「制度に心がついていくには、時間がかかる」 酒井順子さんと長島有里枝さんが語る“日本女性の生き方”

「#MeToo運動」から端を発した様々な活動によって、女性が長らく背負ってきた生きづらさが浮き彫りになってきているが、男女の相互理解はなかなか進まない。
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長島有里枝さん(左)と酒井順子さん(右)
榊原すずみ

 「#MeToo運動」から端を発した様々な活動によって、女性が長らく背負ってきた生きづらさが浮き彫りになってきている。しかし、企業の広告炎上、著名人がセクハラで告発されるなど、男性と女性の距離はなかなか縮まらない部分もまだまだ大きい。

『負け犬の遠吠え』『男尊女子』など多くの著書を通じ女性の声を代弁してきた酒井順子さんが、新刊『次の人、どうぞ!』の発売を記念して2月9日、東京・南青山の書店「青山ブックセンター」でトークショーを開き、日本女性の生き方について語った。

「女の子写真」とは何だったのか

ゲストは、写真家として家族や女性をテーマにした作品を発表し、『背中の記憶』で講談社エッセイ賞を受賞するなど書き手としても活動する長島有里枝さん。

酒井 こうしてお会いするのは、久しぶりですよね。

長島 10年ぶりくらいだと思います。

酒井 長島さんがお書きになったエッセイ、『背中の記憶』が2010年に第26回講談社エッセイ賞を受賞したのが、9年前。

長島 初めてお目にかかったのは、その時でした。

酒井 久しぶりにお会いしたら、お顔の様子が変わっていて、鼻のあたりが…。

長島 今日は鼻ピアスをしているので。実は20歳の頃からピアスの穴はあったのですが、子育てなどの事情がありまして着けていなかったんです。ママ友ができなそうじゃないですか(笑)。子供も友だちできないかもしれないと…。髪型もおとなしめにしていたんですけど、子供も高校生になり、地元の学校ではないからいいのではないかと思い、復活させました。

酒井 それはそれは。話は変わって、長島さんの『背中の記憶』は本当に素晴らしい名エッセイですが、その後の執筆活動の方は?

長島 東日本大震災の後に大学に入り直したりしていて、すっかり筆が止まっています。

酒井 大学ではどんなことを研究していたんですか?

長島 「女の子写真」というカテゴリーを検証する論文を書きました。

酒井 ちょうど若い女性のカメラマンが増えてきていた時期でしたよね。

長島 「女の子写真」は男の人たちが盛り上げたカテゴリーですが、ほとんどの写真家はこの枠組みに括られることが嫌だったと思います。その温度差がどのような経緯で生まれていたのかを、当事者の立場で語り直そうという試みです。

酒井 「女の子写真」は、男性によって作られたジャンルだったのですね。

長島 「女の子写真」が生みだされた1990年代は、第3波フェミニズムが世界中で盛り上がっていた時期と一致します。

酒井 フェミニズムの第1波は、“ウーマンリブ”の頃?

長島 第1波は19世紀から20世紀初頭にかけての女性参政権運動を中心とした運動のことで、ウーマンリブは第2波ですね。

酒井 第3波は「女の子写真」が出てきた以外に、どんなことが起きていたのでしょう。

長島 欧米では、女性アーティストやミュージシャン、ジンと呼ばれる小さな雑誌の作り手などが、若い女性を「エンパワメント」するものを生み出し、流通させていました。デモを行うような“運動”ではなく、それぞれがサブカルチャーを通じて、草の根的な活動を行う感じです。

酒井 そして今、第4波がきている感じですよね。#MeToo運動も起きているし、フェミニズム関連の本も、色々と出版されています。

長島 この流れが第4波になるのかどうかは、これから検証されていくことになると思います。

酒井 文章の世界だと、女性の作家を「女流」と呼ぶ時代が70年代くらいまで続きましたが、80年代に入り山田詠美さんなど新しいタイプの女性作家たちが出てきてから、「女流」という言葉で女性の作家を特殊な枠の中に入れておくという感覚が薄れてきました。「女の子写真」の後、写真の世界ではどんな動きがあったのでしょうか。

