数多くの映画祭で絶賛され、米国アカデミー賞とエミー賞ドキュメンタリー部門にダブルノミネートの快挙を果たした映画『行き止まりの世界に生まれて』が公開中だ。
本作は、アメリカ「ラストベルト」(アメリカ中西部などの寂びれた旧工業地帯)に位置するイリノイ州ロックフォードに暮らす、キアー、ザック、ビンの3人のスケートボーダーの、貧困と暴力に囲まれた生活を赤裸々に映し出す。
ロックフォードは、かつて自動車産業や鉄鋼業で栄えた街だが、今は「全米で最もみじめな街」と呼ばれるほど寂れ、若者たちは生きる希望を失っている。
トランプ大統領誕生に大きな影響を与えたと言われる全米の格差問題を象徴するこの地域の現実を三人の若者を通して描き、貧困、家庭内暴力、人種問題、階級格差などの問題を散りばめ、「21世紀アメリカの豊かな考察」と称された傑作ドキュメンタリーだ。
監督はロックフォード出身の中国系アメリカ人のビン・リュー。彼自身、スケートボーダーであり、暴力にさらされて育った経験を持ち、3人の主要な登場人物の一人として登場する。
カメラを向ける対象と同じ立場から撮られた映像は、どんな映画よりも登場人物の内面に近づき、初の長編映画ながら絶賛された。
ビン・リュー監督に、本作について話を聞いた。
「世間は“男らしくあれ”と押し付けてくる」
映画の冒頭、キアーとザック、カメラを持ったビンたちは、立ち入り禁止となった廃ビルの非常階段を上る。今にも崩れそうな非常階段を上りながら、何か危険なことに挑戦しようというのだろうか。しかし、ザックは急に「やっぱり止めよう」と引き返すことを提案する。
そこにナレーションが入る。
「世間は男らしくあれ、強くあれと押し付けてくる。そんなのはお仕着せだ」
このナレーションを冒頭に挿入したことについて、ビン・リュー監督はこう語る。
「あのナレーションを冒頭に入れるアイデアは編集のジョシュのものです。この映画が何を描こうとしているのか、最初に観客にわかりやすく提示するために、示唆的なセリフを入れようと。たくさんのインタビュー素材の中から、ザックのあのセリフを選びました」
この映画の主要な登場人物である3人の少年には2つの共通点がある。
1つはスケートボーダーであること、そしてもう1つは父親から暴力を受けて育ったことだ。
3人がいかに家庭内暴力に苦しみ、そして折り合いをつけようともがいてきたのかが映画の中で語られる。暴力を取材として扱うこの作品にとって、社会にある「男らしさ」の押し付けは何を意味するだろうか。
「この映画の製作を始めた2011年ごろには、まだトキシック・マスキュリニティ(有害な男性性)という言葉は一般的ではありませんでしたし、製作当初にはそのことはいまいちわかっていませんでした。
僕の場合は8、9歳くらいで男の子はこういうことをするものだ、あるいはすべきじゃないんだということを学んでいきましたが、最も影響を与えているのは家庭環境だと思います。
男性性がどこから来るのか、それは僕にはまだわかりませんが、家庭での体験が最もそれに影響を与えているのではないかと思います」
ビン監督は、この長編ドキュメンタリーの前に『Look At Me』という短編ドキュメンタリー作品で、スケーターたちを取り上げている。
その短編を制作中「メンタルヘルスや人間関係、子育てのスタイルに何かしら悪影響を与えている、父親の不在や確執、父親からの暴力のパターンに気づき」、長編映画のテーマにしようと考えたそうだ。
ストリートでスケートボードに明け暮れる若者たちの中には、少なからず家庭内に居場所を見出せず、はじき出されるようにストリートに居場所を求める人々がいる。
そして、それはこの映画の舞台であるロックフォードのような、貧困にあえぐ街にとって珍しい存在ではないのだ。
いかにして暴力の連鎖は断ち切れるのか
本作に登場する3人の若者は一様に暴力に苦しみ、自分の中にもある男性性といかに向き合うのかを迫られる。
家庭内暴力は連鎖しやすいとよく言われる。ビン監督は、登場人物の一人に暴力的な一面を見つけた時、「いかにスケートボーダーたちがマスキュリニティや虐待と折り合いをつけてきたかを探求するというテーマが、より差し迫ったものになった」と語る。
当初は自分自身を映画に登場させるつもりはなかったようだが、上記のことから、より正直な作品を作るべきだと考え、自分の弱さをさらけ出し、積極的に映画に参加することを決めたそうだ。
ビン監督は、母の再婚相手に暴力を振るわれていた。作中で、母親と対峙し、その時の苦しみを吐露する。家族同士で心をえぐるようなやり取りが赤裸々に映し出されている。
この映画で重要なことは、暴力を振るわれて育った3人全員がその暴力的コミュニケーションを引き継いだわけではないということだ。
その悲痛な連鎖を止めるために大事なことは何だろうか。ビン監督は言葉を選びながらこう語る。
「誰もが暴力をふるう能力を持っていると自覚することが大切だと思います。
安易に虐待する人間、しない人間に分類せず、誰もが人を傷つける可能性があることを受け入れることで初めて、コントロールできるようになり、自分の行動に対して責任を持てるようになるのだと思います」
暴力性が有害な男性性の一部であったとしても、男性である以上、男性性すべてを排除することはできない。
重要なのはそれを知ることだと監督は言う。
そのためには自分自身と向き合うしかない。映画は、キアー、ザック、そしてビン監督にとって自分の弱さや男性性と向き合うきっかけになっているのが印象的だ。
キアーはこのドキュメンタリー撮影を「セラピーみたいなもの」と言う。ザックもまた、自分の弱さを涙ながらに吐露する。ビン監督にとってこの映画の製作はどんなものだったのだろうか。
「自分を成長させてくれる何か、自分が欲していた答えを見つける手助けになる、そんな作品だったと思います」
この映画には3人の若者の確かな成長の跡が刻まれている。
夢のない街にあっても、人は弱さと向き合い前に進むことができる。絶望的な貧困と暴力から、三者三様の希望をつかむ若者たちの姿が胸を打つ作品だ。