デンマークの投票率が高い理由を、人々の日常から探ってみた

「あなたはなぜ投票に行くのですか?」という問いにデンマーク人は口を揃えて「デモクラチ」という単語を返してくる。
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6月に行われる国政選挙に向けた立候補者のポスター。デンマークは公設掲示板がないので、現在街のあちこちにポスターがあふれている
さわぐり さんnoteより

ーあなたはなぜ投票に行くのですか?

民主主義を守るための権利であり義務だから
自分の意見を反映するための機会だから

上の2つは、デンマークで投票に関する質問をするとよく返ってくる答えだ。日本語にすると圧倒されるかもしれない。「一般の人も普段からそんなことを考えているの?」とか「政治に興味がある一部の人が言ってるだけじゃないの?」と思われるかもしれない。

デンマークを含む北欧では多くの人々が政治に関心があり、若者の投票率も高いという記事もよく日本で紹介されている。でもこれは単に選挙や政治のみに人々が興味を持っているからではないとわたしは思っている。そのもっと奥深いところに、政治が日常生活の延長線上にあることや、自分たちの生活や生きる環境と深く関係していると知っていることが、理由にあるからだと思っている。

この記事では、なぜデンマークでは投票率が高いかということを、ここの人々や制度が特別だからという視点ではなく、日常とのつながりという視点で説明してみたい。現地在住の有無にかかわらず様々な意見があると思うけれど、これはわたしから見た投票率が高い理由です。

集団の中で自分の意見を表明すること

幼い頃から「あなたはどうしたいか」「あなたは何が好き・得意か」ということをずっと問われる生活の中で、人々は日常的に自分がどう感じ、どんな意見を持っているかを気軽に表現することが多い。小中学生でも、クラス内での話し合い、授業中での話し合いの中で、自分の意見を表明することはとても日常的だ。テストや受験がなく、正解すること、正解率が高いことを求められずに子ども時代を過ごすこの国の子どもたちは、自分の意見を表明することにあまり恐れを感じていないのかもしれない。

聞いていると特別素晴らしい意見ではなくとも、小・中学生の頃から自分の意見や考えを持ち、それを表現することを求められたり、他者の意見を聞き、話し合いをすることも多い。

Demokrati デモクラチ

ではなぜ、デンマークではそこまで自分の意見を表明することが求められるのか。その答えの背景には、デンマークの社会的価値観を語る上で外せない、大切なキーワードがある。それは“Demokrati”、日本語訳は「民主主義」だ。この言葉は、日本のように教科書や政治ワードとして狭く堅苦しい定義のものではなく、日常生活のあらゆる場面で体験するものとして使われる言葉だ。【この言葉を日本語の「民主主義」と訳してしまうと、どうしてもその堅苦しさが抜けない気がするので、ここではカタカナ表記「デモクラチ」として、デンマーク独自(他の北欧でも共通点はあると思いますが)のものとして表現します。】

例えば学校や職場、家庭など、人と人の関わり合いの中でのオープンな対話、人々が自由に団体を作って活動するフォレーニング活動(メンバー自身が組織するスポーツや文化活動)、同じ職業内で組織される組合活動など、人々が自由に集まり、何かを表現したり、活動するということも、デモクラチを表したものと考えられている 。子どもの習い事で例えると、スポーツ活動の中には、保護者や有志が集まって手作りで進めていくことが多いが、その活動メンバーは互いに平等な立場であり、サービスを提供する側と受ける側という壁や上下関係を持たない。

そういったフラットな関係の中での活動自体がデモクラチであり、またその活動自体がデモクラチを発展させていく行為でもある。逆に言うと、黙って相手の言われた通りにすれば良いというのは、デンマークのデモクラチの考え方からは外れてしまっていると言える。なぜならそこには不平等な権力関係があるからだ。

デモクラチの根幹は「対話」

デンマークではデモクラチには2種類あると言われている。政治体制を説明する概念としてのデモクラチ(つまり民主政治)。もう一つは、先に説明した生活の中にあるデモクラチ。デンマークの神学者で、第二次世界大戦下からデンマークの民主活動に従事したHal Kochは、自身の著書でデモクラチのあるべき姿について述べている。その中からとても端的にデモクラチについて説明した文章、これは中学生がデモクラチについて学習する際にも使われることが多い部分であるが、この国の人々の意見を出し合う文化をとても端的に表していると思うので引用する。

