ネットに教育コンテンツがあふれる時代に、子どもを学校に行かせる必要があるのか。小学生YouTuberの不登校を巡って議論が巻き起こっている。画一的で旧態依然とした日本の教育への失望もあり、賛否は割れているようだ。
一方で、日本の子どもの6〜7人に1人が相対的貧困状態にあり、経済格差が教育格差につながる根深い問題への関心も高まっている。
私自身の考えは後述するとして、この「子どもの教育機会」を考えるうえで興味深いマンガを紹介したい。古谷実の『僕といっしょ』(講談社)だ。
若者の苦境と閉塞感
『僕といっしょ』は奇才・古谷にとって、デビュー作『行け! 稲中卓球部』(講談社)に次ぐ作品だ。改めて言うまでもなく『稲中』はギャグマンガ史に輝く傑作であり、その狂気をはらんだパワフルな面白さは、私にとって『マカロニほうれん荘』(鴨川つばめ、秋田書店)以来の衝撃だった。何年かに1度、忘れたころに読み返すたび、問答無用で爆笑させられる。
『稲中』のテイストを残した『僕といっしょ』も、随所で光るギャグの切れ味は落ちていないが、より社会的なテーマ性をもった作品になっている。描かれるのは、後続作の『グリーンヒル』『ヒミズ』(講談社)にも共通する、子どもや若者の苦境と閉塞感だ。
『僕といっしょ』の主要キャラは中学生の兄・先坂すぐ夫と小学生の弟・いく夫の兄弟、そしてこの兄弟が偶然出会う浮浪児「イトキン」こと伊藤茂の3人だ。
物語は母を亡くしたすぐ夫といく夫が、母が再婚した相手の、暴力的な義父に追い出されるようにして家出する場面から始まる。上京した2人は上野でイトキンと出会い、この3人に同じく家出少年の進藤カズキが合流する。
1度はホームレスに身を落とした4人は、ひょんなことから高校生の吉田あや子の自宅に転がり込み、床屋を営む父親と奇妙な共同生活を始める。すぐ夫とイトキンは不登校のままだが、いく夫は再び学校に通い始める。近所のおかしな住人や行きずりのキャラクターも絡み、あれこれと騒動が起きる。
「人生って何?」
強引な舞台設定のなかで荒唐無稽なギャグが連発される本作は、一方でアンバランスなほど地に足の着いたリアリティーにあふれている。なかでも養護施設育ちでシンナー中毒のイトキンのキャラの立ち方と、「人生がハードモードに入ってしまった子どもの苦境」の描き方が際立っている。
捨て子で年齢不詳、「たぶん14歳」というイトキンは、中学に通っているはずの年回りにして、辮髪(べんぱつ)のような妙な髪形で刺青まで入れ、アパートの空き部屋を根城にして盗みなどで食いつないで生きている。いわば「都会の野生児」だ。
何の希望もない人生を送っていたイトキンは、あや子の家で「家族と三度の飯に困らない生活」を手に入れ、その安息から自然とシンナーから離れる。イトキンと、同じような境遇にあるすぐ夫との友情は、変化球気味ながら本音でぶつかり合う深い関係で、「バディもの」としての味わいもある。
このドロップアウトした2人の少年を軸とした『僕といっしょ』には、作中でも明言される主題がある。「人生って何?」という問いだ。
無論、そんな大きな問いに十全な答えが用意されているわけではない。それでも本作は、ギャグマンガという体裁でしか迫れない形でこの問いに迫り、同時にそんな問いに直面しようとする、せざるを得ない若者の姿を等身大で描くことに成功している。この深みが、『稲中』との違いであり、古谷のその後の作風につながるものだ。
たとえばいかにもマンガ的な装置として機能しているのが、節目で登場する「人生リセットボタン付きUFO(?)」だ。「人生失敗しちゃったね」と登場人物らに問いかけ、「ボタンを押せば人生やり直せるよ」と誘う奇妙な空想上のキャラに対して、すぐ夫とイトキンは時にはイエス、時にはノーと答える。この対話が実に味わい深い。
小説やシリアスなマンガだったら、こんなストレートな展開やセリフは陳腐で空々しいものになってしまう。ギャグマンガだからこそ、正面突破の問題提示ができる。この「ギャグ」と「深み」のミックスが実に巧みで、「ゲラゲラ笑っているうちにけっこう考えさせられる」という絶妙のバランスを保っている。
しかし、このバランスは最終回に崩れてしまう。少年たちは「理不尽で略奪的な大人社会」の壁にぶち当たる。そして、余韻とよぶにはあまりに乱暴で未消化なラストシーンが待っている。この幕引きも凡百の作家では描けない見事な呼吸だ。
私がイトキンというキャラクターの造形に惹かれるのは、「ドロップアウト」「シンナー中毒」といった属性が、自分の生まれ育った世界にあふれていたからだ。
以前、私が自分の「note」(文章や写真、動画の投稿サイト)に公開した『「日本のヒルビリー」だった私』という文章で記したように、私自身は手を出さなかったが、中学時代、周囲にはシンナー中毒の連中がゴロゴロいた。イトキンのシンナーへの執着や幻覚の描写は、先が見えない人生を放り出す「緩慢な自殺」のように、シンナーに手を出していた何人かの同級生や上級生を思い起こさせる。
