タイ「民主制度」を支えた最後の砦「プレム元首相」
5月26日午前9時過ぎ、タイ国民から敬愛の念を込めて「パパ・プレム」と呼ばれていたプレム・ティンスラーノン陸軍大将(1920年8月26日生まれ、享年98)がバンコクの病院で亡くなった。前日まで親しい軍人の訪問を受け、日常事務作業をすませ床に就いたとのこと。1世紀近い栄光に満ちた生涯が静かに閉じたようだ。
その死が伝えられるや、マハー・ワチュラロンコン国王は納棺儀式にシリントーン王妹を遣わし、政府は5月27日から1週間は半旗を掲げ、6月17日までの21日間は喪服、あるいは喪服に準じた服装で哀悼の意を表すよう全国民に呼びかけた(但し、6月3日の王妃誕生日を除く)。
国を挙げての異例なまでに荘重な葬送は、タイにおける同大将の存在の大きさを示していると言えるだろう。であればこそ、あるいは公人としての彼の人生がタイ政治の“一面の真実”を物語っているようにも思える。
眩いかぎりの経歴
南タイのソンクラーに生まれた彼の主だった経歴を振り返ってみると、中学を卒業して陸軍士官学校へ進み、陸軍司令官(1978年10月~81年9月。80年10月に定年延長)、国防大臣(1979年5月/陸軍司令官兼務)、首相(1980年3月~88年8月/86年8月まで国防大臣兼務)、枢密院議員(1988年~98年)、枢密院議長(1998年4月~2016年10月)、摂政(9世プミポン国王逝去に伴い/2016年10月~同12月)、枢密院議長(10世マハー・ワチュラロンコン国王即位に伴い/2016年12月~死去まで)を歴任。最初の政治職は憲法起草委員(1959年)で、最後に務めた公職が、自らも「最後の御奉公」と公言していたと伝えられる10世国王戴冠式執行委員会顧問(委員長はシリントーン王妹)であった。
眩いばかりの経歴である。おそらく過去にも見られなかったし、これからは尚更のこと、プレム大将のような栄光に満ちた人生を送ることのできる軍人がタイに現れることはないだろう。さほどまでに輝かしい人生は個人的資質・能力によってもたらされたのか。時代の要請だったのか。あるいは、その両者に由るものか。
完膚なきまでに叩き潰された政敵
幼少時から弟分としてプレム大将と付き合ってきた老人から話を聞く機会があったが、幼い頃は家庭で女の子のように育てられていたから、軍人の道に進み大将にまで昇り詰めるとは思いもよらなかったという。やはり生まれながらに内剛外柔だったのだろう。子供の頃から見られた粘着質の性格が、後年の政敵潰しの手法に繋がっていたのかも知れない――と語ってくれたことを思い出す。
確かに1970年代末からのタイ政治を振り返ってみると、彼の前に立ちはだかった政敵は政治家であれ軍人であれ、あるいは経済人であれ、長い時間を掛けてジワジワと、完膚なきまでに叩き潰されている。
たとえば、陸軍における後見人として彼の引き立て役を務めながら首相続投を阻止され、後に政権返り咲きを断念せざるをえない立場に追い込まれたクリアンサク・チャマナン大将(1979年後半~80年代初期)。
銀行家兼政治家として政財界に隠然たる影響力を行使していたものの、プレム政権打倒クーデターの資金源と噂され、やがて政財界から身を引かざるをえなかったブンチュー・ロジャナスティエン(1980年代初頭)。
クーデターによって崩壊寸前になった彼の政権を支えたものの、陸軍司令官に就任したことから国軍の内外に影響力を発揮しはじめるや陸軍中枢から放擲されたアーティット・カムランエック大将(1980年代半ば)。
一時は最側近として忠勤に励みながら国軍内での影響力拡大が顕著になるや、実働部隊を掌握する少壮軍人集団から“三行半”を突き付けられ、国軍との関係を断ち切られたチャワリット・ヨンチャイユット大将(1980年代末)。
国軍及び官界を軸とする既得権益層の利権構造の解体を進めたことを「既存秩序への妨害」と糾弾され、クーデターによって首相から解任されたチャーチャーイ・チュンハワン首相(1991年)。
強硬な政権運営によって「5月事件」と呼ばれる社会混乱を引き起こしたことから、首相就任から2カ月足らずで詰め腹を切らされたスチンダー・クラプラユーン大将(1992年)。
世界経済の変化に対応する機能的な経済運営を掲げ、「ABCM複合体」――A(王室)・B(官界)・C(財界)・M(国軍)――による旧来型の権力構造に根本的にメスを入れたことで、終には国外亡命生活を余儀なくされているタクシン元首相とインラック前首相のシナワット兄妹(2006年~)。
――1970年代末から現在までのタイ政治における敗者の“死屍累々”たる姿を思い浮かべる時、ふと「一将功なりて万骨枯る」の思いが浮かんでくる。
1980年3月のプレム政権成立から現在まで断続的に起こった政治混乱――5回のクーデター(1991年、2006年、2014年の3回の成功と、1981年と1985年の2回の失敗)、「5月事件」(1992年)、タクシン派対反タクシン派の長期対立(2005年~現在)――に、不本意な形で時代の表舞台から去らざるをえなかった政治家や軍人、さらには経済人たちの恨み節を重ね合わせるなら、タイにおいて果たしてきたプレム大将の存在の重さが浮かび上がってくるように思える。
王室との同一歩調
プレム大将が注目を集めるようになったのは、陸軍司令官としてクリアンサク政権誕生に寄与し、同政権で国防大臣に就任した1970年代末期だった。陸軍司令官と国防大臣を兼任することで、彼は首相以上の力――クーデターで国権を掌握可能――を持ったのである。
だが彼はクーデターに訴えるわけでも、禅譲されたわけでもなく、下院における王党派・民主派を軸とする反クリアンサク(=反国軍)勢力に押される形で1980年3月にクリアンサク首相から政権を奪取し、テクノクラートと政党による連立政権を発足させたのである。