将来についての取り決めや共同生活に関する規則を決定する際、そこに複数の人間が関わる場合はほぼ確実に意見の不一致が起こると言って良い。人間は多様で、みな様々な状況で生きており、関心事も異なる。つまり、人は異なった判断をし、それぞれ望むことも違ってくる。そのため大小様々な対立が起こる。しかしながら決定は下されなければならず、規則は策定されなければならない。つまり、対立を解かねばならない。それには二つの解決方法がある。1)闘いを通して決める、つまりそれは強者の意見を通すことで、ジャングルの戦いのようなものであり、そこでは動物と人間の違いはあまりない見られないというもの。2)話し合いを通して決める、つまり対立している者同士が「対話」を通じ、対象となる物事のあらゆる側面を鑑み、互いにーこれは忘れてはならない点であるがー対話の中からより正しく、より理にかなった形で問題を理解するよう懸命に努めるというもの。これがデモクラチである。対話と互いへの理解、尊重がデモクラチの根幹である。   “Hvad er demokrati?” af Hal Koch Gyldendal 1946

闘いを通じてではなく、対話を通じ意思決定をしていくという行為。これをデモクラチだとHal Kochは述べている。デンマークの個人的・政治的な全ての範囲において、これは現在でも重要な考え方として生き続けている。

子どもの頃から体験を通して訓練されるデモクラチ

日本と同じように、デンマークの小中学校にも生徒会がある。小学3年生からクラスの代表を選出し、小学部・中学部ごとに学年を超えて話し合いをする。小学部の議題は学校のお楽しみ会で何をするかというたわいもないことから、遊具購入の予算が降りたので何を買うかという、具体的に子どもたちの意見を反映して形にするものまである。こういう活動から、意見を出しそれが形になるという訓練をしているのが特徴的だ。

中学生になるとどうか。学校生活ではもう日常的に体験しているデモクラチだが、次は歴史や公民の授業で“demokrati”というワードを中心とした学びも多い。例えば公民では政治についても授業でかなり深く扱われている。政党についての学習もあり、様々な政党とその特色、政治的立場などについても学ぶ。

そして模擬投票も授業の一環として行われる。各政党が、例えば環境、福祉、外国人政策、税制、教育などに関して、具体的にどういった政策をしたいと表明しているかを調べ、それについてグループディスカッションをしながら、自分がどこの政党と意見が最も合うかを考えていくという授業だ。これにはもちろん正解はない。こういった授業が重視されるのは、18歳から政治に参加するための準備でもあるが、デモクラチ=対話を通して問題を解決していくという行為を日常的に学校や家庭で訓練し、つまりデモクラチに参加しながら、次のステップとして、実社会へ自分の意見を反映していくという訓練の一つでもあるからだろう。

デンマークの国会が作成した動画から

子どもたちがデモクラチを日常的に体験し学ぶことの重要性は、おそらく全国民で一致しているのではないかというぐらい、ここでは重要な社会的価値観だ。そしてデンマークの国会、folketingもこれをサポートしている。子どもたちがデモクラチを学ぶために国会が提供しているものの一つが、Youtube上にある一連の動画だ。

Folketinget.dk という名前で出てくる数々の動画。そこには若い俳優が5-6分程度の動画で、政治、政治家、国会、EU、予算案決議、憲法、政党、選挙、そしてデモクラチなど多様なテーマについて説明している。政治とメディアというタイトルのものもあり、政治的決定をメディアがどのような視点から報道していくのかということも伝えている。

また、NGOや草の根運動など、個人レベルでは政治に影響を及ぼせなくても、関心を同じくする人々が集まって、デモや社会活動、ロビーイングや政治家との直接的な対話を通して、政治的に影響を及ぼせる可能性についても紹介している。全体的にテンポが良く、わかりやすい言葉遣いで説明され、各テーマがシンプルに、コンパクトにまとめられている。(興味がある方はYoutubeでfolketinget.dkの動画を見てしてみてください。たくさん出てきます。デンマーク語のみ)

 