作者・古谷と私は誕生日が数日しか違わない完全な同世代(今年で47歳)で、どうも同じような世界を見て育ったフシがあることも、私が古谷ワールドに強く共感する理由なのだろう。
「普通ナメんな!!」
『グリーンヒル』の中で、「オレなんてなぁ 生まれも育ちもサクの外!!」「ずーーっと中に入るため今まで頑張ってきたんだぞォ!!」と叫ぶイトキンは、教育システムや家庭というセーフティーネットを失った若者のハードな人生を体現している。
そんなイトキンが『グリーンヒル』では家庭を持ち、床屋の店主という定職を得ていることに、私は再読するたびホッとする。2作品の間には10年ほどの時間の隔たりがあり、詳しくは描写されないが、「オレは彼女に人生丸ごと救われたんだ!」という妻・よしえとの出会いがイトキンを「サクの内側」へと導いたのだろう。『グリーンヒル』のイトキンは、どうしようもないスケベ男ではあるが、「常識人」に近いポジションを得ている。『僕といっしょ』から読み継ぐと、それはちょっとした奇跡のように感じる。
一歩引いた視点で見ると、『僕といっしょ』は今から20年以上前、『グリーンヒル』も1999〜2000年にかけて『週刊ヤングマガジン』(講談社)に掲載された作品であることに改めて驚く。その時点で子どもの貧困や教育格差、若者の閉塞感をテーマとしたマンガを描いたのは、古谷の慧眼だ。
さらにシリアス路線に傾いた『ヒミズ』では、「学校に通って人並みの人生を送る」という平凡なコースに手が届かない少年の苦悩が、より深掘りされる。これも今の若者と日本社会の厳しい現実を先取りするような視点だ。
ちなみに『ヒミズ』の中の「普通最高! 普通ナメんな!!」というセリフは私のお気に入りで、少しアレンジして拙著『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』にも拝借している。
「大学に進学したら?」
最後に冒頭の不登校問題について、私の考えを記して本稿を閉じたい。
もし、私が娘から「やりたいことがあるから学校を辞めたい」と言われたら、全力で反対するだろう。
確かに、学ぶ場所は学校に限らないし、ネットには独習できるコンテンツがあふれている。勉強するだけなら、もはや学校に通う必然性はないかもしれない。
だが、よほど突出した才能でもない限り、ドロップアウトした若者を待っているのは厳しい現実、ハードモードの人生だ。学校に通い、手順を踏んで社会に出ることは、今の日本社会ではなお1番リスクが低く、人生の選択肢を狭めないコースだろう。私自身、人生で受けた最良のアドバイスの1つは「大学に進学したら?」という友人の何気ない一言だった。
ネットにあふれるコンテンツで学ぶ。学校の外に自分の世界を作る。起業する。YouTuberを目指す。大いに結構だ。
だが、こうした選択は、学校に通いながら選べないものだろうか。学校というハードルすら越えられない性根でハードモードのコースを渡り切れるほど、浮世は甘い場所ではない。
学校という枠には収まりきらない、若くして「自分のやるべきことはこれだ」と天職を見定められるような、特別な人間は確かにいる。そして、そんな人間は、どんなに親や周囲が反対しても、学校を飛び出すに違いない。
繰り返すが、私は娘が学校を辞めると言いだしたら、全力で反対する。そして、それでもなお、娘が学校を辞めて自分の選んだ道を進むと決めたのなら、全力で応援する。私の反対を振り切れずに思いとどまるなら、所詮、その程度の夢でしかない。手順を踏んで、準備を整えた方が良い。
いじめなどで生命の危険があるケースを例外とすれば、たとえ授業は退屈で校則は馬鹿馬鹿しく感じられても、学校に通えること、セーフティネットに守られながら人生のウォーミングアップ期間を過ごせることは、凡人には幸運なことなのだ。
「普通最高! 普通ナメんな!!」
人生は長い。まずは焦らず、古谷実のマンガでも読んでみてはどうか。
高井浩章 1972年生まれ。経済記者・デスクとして20年超の経験があり、金融市場や国際ニュースなどお堅い分野が専門だが、実は自宅の本棚14本の約半分をマンガが占める。インプレス・ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から出した経済青春小説『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』がヒット中。 noteの連載はこちら→https://note.mu/hirotakai ツイッターアカウントはこちら→https://twitter.com/hiro_takai
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(2019年5月28日フォーサイトより転載)