来期はリアルの講義に戻れるのか?
コロナ禍によって、ほとんどの大学で、前期の開始が遅れ、開始後は、オンライン(遠隔)講義のみとなりとなり、徐々にではあるが、7月に向かって、オンラインとリアル(対面)の併用とオンラインのみの半々に分かれた状況となった。
私が教鞭をとる明治大学では、前期は原則オンライン講義(随時フォロー・アップするオン・デマンドとZOOMなどによる双方向講義)のみとなり、現在、9月末からの後期は、ゼミや語学などの小人数の講義に限ってリアルも可能としている。しかし、講義の基本はネット講義で、リアル講義はあくまでネット講義の補足的位置づけであるこれは、一度もキャンパスに来たことがなく、高校生から大学生になった実感を持てない一年生に対する配慮ととらえることができよう。
さて問題となるのは、来期はリアル講義に戻るのかである。筆者は、戻ることはないであろうと思っている。その理由をいくつか挙げてみよう。
新型コロナの心理的恐怖を解消できるか?
まず、新型コロナの明確な終息を宣言することは極めて難しい。完全に有効なワクチンは、ワクチンの歴史をみれば、その開発は容易ではない。
また、政府も未知の恐怖を人々に刷り込んだ新型コロナの脅威を撤回することはできないので、2メートルなりの十分な物理的距離を今後も保たなければならない。
文科省は、9月3日に、小中高向けの「感染症対策マニュアル」を更新し、感染状況に応じて、これまでは教室などでの身体的距離を「できるだけ2メートル程度」としていたものを、「1メートルを目安」に変更したり、政府は、新型コロナの指定感染症を現在の2類相当(中東呼吸器症候群(MERS)や重症急性呼吸器症候群(SARS)と同じ2類感染症)から見直す意向を示していたりするなど、基準を緩和しているようにも見えるが、多くの国民に刷り込んだ新型コロナに対する心理的恐怖を解消できるかは疑問である。
大学は容易にクラスター化する
そして、大学キャンパスは通学範囲と生徒数が小中高とは異なり、容易にクラスター化する可能性が高いので完全なリアル講義には戻れないのではないだろうか。
大学では数百人から数千人以上の学生が広範囲からキャンパスに集まり、校舎内で頻繁に移動し、すれ違う。そして、100人から数百人が、「密室」「密集」的な状態の大教室に集まるのである。そのような感染リスクの高い場所は、大学や大規模な室内イベント会場など以外には存在しない。
実際、2メートルなりの物理的距離を取るとなると、リアルの大講義はむりであろう。大学にとって、その距離を確保できるような教室を準備することは現実的とは言えない。
メディアなどで報じられているように、若者は高齢者と比べ重症化しにくいとされているので、PCR検査で陽性者が一定数出ることは想定されたとしても、友達作りやキャンパスライフなどの学生のメリットを優先し、リアル(対面)講義を行うこともできなくはないであろう。しかし、メディアが連日陽性者(メディアはなぜか感染者という)数を報じており、陽性者本人や陽性者がでた学校などに対するバッシングが発生していたこれまでの状況を鑑みると、リアル講義の選択肢は現実的とは到底言えない。
大学にとっての現実的な解決策は?
大学にとっての現実的な解決策はリアル講義の再現であるオンライン講義ではなく、ゼロ・ベースでのオンライン講義とリアル講義のハイブリッドではなかろうか。まず、その前提を考えてみよう。
実は、オン・キャンパスで、リアルのみとオンラインのみの講義の併用を行うことはかなり難しい。リアル講義に出た学生が、次のオンライン講義に出るためにPCを接続する場所を、物理的距離を考慮して確保するのは容易ではない。また、学内ネットワークの観点で多数の学生が同時に学内ネットワークにつなげる負荷に対応するにはネットワーク容量の相当の拡充が求められる。何曜日はネット講義の日、何曜日はリアル講義の日と日にちを変えればできないこともないが、卒業要件を満たすように講義日程を組むのはかなり難しいであろうし、それが学生に歓迎される方法かもはなはだ疑問である。
「ネット講義は疲れる」という学生たち
そして、たとえ少人数であっても、完全なリアル講義に戻ることはないのではないかと思われる。なぜなら、新型コロナで重症化するリスクの高い高齢者や基礎疾患者と同居している学生も多い。そういった学生にリアル講義への参加することを強制はできない。また、同様の状況の教員や教員のなかにも高齢な人もいるので、リアル講義を嫌がる可能性もある。実際にそれらを強制し、万が一新型コロナの感染者が出た場合の責任は取れないので、大学としても強制できないであろう。
くわえて、実は、学生たちのなかにはリアル講義にこだわっておらず、むしろオンライン講義を歓迎しているところがあると聞く。そのように考えていくと、リアルのみもしくはオンラインのみの講義という切り分けは現実的ではないであろう。つまり、オンラインとリアル講義のハイブリッドをゼロ・ベースで考える必要がありそうである。
筆者は、特に双方向のオンライン講義の価値は十分あると考えている。リアル講義と比べて、オンライン講義は画面なので、教員と学生との距離が教室での講義よりも感覚的に等距離なので議論はより容易である。細かい質疑対応も可能である。リアルでは質問できないが、オンラインであれば質問する学生も多い。
その一方で、リアル講義のみを経験している二年生以上の学生からが、「オンライン講義は疲れる」という声を多く聞く。なぜかと言えば、いつ質問が来るかわからないので講義を集中して聞いていなければならない。すべての講義に出席の代わりに毎回の小課題が付く。テストはできないのでレポートを書くこと(どの程度書けばよいかわからないのでより力を入れて書くようになる)になる。要は、リアル講義の時よりも負荷が大きいわけである。これは講義に限った話ではあるが、私からするとちゃんと勉強しているようにも感じられる。
さて、大学の今後はどうなるのか?
では、オンライン講義が大学教育の前提となった場合、どのようなことが将来起こるかについて少し考えてみよう。
大講義の内容は、基礎的なので、将来、教員からAIになるかもしれない。その方が学生毎の習熟度に合わせて個別指導が可能になるはずである。つまり、大講義を担当する教員の数は減る可能性が高いのではないか。これは、基礎的語学にも当てはまるかもしれない。
そして、最終的には、双方向のオンライン講義だけ(一定のキャンパス・スクーリングはあるかもしれないが)で卒業も可能になるのではないか。そうすると現在の都心の学生数規制は意味がなくなる。地方にいて就職にも強い都心の有名大学生になることが可能になる。経済的に苦しい地方の家庭の子弟には朗報である。国境の意味もなくなるかもしれない。アメリカの一流大学をみればすでにその方向性が感じられる。
一方、文科省は、コロナ禍と地方創生を背景に、今年5月下旬に開催した第4回「国立大学法人の戦略的経営実現に向けた検討会議」での「国立大学の収容定員の柔軟化について」という資料で、現在凍結している国立大学の収容定員総数を増加させる検討を示唆している。
果たして、仮に都会の大学で双方向のオンライン講義で卒業できるようになると、地方の大学、特に国立大学(の文系)は文科省の思惑通りになるであろうか。グローバル化対応だ、地方創生だ、と喜んでいた地方の国立大学の未来は、コロナ禍で一転暗くはならないであろうか。
(編集:榊原すずみ)