Den demokratiske samtale  民主的な対話
自分の意見を言う勇気がありますか、他の人にあなたが正しい・間違ってると思っていることが伝えられますか、物事がどうあるべきと考えているかを人に伝えられますか。わたしたちのほとんどが、その勇気があるかと問われたら自信をもってはいとはいえないかもしれない。だってそうすることで、自分の立場や自分がどんなことを考えているかが明らかになってしまうから。そこにはあなた自身と、そして周りの人々との間に信頼関係が要りますよね。でも、あなたがどんな意見を持っていて、そしてそれを伝えることに意味があるかって?それはあります!だってあなたが考えていることを表現することは、わたしたちのデモクラチの主要な部分だからです。憲法や様々な権利、選挙があることは重要だけれど、毎日の生活や社会の中で交わす対話や、わたしたちが感じる疑問は欠くことができないものなんです。

このようにして始まるこの動画のタイトルは「あなたのデモクラチ | 民主的な対話」。日常的な場面で自分の意見を持ち、それを表明すること、互いの意見を聞ける環境を作り、異なった意見を尊重することが、デモクラチの主要な部分であると語っている。それは政治をデモクラティスク、つまり民主的に行うには不可欠なものだという。さらに続けて「わたしたちが、社会に関することで日常的に感じていることや、疑問に思っていることについて話すのは、デモクラチを形作り、発展させる行為で、それをわたしたちは日常的にやっているのです。だから、物事について話すことは大切なのです」と語っている。

例えば具体的なこと、動物保護についてどうしたら良いかとか、公共交通機関をどのぐらい広げるかとか、体育の授業時間をもっと増やすかとか。またはそこまで具体的ではないこと、モラルとか倫理的な問題について、例えば臓器移植についてどうするか、この国に暮らすマイノリティの人々とどう向き合っていくか、こういったこと全てについて話すことが、民主的な対話です。小さなことから大きなことまで、わたしたち一人ひとりが日常の中で対話に参加し、議論し、意見を表明し、互いの意見に大きな理解を示すこと。でもこれは必ずしもいつも合意するためにやっているのではないのです。

このあとこの動画では、意見を伝えるという行為が、もともとは直接的な対話であったところから、新聞、ラジオ、テレビなどメディアを通して、多くの人々に伝えられるようになったこと、また現代ではインターネットを使ってSNS等で、あらゆる人々が自分の意見を自由に伝えられるようになったことが語られる。「何のフィルターもなくね。すばらしいですよね…、って、ほんとにそうかな?」

匿名同士で議論することが時に酷い言葉の掛け合いになること、時に暴力的になること、そして、デモクラチを形作る対話にはルールが必要だと続いていく。そのルールとは「どんな人も自分の意見を言って良いということ、自分の体験を語って良いということ、議論に参加する人々が信頼感をもって議論できること、異なる意見でもそれを尊重すること、参加したい人だれもが脅されたり、意見を言えなくされることなく参加できること」だ。さらに「こうやって意見を表明し、互いの意見を聞くことは必ずしも簡単ではないし、いつも合意にいたらないとしても、これがわたしたちが共に生きるということなのです」として動画は締めくくられている。

デモクラチについて、この動画を見ただけでも、この国の人々がデモクラチなるものをいかに大切にしているかが伝わってくる。そしてこの考え方が政治や選挙について知ろうとしたり、投票に行くことのベースとなっていることも伝わってこないだろうか。この記事の一番始めに書いた2つの答えの意味も、前よりわかるような気がしないだろうか。

このfolketing.dkが出しているいくつもの動画を見て、わたしはふと、日本の国会、衆議院・参議院などが同じような動画をつくっていないか少し探してみた。でも見つけることができなかった。代わりに上がってきた動画は、家庭教師のトライが出している公民授業の内容。そこで議会民主主義などについて、わかりやすく説明してくれている…のだけれど、具体性がないと思わざるを得なかった。

受験や試験勉強用には有用かもしれないが、実際に自分にとって政治や選挙、投票に行くことがどんな意味があるのかを、これらの動画から具体的に感じ取ることは、残念ながらできなかった。唯一印象に残ったのは、講師の人が国会での様子について「会議の時には結構寝ている人もいます」と言っていたこと。そういえば、日本の学校でも授業中に寝ている子どもはいる。デンマークではどちらもわたしは(まだ)聞いたことはないが、これも何かを表しているのだろうか。

政治や選挙というと、日常と切り離されたもの、自分と無関係なものと感じる人が日本では多いけれど、日常的にもっとこうなれば生活しやすい、生きやすいという思いは、どんな人でも持ったことはあるはず。ネット上ではそういう意見も多々見かけるが、実際に日常生活の中で、職場や子ども関係の集まりなどではまだまだ難しいのだろうか。壁があるとしたらそれはいったい何だろう。意見が違うことへの恐れ?政治を語ることの忌避感?それはだれがどうして作り出したものなのだろう。