長島 写真界でも、70年代には女流写真家という言葉があったそうです。「女の子写真」も、その“女流”とあまり変わらないものです。ただ、第3波フェミニズムでは、戦略的本質主義の概念を採用した若い女性たちが自らを「ガール」「ビッチ」「スラット」などと呼ぶことがありました。つまり「女の子」や「ガール」という言葉は、男性が女性に使うときには差別的な意味を持ちますが、女性が自ら用いる場合にはエンパワメントや、差別に対抗する手段となるわけです。文学の世界では、なかなか自分からは女流って言わないですよね?

酒井 ですね。男性から言われる言葉だった。

長島 でも「女子」とは言いませんか? 酒井さんは「女子会」と言ったりしますか?

酒井 昔はしてました。最近、さすがに言いにくくなってきて(笑)、「婦人会」と言ったりしています。いつまで女子でいるつもりなんだと言われることもあるのでしょうが、他人からではなく、自分から言う言葉として「女子」というのはとても便利な言葉だと思いますよ。 

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酒井順子さん
榊原すずみ

 上司が帰った後、枕元に残されたコンドーム 

長島 『背中の記憶』は、あのとき書いておきたいと思ったことをただ書いたもので、自分ではエッセイではなく私小説だと考えていますが、そういうジャンル分け自体がもう意味のないことのようにも思います。そもそもエッセイってどれくらい本当のことじゃないといけないものなのでしょうか。

酒井 私もそれで苦しくなって、小説は嘘が書けていいな、と思った時期もありました。でもよく考えてみたら、「エッセイは嘘を書いてはいけないわけではない」という気もしてきて。エッセイで「‥‥だと思いました」と書いても、実はそんなことを全く思ってないこともあるし(笑)、見てきたようなことを捏造することもあるし。エッセイは嘘と本当の境目がすごく曖昧な、実はとても自由なジャンルなのではないかと思ったら、楽になりました。『背中の記憶』では、真実と虚偽の割合はどれくらいなんですか?

長島 例えば、こういうことがあった、というのは実際の記憶に基づいていて、それを掘り起こして書いています。でも、それが当時の記憶なのか、写真を見たり両親の話を聞いてあとから知ったことなのかは確かめようがないんです。書いている最中にわからなくなって、家族から話を聞いた部分もあります。そうした断片をつなぎ合わせて物語にするのって、それはもう虚構だと思います。

酒井 確かに、書いた時点で嘘になるというところはありますよね。すべてを正しく記録することはできませんから、たとえルポルタージュでもどこか違ってしまう。そういう意味でエッセイは、ルポルタージュ的要素もあり、物語の要素も入ってくるという自由さがありますね。あと、エッセイというジャンルで不思議なのは、専業のエッセイストがあまりいないこと。長島さんのように、写真家の方が書いたエッセイの方が、私のようなプロよりずっとおもしろかったりする。写真家の方に限らず、音楽家や落語家など、全く違う職業の方が初めて書いたエッセイに「負けた」と思うことはしょっちゅう。

長島 それは写真も同じです。インスタを見ているだけでも、私より写真が上手い人っていっぱいいますから。ところで、酒井さんの書かれた『次の人、どうぞ!』は「週刊現代」で連載されていたものをまとめていますが、毎回、その時々のことを書かなくてはいけないのは大変ですね。

酒井 でも、もはや週刊誌は、時事ネタを書くには遅いメディアになってしまっています。ネットのニュースには追いつけないですから。そのうえ「週刊現代」は、今や“おじさん”を通り越して、“おじいさん”が読む雑誌なんですよ。70代以上くらいの男性。病気とか死とか相続とか、“アラウンド・死”関連の記事ばかり。

