集団的自衛権をめぐる与党協議が続いている。慎重姿勢だった公明党が折れる気配をみせていて、まあ遠からず適当なところで手打ちとなりそうな気配、というふうに傍からはみえる。
(朝日新聞2014年6月13日)
高村氏がこの日示した見直し案は「武力の行使」の3要件と位置づけられた。特に①については72年の政府見解を直接引く形で、日本に加えて他国に対する武力行使も前提に「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがある」ことを新たな要件とした。「他国に対する武力攻撃」を加えた点が、集団的自衛権の行使を認めることにあたる。
この手のものはたいてい解釈の余地を残す玉虫色の合意をしておいてお互いがそれぞれ都合よく解釈して「自分たちの主張を通した」と宣言して終わる。公明党も政権にい続けることの方が優先だろうから、振り上げたこぶしの降ろし先があれば乗るにちがいない。このあと法律を変えなければならないにしても、今の国会ならそれほど問題なく通るだろう。
というわけで、解釈変更で戦後日本が守り続けてきたものをあっさり捨てる瞬間が近づいている。よく日本国憲法を改正手続きが厳しい「硬性憲法」などと称するが、こうやって政権の解釈ひとつで根幹に近い部分をあっさり変えられるというなら、これはむしろ世界でも最高水準の軟性憲法とみるべきであろう。
となれば、もはや憲法改正手続きなどいらない。国民投票法も成立したそうだが、もうそんなことをする必要もなかろう。時の政権の判断でどんどん解釈変更してしまえばいい。閣議決定で決めた制約も、閣議決定で覆せる。「武力行使の3要件」とやらも、いったん実務段階に移れば、実際の運用ではどうとでもできる。
(NHK NEWSWEB 2014年6月13日)
改正国民投票法は来週にも公布され、直ちに施行される見通しで、憲法改正の国民投票を行うことが可能になります。
もちろん、この流れに反対する政党が政権をとったら、逆の閣議決定をすればいいわけだから、この動きを「右傾化」みたいな文脈でとらえるのはやや筋がちがうと思う。このやり方は右方向にも左方向にも、あるいは斜め上でも後ろ向きにも使えるものだ。その意味で、今回の動きの意味は、防衛政策の変更といったレベルではなく、国の方向性といった話でもなく、政府に歯止めをかけるという憲法の役割自体を反故にするものとみた方がよいように思う。
現在の状態も、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」という文面の憲法の下で世界有数の軍事力を持つという、それ自体かなり乱暴なことをしているわけだが、これまではそれでもだいぶ抑制的に運用してきた。今度はそれを集団的自衛権にまで拡張できると読もうとしているのだ。憲法学者がどういおうが、これは通常の日本語として理解できる範疇を超える。
とはいえ、眉間に皺を寄せているだけでもつまらないので、「前向き」(?)に考えてみる。このくらい文面とちがう解釈が許されるということは、他の条文についても、解釈で変更できる幅はもっとずっと広くとらえていいのではないか。
というわけで、解釈で変更できる幅がどのくらいあるのか、いくつか条文をとりあげて、ちょっと考えてみる。
第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
「日本国民統合の象徴」を「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と読んでもいいだろうし、逆に「国民の総意」に基くって名目で天皇制を廃止してもいい。大元帥閣下に祭り上げてもいいし、縦縞の服を着てコンビニのレジに立ってもらってもいいわけだ。「主権の存する日本国民」が選んだ国会議員に選ばれた首相が決めるのならその地位をどう決めようと文句はあるまい。
第十四条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
「平等」に関する考え方はいろいろありえよう。「貧乏人は麦を食え」もひとつの平等だし、全国民が同じ所得を得て、ついでに皆人民服を着て「同志」と呼び合うのもひとつの平等だ。時の政権の解釈で自由に決めたらよい。
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
「保障する」といったって、なんでもすべて自由にできるというわけではないことは自明だが、その制約できる範囲などは、まさに政権の解釈でどうにでもなる部分だ。劣悪な漫画に表現の自由による保護はいらないと言った政治家がいるようだが、それなら当然、劣悪な小説にも表現の自由はいらないであろう。私の分類では石原慎太郎の小説は概ねこのカテゴリに入るが、他の方には他の考え方があろう。その時その時の内閣総理大臣様のお好みで決めていただければよい。
「劣悪な漫画を「表現の自由」という理由で野放しにしてよいのか~自民党・土屋正忠議員法務委員会質疑書き起こし」
(ニコニコニュース2014年6月5日)
私はですね、創作物、まさに「言論の自由」とか「表現の自由」の中で出てくるものというのは、人々に勇気を与えたり、希望を与えたり、失意のそこに陥っている人を励ましたり、こういうことこそ創作活動の意味であって、この先ほどの資料1に出てくるような気持ち悪くて読む気にもならないような劣悪な表現をやっているものを保護する必要はないと。