政権発足1年後の1981年4月1日、後に「4月バカ・クーデター」と呼ばれるクーデターが勃発する。このクーデターの動機も経緯も今もって判然とはしないが、タイで一般化しているクーデターと際立った違いは、王室が内外に向け明確な姿勢を打ち出した点だろう。王室が見せたプレム支持によって、陸軍司令官をトップに実働部隊を結集したクーデター陣営は総崩れすることになる。
本来なら成功するはずの陣容を整えながら、なぜ「4月バカ・クーデター」に終わってしまったのか。クーデター陣営に比較して極めて劣勢なプレム大将に対し、積極支持が打ち出された背景には、何があったのか。
同クーデターから40年近くが過ぎた現時点において明確な答えを引き出すことは難しい。だが、客観状況として(1)クーデター陣営寄りだった国軍本流は我が国の現行憲法に強い関心を示し、象徴としての国王を志向していたと思われる(筆者のクリアンサク大将へのインタビュー)。(2)国軍本流はプレム政権とは距離を置いていた。(3)クーデター制圧後、陸軍内ではプレム支持派が急激に拡大した――を挙げておきたい。
以上をやや強引に表現するなら、王室(聖=権威)とプレム大将(俗=権力)が同一歩調を取ったことがキッカケとなり、その後の数々の政治混乱を鎮静化させる図式が生まれ、現在に続くタイ社会の安定と融和が維持されてきたということだろう。この図式を下支えしているのがABCM複合体なのである。
最大の難敵がタクシン派
やや飛躍するなら、上皇が平成の30年間を掛けて現行憲法に示された「象徴」の2文字に自らの振る舞いによって肉付けをしていったように、プミポン前国王とプレム大将の言行によって、タイの歴代憲法が掲げる「国王を元首とする民主制度」が実態化されてきたのではなかったか。
ABCM複合体を下支えにした「国王を元首とする民主制度」にとっての最大の難敵が、タクシン派だった。それというのも2006年以来、憲法裁判所、国家汚職防止取締委員会、さらには中央選挙管理委員会などからの“掣肘”を受けながらも、タクシン派は依然として健在であるからだ。むしろ今回の総選挙結果に表れているように、タクシン派の「タイ貢献党」は広範な民意を代表していると言っても過言ではない。
かねて主張しているように、「タクシン」の4文字をタクシン元首相の個人名ではなく、むしろタイの現状に対する《不満の記号》と考えるなら、プラユット政権継続拒否を打ち出す「新未来党」支持者もまた、この仲間に加えることができるはずだ。つまり今次総選挙結果から判断して、現状不満派は下院定数500議席の半数に迫っていることになる。
国会召集翌日の5月25日に行われた下院議長(=国会議長)選挙では、「民主党」の穏健派ベテラン議員のチュワン・リークパイ元首相が258票対235票でタイ貢献党の候補を破っている。26日の第1副議長選挙では、「国民国家の力党」所属議員が248票を獲得し、2票の僅差で新未来党の推薦候補を破り、第2副議長には「タイ矜持党」議員が選ばれた。
3回の選挙結果から判断するなら、目下の情勢では民主党とタイ矜持党がプラユット政権継続を打ち出す国民国家の力党と連立を組む可能性が高いと言える。だが常のことながら、連立工作は利権ポストを巡る各党の思惑が複雑微妙に絡むだけに、明確な方向を見出すことは不可能だ。
ところで議会開会前日の23日、憲法裁判所はメディア関連企業の株式保持禁止規定に抵触する嫌疑でタナトーン・チュンルンルアンキット新未来党党首に対し、下院議員職務の停止処分を下した。その結果、翌日の議会でタナトーン党首は発言を禁止され、議場からの退出を余儀なくされている。《不満の記号》の芽は早いうちに刈り取れ、ということだろう。
新政権成立後も混乱は必至
今後、予想外の事態が起こらない限り、プラユット連立政権が発足することになるだろうが、5月22日から25日にかけてドゥジット大学社会民意調査研究所が行った世論調査によれば、36%強が、新政府成立後に社会は再度混乱し、社会矛盾が顕著になり、民衆が再び抗議活動に立ち上がると答えている。同調査に基づくなら国民の3人に1人以上が、新政権――プラユット政権であれ、反プラユット勢力による連立政権であれ――の成立後も混乱は必至と見ていることになる。
80年代以降、タイは内政上の大混乱にしばしば見舞われながらも、歴代憲法に則り「国王を元首とする民主制度」を国是として掲げることで危機を脱してきた。プミポン前国王とプレム大将の2人が最後の砦として働いていたことは、改めて指摘するまでもないだろう。
だが、「国王を元首とする民主制度」にとっての最後の砦は今や失われてしまった。
次の時代の「国王を元首とする民主制度」を誰が、どうやって守り、日常生活の中で具現化させていくのか。現在のタイは連立政権の組み合わせ、あるいは軍政の延長か民主化かといったレベルを遥かに超えた、極めて重い課題を背負っていることに気づかされるのだ。
樋泉克夫:愛知県立大学名誉教授。1947年生れ。香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士課程を経て、外務省専門調査員として在タイ日本大使館勤務(83―85年、88―92年)。98年から愛知県立大学教授を務め、2011年から2017年4月まで愛知大学教授。『「死体」が語る中国文化』(新潮選書)のほか、華僑・華人論、京劇史に関する著書・論文多数。
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(2019年5月30日フォーサイトより転載)