政治との距離は互いの歩み寄りも必要

とはいえ、どれだけ日常生活であらゆる社会問題について意見を交わせる環境があるとはいっても、実際に政治が何を扱っているかが分からなければ、政治家が何をしているのか分からなければ、政治に興味を持ったり、ましてや投票に行こうとはなかなか思えないだろう。つまり政治を行う側からの歩み寄りも必要だ。

デンマークでは、各政党は選挙前は当然のこと、それ以外の機会でも自分達の政策について、メディアやSNS、集会など、あらゆるところで対話の機会を持つようにしている。学校や大学に出向くこともある。そして特に市民との対話は具体的だ。デンマークは今年6月5日に4年ごとに行われる国政選挙が控えているが、それに向けて、各政党は人々の関心分野ごとに多くの意見を交わしている。

そして投票する側がどこの政党と自分の考えや希望が合うか、わかりやすく示すのはメディアの役割でもある。例えばこのページの半ばあたりでは「環境問題」「医療」「外国人政策」「教育」「労働市場」「経済」「税制」「犯罪」など、様々な分野の中で、各政党がどの分野を重視しているかを政党ごとに見ることができる。

このようなバロメータや、質問に答えて自分に最も合う政党や立候補者を選べるサイトはたくさんあり、人々はテレビの対談や新聞、ネット上の比較項目などを参考にしながら、どの政党が自分にとってもっとも必要なことを実現してくれそうかを選ぶ。これをわかりやすく例えるなら、ネットショップでパソコンを買う時、あらゆるお店やパソコン情報、価格、送料、評価などを比較しながら、自分にとって最適なパソコンを選ぶようなもの。そう、非常に真剣な行為なのです!

日本と比べるのは難しいけれど(希望はあるはず)

デンマークで投票率が高い理由を、政治教育が進んでいることや、高福祉高負担政策から説明もできるけれど、そういった制度や政策以前に、デモクラチを守り、人々が日常的にデモクラチに参加しながらそれを育てるという行為を通じて、最終的には自然と政治への関心へとつながっていくのではないか、ということを伝えたくてこれを書いた。そして、政治を行う側からの市民への明快さと対話のあり方。それができる環境。それも重要な要素だろう。こういったことは今の日本では不可能なことではないようにわたしは思う。人々は自分の生活について思うことは多いはず。

残業や過労について、有給消化について、保育所問題について、ジェンダー問題について、自殺率、高齢者政策、医療費負担、離婚後の親権など、様々なことについて、それが自分の生活と直結していればいるほど、様々な思いがあるはず。それを話しても良いんだという環境を少しずつ作っていけないだろうか。

日本から離れて長いわたしには、それがどれほど難しいことなのか、もうわからなくなってしまったけれど、それが不可能だと決めてしまうのはとても悲しい。言葉にすること、対話すること、また一緒に活動することで少しずつ進めていける現実があるかもしれない。
そして、政治家側からの歩み寄り。こちらはまだまだ弱いのかもしれない。政治が形骸化しすぎているのかもしれない。これはどうやって変えていけるだろう。

日本とデンマークは国の規模が違い過ぎるので、簡単には比較できないかもしれない。確かにデンマークは日本とは国同士として比較するには規模がかなり小さい(北海道の半分ほどの大きさに、大阪府民より少ない人口)。だからこそ、逆に日本では、まず自治体レベルで政治が日常と直結していると体験できることを、一つずつ積み重ねていけないだろうか(特に政治家の皆さん)。

デンマークも国政選挙では85%前後の投票率をたたき出す一方で、EU選挙になると50%を超える程度。自分達が直接影響を及ぼせると感じられない規模では、人々のモチベーションが上がらないのはどこでも同じなのかもしれない。ということは、人々の生活の中の声が政治に反映されれば、どこであっても、投票率は自然と上がっていくのかもしれない。こう思うのは、楽天的過ぎるだろうか。

(トップの写真は、6月に行われる国政選挙に向けた立候補者のポスター。デンマークは公設掲示板がないので、現在街のあちこちにポスターがあふれている)

(5月18日掲載のさわぐりさんのnote「デンマークの投票率が高い理由を、人々の日常から探ってみた」 より転載)