養老孟司さんに聞きました「“死”は怖くないですか?」

「死というのは、常に具体的なものです」と養老孟司さんは言います。その意味とは? 若者が死を選ばずにいられる社会についても聞きました。
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養老孟司さん
KAORI NISHDA/西田香織

養老孟司さんは、死を怖いと思ったことがないという。解剖医として多くの死体と接し、『バカの壁』(新潮新書)といった著書などで社会を論じてきた知の巨人は今、「死」をどのように捉えているのか。

訪問診療医の小堀鷗一郎さんとの共著『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』(祥伝社) では、「私の場合は、死から生を見るということで、視点が普通とは逆転してしまう」と綴ったが、そこから見える景色とは。リモートで話を聞いた。

 

死とは社会の約束事

━━今年、私(聞き手)の義祖母が亡くなり、6歳の娘とともに「死」とはどういうものかを語り合いました。養老さんならそのような小さな子どもに、「死」をどのように伝えますか?

結論を言うと、こういう話に一般解はありません。生死の問題はマニュアルではいけない。死というのは、常に具体的なものです。その場その場で考えるしかない。

━━棺に入れられた義祖母の身体と、葬儀まで数日にわたって家で一緒に過ごす体験をしました。「医学的な死」と「認識上の死」は別のものだと、改めて実感しました。

その2つの死の間にはタイムラグ、ズレがありますね。つまり死というのは、社会的な約束事として決められているんです。医者が死亡診断書を書くための要件があって、それを満たせば「死んでいる」ということになる。だから、死亡診断書には死亡時刻を書くことになっています。

しかし、おばあさんのような親しい間柄の場合、客観的な基準はない。いつまでも生きていると思っている。いや、思っていたいんですね。僕は「二人称の死」と呼んでいますが、これはさっき言ったように、一般解がないということです。家族が死んだら、自分が変わっちゃいますからね。極端に言えば人生が変わって、別な人になる場合もある。

世間の常識として、死ぬというのは客観的な出来事だと思われてますが、それは「三人称の死」、つまり、神様目線と僕は呼んでいます。本当は厳格な定義はできません。死亡時刻なんてとても書けません。

 

若者の死因1位は自殺。「対人」ではなく「対物」へ

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養老孟司さん
KAORI NISHDA/西田香織

━━20代、30代の死因の1位が自殺となって、長く経ってしまっています。 

日本の社会では昔からあるんですね。一番多い自殺の理由は、病苦です。鬱もそれに入れていいと思います。仕方がないですね。止めようがないです。

大学で教えていた頃、学生さんでそういう方がいました。あとから思うとサインがあったんですが、それは後から考えるからで、そのときは気が付かない。気が付いていれば何か打つ手があったかなと思うけど、気が付かなかった。まさか死ぬとは思ってません。それは未だに後悔しています。

━━養老さんがおっしゃる「仕方がない」というのは、著書(『手入れという思想』)にもある、自然界には「仕方がない」としか表せない領域が存在するということですね。ネットが普及し、SNSなどの影響力が大きくなった現代では、「世間」が今まで以上に可視化され、息苦しさを感じている人も少なくないと思います。

僕が思うのは、「対人」と「対物」を分けたときに、若い人は「対人」に集中しすぎているのではないかと。子どもの自殺はいじめが原因とかよく言われるけど、対人ですよね。そんな時、僕は「山に行きなさい」とよく言っています。人の顔ばっかり見ているんじゃなくて。

山は「炎上」したりしませんから。「いいね」「わるいね」なんて言いませんよ。

物との関係をもっと大きくしたらどうですか。ただ、都会はそれがなかなかできない。僕なんかが子どもの頃だったら、山へ虫捕りに行っちゃう。都会は子育てに向かないんですね。

━━私も都会で子どもを育ててしまっています…。

そういうところで子どもを育てちゃいけないんです。子どもは自然ですから。都会では、自然は排除されます。

親が経済的なこととか仕事のこととかいろいろ理由を言うんだけど、しなきゃいけないことというのは、理由とは関係がない。子どもはこうしないとだめですよ、というだけのことで。僕は田舎暮らしを勧めてるんですけど。

━━学校教育についてはどのように考えていますか?

根本的に変えるべきだと言っています。

僕らが子どもの頃は、野山で遊んでいる子どもをつかまえて学校の教室に座らせておくことに意味があったんです。今はまったく逆でしょ。ほっといても家にこもっているだけ。学校に来たら、子どもたちを野山に放した方がいいんじゃないか。つまり、学校の役割が昔と逆になっているんじゃないか。

不登校の子どもたちとよく付き合ってますけど、夏休みが明けると子どもの自殺が増える。それっておかしいと、学校が思わないといけない。つまり、虐待しているわけでしょう。

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養老孟司さん
KAORI NISHDA/西田香織

人生もっとズレちゃってていい  

━━養老さんは今までも、自然や子どもへの「手入れ」について論じてこられました。都市での生活で、私たちは身体の「手入れ」についてどう考えていくことができますか?

