の場合はすぐにキットが買えて結果が分かるじゃないですか。それと同じように、薬局で買って調べられるようにすればいいんじゃないでしょうか。
調べるのは簡単です。海外では、ペロッと舐めて唾液で検査するようなキットも売っています。でも日本では認可されていません。
なぜかというと、感度が100%ではないからです。完璧じゃないと認められない。ナンセンスですね。
保健所に行きたい人は保健所に行けばいいし、自分で調べたければ自分でキットを使えばいい。いま郵送の検査キットは需要が大きく伸びている。
「医療機関につながったか分からないから」と反対する人がいるのですが、治療すれば普通に暮らせるわけですし、わざわざキットを買って調べる人はちゃんと病院で治療しないと、と思って来院されるんじゃないでしょうか。
どんどん検査のオプションが増え、たくさんの人が検査をして感染が見つかれば、治療してうつらなくなる。すると感染は今よりも広がらなくなる。
いまのように、毎年新たに1300~1500人も新規感染者が増えるような事態からは抜けられるでしょう。
ここ10年、この数字はほとんど変わっていません。つまり、少なくともこの10年20年の予防教育は失敗したと思わなければならない。しかしその反省がないんです。
旧態依然で同じようなことをずっと続ける。「コンドームしましょう」って言うだけです。
世界では、リスクのある人はプレップ薬を飲めばうつらないという予防法が、スタンダードになってきています。
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「あなたのHIVのウイルスって、他者に感染する可能性は無いんですか。完全に?」⇒胸を張ってゼロ、と答えて
U=Uについて説明するとき、気をつけてほしいことがあると専門家たちは言う。
抗ウイルス剤を服用していればコンドームのないセックスであっても感染の危険性は「ノーリスク」「ゼロリスク」であると、一貫して説明する必要がある、ということだ。
針刺し事故や、粘膜に血液や体液が曝露したときの感染可能性は、性行為による感染よりも低い。ゼロより低ければゼロ、である。
4月2日、イギリスで開かれたイギリスHIV協会の第25回年次大会では、次のようなスライドが映し出された。
We recommend consistent and unambiguous terminology when discussing U=U such as “no risk” or “zero risk” of sexual transmission of HIV, avoiding terms such as “negligible risk” and “minimal risk”
U=Uについて議論するときは、「無視できるリスク」や「最小限のリスク」などの用語を避け、HIVの性感染の「リスクは無い」または「リスクはゼロ」という用語を一貫して明確に示してください。
冒頭の質問に戻ろう。
「あなたのHIVのウイルスって、他者に感染する可能性は無いんですか。完全に?」
こう聞かれたら、明確に答えは決まっている。
「はい、感染の可能性はゼロです」と。