長島 この本の「セクハラ断ち、頑張りましょう」という章に「艶笑話がセクハラとされて封じられると、もう自分に残されたのは病気の話しかない」と嘆く老紳士が出てきますね。

酒井 老紳士もセクハラには気をつけているみたいですよ。昔みたいに、女性に「かわいいね」なんて気軽に言えない、と。

長島 「セクハラ『#MeToo』革命」の章に出てくる、酒井さんのご友人が受けたセクハラの話はびっくりしました。こんなひどい時代があったんですね。

酒井 簡単に説明しますと、とある会社に勤める友人が上司と一緒に出張に行ったら、夜中に「コンコン」とドアをノックする音がする。ドアを開けると、そこには上司のおじさんが「仕事の話をしたい」と立っていて、部屋に入れざるを得ない状況になってしまった。今なら「NO」と言えるのかもしれないけれど、当時の彼女は断る勇気を持てず、仕方なく入れてしまうと、当然のように迫られる。なんとか断って部屋から出て行ってもらった後、ふと気がついたら枕元にコンドームが1つ置いてあって…。どんなサンタさんなんだ、っていう話でしょう(笑)。でもこの手の話が昔はたくさんあったわけですよね。その頃はセクハラだと気付かずに、「こんなことがあった、気持ち悪い!」と友だちと話すくらいしかできなかった。糾弾したり、会社に訴えたりする頭が、バブル時代の私たちにはなかったのですね。

制度に心がついていくには、時間がかかる

長島 酒井さんから見て、#MeToo運動はどう映りますか? 

 酒井 セクハラにしろ、パワハラにしろ、ハラスメントを取りまく環境が、ここ10年で激変しましたよね。ポリティカルコレクトネス(性別・人種・民族・宗教などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、政治的・社会的に公正・中立な言葉や表現を使用すること)の感覚が浸透してきた。前に、雑誌「婦人公論」の過去100年分の記事を読む仕事をしていたのですが、吉行淳之介さんと宮尾登美子さんの対談の中で吉行さんが「女の人は夫に殴られると喜ぶものだ」などとおっしゃっていたことに驚きました。それに対して宮尾さんも「そういうところはありますよね」などと、否定されない。

長島 えー!

酒井 夫が妻を殴ることが愛情表現であるという感覚を持つ人が、昭和の中頃にはいたわけです。DVは罪、という意識が浸透した今では考えられない感覚ですが、当時は子供への体罰も「愛の鞭」だったわけで、時代によって何が愛で何が罪かという感覚は変化する。

明治以降、女性にとっての人権意識が大きく変わった時期が、いくつかありますよね。第二次大戦後、女性が選挙権を得るなど法律的部分での男女平等はある程度整ったわけですが、人の意識が法律に伴ったかというと、そうではない。心は、だいぶ後からついてくるんです。例えば「セクハラ」という言葉が流行語になったのは1989年のこと。けれどまだネット上で告発するといった手段もなく、やっと最近になって、セクハラに対して「NO」と言っていい、という空気が本格的に強まりました。「セクハラ」という言葉の登場から、30年かかったわけです。

長島 それもまだ表向きのもので、同世代の友人と話していて、そうした気風も個々のレベルではなかなか浸透しない現実を痛感することがあります。酒井さんはジレットというカミソリメーカーのCMの話はご存知ですか?

酒井 知りません。どんなものですか?