身体というのは自然であって、本来この身体の当てはまっていた状況があるはずですね。それを頭で考えて都市を作ってしまっているから、ズレが大きくなってしまっている。これでどこまでやる気だろうと思ってるんですけどね。

それでもAIって言ってるでしょ。もっと極端になると、人間がいらなくなると言っている。

そういう考え方には意味がないと、はじめからわかるでしょ。変だよね。なぜ人間がいらなくなるような機械を作っていかなければならないんだろう。

━━本書には「人生は遊び半分でいいんです」と書かれています。とは言え、私たちは明日には学校や会社に行かなければならない。さらには、「夢」や「自己実現」などのプレッシャーも強いように感じます。

もっとズレちゃってていいんじゃないですか。

「夢」とか「自己実現」と言った瞬間に、生真面目な感じになる。夢ってなんでもありですからね。日本ではなにか決まったかたちのようになってしまう。そんなもん夢じゃねえだろ、って。夢ってもっとめちゃくちゃなもんでしょ。そういうめちゃくちゃなものを入れる余裕がなくなっちゃった。

 

「本人」がノイズになるのが現代 

━━本書の中で、小説家サマセット・モームの『要約すると』を参照した記述が印象的でした。解剖実習の描写で、「神経の走り方が教科書と違います」という実習生に対して、助手は「人とはそういうものだ、解剖では例外が普通だ」と言います。生きている人間にも多様性があり、「例外が普通」で「いろんな人がいて当たり前」とも言えます。

本来、そのほうがストレスがないと僕は思ってるんです。できるだけ「普通」の範囲を広げたほうがいい。

世の中を意識できちんと作ってきたから、受け入れづらい。行き着くところがAIです。AIに扱えない状況の情報をノイズと言うんです。今では、人間がノイズになっています。

先日、「本人確認」について、こんな面白いことがありました。銀行に行ったときに、運転免許証を見せてくれと言われましたが、僕は持ってません。「保険証でもいいんですけど」と言われても、銀行には持って行かないでしょ。それで「持ってないよ」って言ったら「困りましたね」という話になって。銀行の人は僕を見て「養老孟司だ」とわかっているわけです。

それで僕が不思議に思ったのは、その「本人」ってなんだろう、と。目の前にいて、銀行の人も本人だってわかってるんだけど、でも本人確認の書類が必要だと言っている。

別の日に、会社の課長クラスの人が「部下がメールで仕事の報告してくる。あれはなんだ」と言っていて、気付いたんです。課長本人のところにいって報告をすると、機嫌が良いとか悪いとか、二日酔いで酒臭いとか、いろんな情報が入ってくるでしょ。その情報は仕事にはいらないよね。それをノイズって言ってるんですよ。本人がノイズなんです。

僕が銀行に行って「本人だ」と言って、銀行の人がわかっていても、その本人はいらないんです。それはコンピュータに入ってないから。

だから「本人」がノイズになる時代が、現代です。システムにはまるものしかいらない。それを始めたのは医者です。患者さんを診ないで検査の結果を見ている。検査の結果が患者であって、患者本人はノイズです。邪魔くさい。いなくていい。だから「人がいらなくなる」と言いだすんです。

それが鬱陶しくなって、息苦しくなってくるのは当たり前でしょう。そういう社会をわざわざ作ろうとしているけど、なんでそんなことすんの、とこっちは聞きたくなる。

━━私たちがそのような社会のあり方を見直していくには、何ができるでしょうか?

いや、だからそれは、そういうものに一般的な解答があるという前提でお聞きになられている。僕が問題にしているのは、一般的な解答がないものが大事なんじゃないかということです。今の人は、一般解がないとイライラするんです。

特に人生や生死というのは全部、具体的な問題です。それは政府や組織で片付く話じゃない。人がどう生きるかという話を組織でやったら、戦争中みたいになりますよ。「万事お国のため」ですから。

 

死が怖いなんて考えても仕方がない 

━━子どもの頃、死んだら自分にとっての宇宙や世界はすべて終わりだと思うと、恐ろしく感じることがありました。生死への、そうした畏怖の念をいつの間にか忘れてしまったような気がします。

死ぬことなんて考えてもわからないでしょ。僕はコロナが嫌なのは、入院するのが嫌だから。死というのは、意識がなくなって醒めないだけなんだから、今夜寝るときと同じ。一度寝てしまったら、意識で起きてるわけじゃないんで。

僕は死を怖いと思ったことはないのでよくわからないですね。そんなことは考えても仕方がないです。

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養老 孟司・小堀 鴎一郎『死を受け入れること 生と死をめぐる対話』(祥伝社)
KAORI NISHDA/西田香織

(文:遠藤光太/編集:毛谷村真木