件の政治家氏は『ゴルゴ13』や『明日のジョー』を褒め称えていらっしゃるようだが、それらの中には、善良な市民的な視点でみれば、相当にひどい表現がいくつもある。つまり、もし本当にちゃんと読んだ上でそうおっしゃるなら、何が「劣悪」かの基準なんて個人の主観でどうとでもなるということだ。時の政権が自由に「許されない表現」を決めて禁止でも何でもすればいい。それを「検閲」とは呼ばないのも、当然ながら政府の裁量の範囲だ。
第二十四条 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
そういえば最近、同性婚の婚姻届を出された自治体がこの条文をたてに受け付けを不受理としたケースがあったらしい。とてもまじめに考えたとは思えない対応だが、解釈改憲の範囲を広げればこんなものはどうとでもなる。
(Web東奥 2014年6月6日)
市は約1時間後、不受理の判断を2人に伝え、その後、「日本国憲法第24条第1項により受理しなかったことを証明する」と記した不受理証明書を発行した。
「両性」を同性同士の組み合わせも含むと読むこともできようし、男性同士はいいが女性同士はだめ(その逆でもいい)みたいに読んでもよかろう。人間同士に限らず動物や二次元のキャラクターも含むとする解釈も当然ありうる(これで救われる国民は少なくないだろうよマジな話)。3人以上でも結婚できると解釈すれば、一夫多妻だの一妻多夫だのが実現できるぞ。
第二十五条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
これも、何が「健康で文化的な最低限度の生活」かでいろいろ考え方があろう。よく話題になる生活保護についても、「生かさず殺さず」の家康スタイル(あれは俗説なのだが)にするか、はたまた「月に一度は海外旅行」の有閑マダムスタイルにするか、適宜政権が決めたらよい。
第四十二条 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。
参議院不要論というのがある。昔からあるが、最近では特にねじれ国会のころよく主張された。個人的にはねじれ国会みたいなことが生じるからといって参議院がなければいいとまでは思わないが、ともあれ不要と考える人がいることは事実だ。憲法に「両議院でこれを構成」と書いてはあるが、解釈改憲で参議院はないことにして廃止しちゃっても、まあどうってことはなかろう。それじゃもったいないというなら、貴族院に戻して「旧華族の出身者のみで構成する」ぐらいに決めたってかまわない。いっそ動物の権利を認めて犬やら猫やらを議員としてお迎えするなんてのも斬新だ。
第九十六条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
解釈変更で内容を実質的にどうとでも変えられることがわかった以上、この条項の存在意義はもはやほとんどないが、まあ残しといても害はなかろう。盲腸のような条文になったわけだ。もったいないから、AKB総選挙を国民投票にでもして、皆さんに楽しんでいただいたらどうか。
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
これもあまり意味のない条文となるわけだが、実際、今の皆さんは憲法を大事にはしておられないようだから、今とさして変わらないとみることもできる。憲法なんてそもそもなかった、ということにするのも解釈変更の範囲内でいいのではないか。
というわけで、解釈変更で憲法はどうとでもできることがいまや明らかとなった。いちいち挙げないが、他の条文も解釈変更でおよそ考えうるほとんどの状況をカバーすることができよう。あらゆる体制や制度、あらゆる政治的主張に対応できるという柔軟さだ。軟性憲法どころではない。むしろ超伸縮憲法ぐらいにいってもいいのではないか。
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ネタばかりだとアレなので最後にちょっとだけまじめに書くと、この問題は集団的自衛権を認めるかどうかとは別次元の話だ。国民の生命財産やら幸福追求権やらを守るという趣旨はもちろんわかるしそのために集団的自衛権の行使が必要となる場合があるとの主張も理解できるが、閣議決定で解釈変更したからよい、といった決め方をするのには反対だ。せっかく国民投票法ができたのだから、堂々と憲法改正手続きを行えばいいではないか。反対されそうだから閣議決定で、というのは明らかに逃げであり、憲法をないがしろにするものといわざるをえない。
上にも書いたが、このようなやり方は、今後政権をとるどの党にとっても前例となりうる。現与党の皆様は、将来他の党が政権をとった際、同じやり方で憲法がどんどん解釈変更で実質的に改憲されていくという事態を想像したことがあるのだろうか。政府を縛るという憲法の機能は、そこまで見越した上で設けられている。今やられようとしているような乱暴なやり方がこれまで行われなかったのは、それなりに理由があるのだ。自分たちの都合でいいように扱うことがどんなに危険なことか、もう少しまじめに考えてもらいたい。