長島 P&Gの女性用ケア製品ブランド「オールウェイズ」のキャンペーン「ライク・ア・ガール(Like a Girl)」を始め、フェミニズムを盛り込んだCMを手がけるローレン・グリンフィールド監督が、ジレットの髭剃りのCMを作ったんです。女性を性的にしか見なかったり、暴力的な強さが推奨される「男らしさ」に疑問を投げかける内容だったので、アメリカの保守派男性たちが激怒してネットで炎上、不買運動にまで発展しました。私としては、フェミニズムの考え方は世界のあらゆる局面で適用可能と考えているのですが、世の中はそれが「女性のこと」である場合に限って寛容になってきただけで、男性の領域に言及した場合にはこれほど激しい抵抗を示されるのか、と思い知らされました。

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長島有里枝さん
榊原すずみ

「そんなに目くじらを立てなくても」という意見もあるが…

酒井 特に今はトランプ的な世の中になっているから、#MeToo運動が盛り上がりつつ、一方では保守的な考えの人たちもマッチョさを増していますよね。どちらかの勢力が強くなると、同じくらいもう片方の勢力も大きくなる。それは日本も同じで、女性が声を上げるほど、反発も出る。

長島 『次の人、どうぞ!』を連載中、そういう難しさは感じましたか?

酒井 「週刊現代」の主要読者であるおじいちゃんたちは、おそらくこの連載を読んでいないのだと思います(笑)。新幹線の隣で、週刊現代を読んでいる中高年紳士がいても、この連載のところで目も通さずペラってページをめくっていくので。もしかしたら、そういう方たちは、#MeTooという言葉すら知らないのかも。

長島 酒井さんの語り口が、とても素晴らしくて。ご自身の主張が極力抑制された文体は、一読すると酒井さんを中立の立場にいらっしゃる人と印象づけるんですが、よく読むと「でも、やっぱりセクハラは卒業しましょう」とはっきりおっしゃっていたりする。伝え方が違えば怒り出してしまうかもしれない読者にも、フェミニズム的な思考がさらりと飲み込める、そんな本になっています。

 酒井 一方で、そんなに目くじらを立てなくてもいいじゃないか、という意見もあります。そういった声に「そうですね」と言うこともできるけれど、意外に簡単に時代は戻ってしまうものだから、いちいち「嫌です」とか「NO」とか言った方がいい。日本でも敗戦後、民主化された世の中で力を持っていく女性たちにカチンときた保守派の男性たちが、家庭を戦前のような姿に戻そうとした動きもあったりしたわけです。人の意識はゆっくりにしか進まないし、戻そうと思えば戻せるものであることを思うと、小さな声でもこつこつ出し続けた方がいいのだな、と思います。

長島 酒井さんは、明確にフェミニズムを意識して書いていらっしゃるということですね?

酒井 意識の中にありますね。

長島 私もフェミニズム関連のイベントなどに呼ばれることがあるけれど、フェミニズムについて語ると「怖い」と言われたり、どこか構えられたりしてしまうことが多い印象です。そういう意味でいうと『次の人、どうぞ!』は、ユーモラスで知的な文章そのものの面白さが読み手をぐいぐい引っ張って、気づくとフェミニズムの知識が頭に入っている、みたいな本だと思っていたので、「目くじらをたてるほどのことではない」と言われることがあるとは思いませんでした。

 酒井 口に出さないけれどそう思っている男性も、多いと思いますよ。 

男の子と女の子の「違い方」も変わっていく

会場に来ていた女性から「女性としての視点が作品づくりのコアになっていますか」という質問が飛んだ。それに対して2人の答えは…。

長島 中学のとき、読書感想文の課題図書だったある文豪の作品を読んだのですが、おもしろくなくて感想文が書けなかったことがあります。作者自身が投影されていそうな主人公の男が、先輩のガールフレンドに横恋慕する話なんですが、振られた腹いせなのか、女性の悪者扱いっぷりがすごくて。私からすれば主人公の男みたいな、こっちは興味がないのにしつこく誘ってきて、困っていることにも気づかない人って面倒臭いし、ちょっと怖いなって感じで、この女性のどこが悪いの?と思った。ただ、偉い人の書いたものだし、この良さがわからないのはきっと自分が中学生で、馬鹿だからなんだろうと思って飲み込んでしまいました。

