誰よりも自分自身を許せない母親たちへ

多分、もっと気楽にやれば良いんだろうと思う。しかし、どんな場でもそこにふさわしい振る舞いをすべきだと、母親になった自分自身に厳しい目を向けている。私が怖いのは他人ではなくて、自分自身なのだ。
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ステファニー・ランド『メイドの手帖』(双葉社)
紺さんのnoteより

私の中の何かが、作家になることを求めていたのだ。だが私は、自分自身に、これは今だけのことだ、ミアはまだ小さいのだと言い聞かせた。作家には、あとからだってなれるかもしれない。こう考え、唯一自分の中に残されていた最後の炎にバケツで水をかけるような気持ちになった。私の中に最後まで残っていた、怖れずに夢を見ようとする部分に。

平積みされた本の表紙のイエローが目を引いて、私はその本を手に取った。最低賃金、シングルマザー。以前の私であれば、手にも取らなかったであろうタイトルだ。しかし、子供がいる今、すべての母の物語は私にとって興味の対象だった。

バーに行きたかった。自由にビールを飲めた日々が懐かしかった。ビール自体が重要なのではなく、(中略)心配することなく自由を謳歌したかったのだ。

 この一文を目にした時、手にした本をレジに持っていくことに決めた。

ママにもお休みが必要、パパにこどもを預けてママ友と気晴らしの女子会でリフレッシュしちゃおう!そういう類のキャンペーンを目にするたびに、私は鼻白んでいた。

母親たちが心の底で求めているのはそういう誤魔化しみたいなリフレッシュではなくて、世の中の大抵の父親たちがそうするように、こどもがいなかったころと同じように自由に働いたり遊んだりすることではないのか?

父親が面倒を見られるあいだだけの束の間のリフレッシュも無いよりはマシだが、こどもが熱を出せば予定ごと吹き飛ぶようなリフレッシュが、果たして本当に母親たちが求めているものなのだろうか。

無論、こどもがいる限りはそんなリフレッシュが不可能であることは百も承知である。

しかし、ビールを飲むことそのものが重要なのではなく、好きな時に好きなように自由にビールを飲めた頃を懐かしむシングルマザーの彼女の気持ちが、誤魔化しみたいなリフレッシュキャンペーンの何倍も私の心にぐさりと刺さった。

娘と一緒にいると、視野狭窄に陥っていることに気付く。

こどもの関心は気まぐれで、道端に捨てられた短い吸い殻や、泥にまみれた落ち葉なんかに突然駆け寄っていこうとする。危ないからと手を引くと、この世の終わりみたいな顔で泣き叫ぶ。

声がとにかく大きいので、商業施設やレストランに入るのもかなり気を遣う。自然と子連れの多い施設に入ることになり、娘よりも大きな声で駄々をこねている子を見ると密かに安心する。

普段ひとりで街中を歩いている時、どれほどたくさんの情報を無意識に受け取っていたか気づいて愕然とする。

すれ違う人の顔や、ちょっとお洒落な店のショーウインドウ、それらは娘と一緒に歩いていると全く私の目に入らない。誰かに迷惑をかけていないか、常に神経を尖らせているので、ちょっとした近所の散歩でどっと疲れてしまう。

多分、もっと気楽にやれば良いんだろうと思う。

例え誰かに迷惑を掛けたとしても、それが取り返しのつかないくらいの大迷惑でなければ、大抵のひとがきっと翌日には忘れてしまうのだ。

私が怖いのは他人ではなくて、自分自身なのだと分かっている。

どんな場でも誰しもがそこにふさわしい振る舞いをすべきだと思っていて、そこから外れたひとたちを密かに侮っているような、そういう底意地の悪い気持ちが何より、母親になった自分自身に厳しい目を向けている。

私に対して信頼できる友達のように話をするドナのようなクライアントが、ミアのためにと塗り絵とクレヨンをプレゼントしてくれるような彼女が、私が食料品店にいたら同じように振る舞うだろうか?フードスタンプを使う清掃員の女性をどう思うだろうか?ハードワーカーだろうか、それとも負け犬だろうか?私は極端に自意識過剰になって、可能な限り自分のことを隠すようになった。

どんな場でもそこにふさわしい振る舞いをすべきで、それが出来ないのは母親である貴方の頑張りが足りないから。

そういう自己責任論は、シングルマザーであるステファニーを追い詰めていく。

貧困に陥っているわけでもない私と彼女の境遇を重ねるのはあまりに傲慢だと分かってはいるが、値踏みするような誰かの視線から逃げ出したくなるのは、こどもというコントロールしきれない生き物と暮らしてみて、初めて理解できたことだった。

本当の意味で自由なリフレッシュも、誰かの視線から完全に逃げることも、子育てに奮闘している今は遠い夢物語である。

しかし、頭ではそう理解していても、心は勝手に羽ばたいてしまうもので、その羽ばたきを止めることは誰にも出来ない。

ミアがお風呂に入っているときや、何か他のことに夢中になっているとき、私は時間をかけて、自分の心の中にあることがらをひたすら休まずタイプした。週末の朝に書くときには、いい天気のこと、それをどのように楽しもうかという計画、あるいは娘と行ったら楽しそうな秘密の場所についてたくさん書いた。ありとあらゆる場面で私に反抗し続けるミアとのくたくたの一日を終え、彼女が眠ったあと、私は書いた。私は自分の記憶から甘い思い出を引き出して、それを母親と子どもの間にだけ存在するつかの間の本質的な繋がりを重ねあわせ、書いた。

 この一節を読んだ時、湧き上がる共感で視界が滲んだ。

あまりに遠い場所にいるはずの彼女の境遇が、こんなにも私の胸に刺さる。

不思議だ。文章にはそういう力がある。一生涯顔を合わせることすらできない相手の心がぐんぐん近づいてきて、近しい誰にも話せなかったような事柄が深く理解され、優しく慰められる。

娘を産んだ後、身体の痛みと精神の沈み具合が尋常でなく、今感じている荒波のようなこの感情をいつか文章にして世の中に出してやると強く念じていて、それだけが心の支えだった。

幸い身体も心も今は健やかで、しかし、ふとした時に育児が辛くなるこの感情からは、恐らく娘が独り立ちするまで逃げられない。

そのたびに、私の心は文章を書くことへと羽ばたいている。

辛い経験もストレスも、文章にできると思えば荷は軽くなる。娘が寝た後、こうして書くことで感情が整理され、次の新しい朝をなんとか笑顔で迎えることができる。

書き記すということは、私たち二人の人生や冒険に感謝し、一幅の美しい絵を描くための自分なりの方法だった。

 ステファニーがそうしてくれたように、私の書き記したものも、遠いどこかの誰かにとっての支えになれば良いなと願っている。

引用はすべて、『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』(双葉社)より

(2020年08月08日の紺さんのnote掲載記事「誰もここまでは追ってこられない」より転載)