年を重ねると、あの本が面白くなかったのはわたしが恋愛や文学を理解できないからじゃなく、小説家のものの見方が、「女」を生きる自分のそれと違うからだったんだとわかってきて、例えばわたしは「セックス・アンド・ザ・シティ」シリーズを愛しているんですが、それは女性から見た世界のしくみや論理がそこに描かれているからだと思う。そういう意味で、役割としての「女性」の視点を自分が持っているという認識は、作品を制作するにあたってわたしには重要です。

酒井 読書感想文って、いわば書評みたいなもの。大人にとっても難しいのだから、子供には書かせない方がいいのに、と思います。本なんて、面白い、普通、つまらないくらいしかないじゃないですか。もっと自由に本を読んでもらいたい。そしてご質問への答えとしては、私は男の人についての本を書いたことがないんですね。性愛の部分以外では、男の人に興味がないもので、男性をネタとして書きたいと思ったことがないんです。

デビュー当時から「女子的な世界」が大好き。『枕草子』などの平安時代の文学も、女子校的要素が強いからこそ、読むようになりました。日本は儒教の影響か、男女の居場所がぱっきりと分かれがち。どうして男女が分かれて生きていくのか、女だけの世界はどうなっているのか、それが私にとっては、書きたいと思う最初のきっかけだったかもしれません。

長島 酒井さんが女子校出身なことと関係ありそうですね。

酒井 若い頃の経験は色濃く残っていて、実はいまだに、男の人が自分と同じ人間だとは思えない部分があるんです。その点、息子さんという存在がいると違いそうですよね。

長島 私も女子校出身なのですが、男子がいないからという理由で女子校ばっかりを受験しているんですよね(笑)。生まれてくるのが男の子だとわかった時、さすがに男子だからという理由で「面倒臭い」と思う母親ではかわいそうだと思って、男の人全般に対する悪い先入観を克服したいと思うようになりました。

酒井 なるほど! 私はきっとこれからも、男の人との間に薄い膜が張ったような感覚で生きていくんだろうな‥‥。

長島 保育園のとき、大ホールで子どもを遊ばせながら保護者会をすると、女の子はお母さんの横に座って静かに折り紙ができるのに、男の子は「ぎゃー!」って走り回ったりするんです。そういうのを見て、生物学的な性差ってあるのかなと思うこともあったけれど、たとえ幼児でも身近な人やテレビなどを通じて自分を「男」や「女」として社会化しているのだろうし、個別差もありますね。

酒井 そういう男の子と女の子の「違い方」も、これからは変わっていきそうです。

長島 そういう違いは、社会との関わり合いの中で生まれるものですからね。社会が変われば変わっていくんでしょうね。

その時代、時代で女性が上げた声が社会を変え、また新たな声が上がり…を繰り返してきても、なかなか深まらない男女間の相互理解。

女性の生きづらさがなくなるまでには恐らく、まだまだ時間がかかるだろう。

酒井順子さんの言う通り、「人の意識はそんな急には進まない」。そして「戻そうと思うと戻せる」。だからこそ、諦めずに「いちいち言う」という行為こそが、未来の男性と女性をつなぐ架け橋になるに違いない。

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(左上より時計回りで)酒井順子さん著『百年の女 「婦人公論」が見た大正、昭和、平成』(中央公論新社)、「次の人、どうぞ!」(講談社)、長島有里枝さん著『背中の記憶』(講談社文庫)
榊原すずみ

 ●酒井順子さん エッセイスト

1966年、東京都生まれ。大学卒業後、広告会社勤務を経て執筆業に。2003年、『負け犬の遠吠え』がベストセラーになる。『子の無い人生』『男尊女子』など著書多数。近著に『次の人、どうぞ!』(講談社)がある。

 ●長島有里枝さん 写真家

1973年、東京都生まれ。武蔵野美術大学造形学部視覚伝達デザイン学科卒業。2001年、『PASTIME PARADISE』(マドラ出版)で、第26回木村伊兵衛写真賞受賞。初のエッセイ集『背中の記憶』で第26回講談社エッセイ賞を受賞