宮崎駿『風の谷のナウシカ』。愚行と矜持を描き切った叙事詩

巨匠が自らペンを執って描き上げた原作のマンガは、掛け値なしで死ぬまでに読んだ方が良い作品であり、今こそ読まれるべき作品だ。
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宮崎駿『風の谷のナウシカ』
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自然の前で人間の力など小さなものだ。

新型コロナウイルスに翻弄される日々は、我々にこの陳腐な言い回しを再認識させる。 一方でその小さな存在が気候変動を引き起こし、人類は自然と調和したあり方を模索しつつある。

我々は危機を前に賢明な選択ができるのか。

この一大テーマを念頭に最近、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を精読した。

 

映画とはまったく別の作品

マンガ版『風の谷のナウシカ』は、中断を挟みつつ、1982年から1994年まで『アニメージュ』誌上で連載された。

 

1984年公開の映画版は、関与したスタッフが「スタジオジブリ」の原型となったことを考えれば、日本のみならず世界のアニメにとってエポックメイキングな作品だ。ただ、壮大なテーマを描き切れず、やや中途半端な出来に終わっており、私はテレビ放送されていてもチャンネルを合わせる気にはならない。

映画版の数倍のボリュームをもつ原作はまったく別の作品と言って良いだろう。こちらは2~3年に1度は通読する屈指の愛読書だ。それはそうだろう。巨匠が自らペンを執って描き上げた唯一の長編マンガ、一大叙事詩なのだから。

本コラムは2年前の連載開始時に、「あえて文句無しの傑作をしつこく推薦し、読者が未読のままうっかり死んでしまうリスクを軽減する」のを使命と位置付けた。

『風の谷のナウシカ』は掛け値なしで死ぬまでに読んだ方が良い作品であり、今こそ読まれるべき作品だ。

 

「どこかに実在する」と錯覚

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宮崎駿
Frazer Harrison via Getty Images

宮崎駿は見る者に「この世界はどこかに実在する」と錯覚させ、物語に引きずり込む手腕が際立って高いクリエーターだ。それは凡百の作品の「箱庭」とは違い、独自の成り立ちをもちつつ、我々が生きる現実世界と地続きだと感じられるものだ。

その物語世界のリアリティは、スキのない設定と、登場人物たちが背負う人生の手触りが支えている。

血で血を洗うトルメキアの権力闘争を生き抜くクシャナ。王族の争いの中で活路を探る抜け目のない男、クロトワ。仇敵クシャナへの復讐に燃える工房都市ペジテの生き残りアスベル。「石化の病」に苦しみながら肩寄せあう風の谷の人々。理不尽な暴政に翻弄される土鬼(ドルク)の民。蔑まれながらも腐海と共生する蟲使いたち。

こうしたリアルな人々の肌触りがあってこそ、ナウシカや土鬼の神聖皇帝、ナウシカの供となる少年チクク、腐海に住む謎の「森の人」たちなど超常の力をもつキャラクターたちの存在が鮮明に浮き上がる。

広がりと起伏に富んだストーリーも見事で、大人の鑑賞にたえる上質なエンターテインメントに仕上がっている。

娯楽作品としての質が低ければ、本作はやや左傾気味の説教じみたものに終わっていただろう。極上の物語だからこそ、内包する問いかけがが読み手に迫ってくるのだ。

 

人間の愚かさを描く

『風の谷のナウシカ』は、3つの大きな問いを読者に投げかける。

1つは、文明の発展は人類自身と地球にとって害悪になりうるという問題意識だ。

最終盤、腐海という攻撃的な生態系は、実は人類自身によってつくり出されたという真実が明らかになる。土鬼の地の深奥にあるシュワの「墓所」で、ナウシカは腐海を使って環境汚染の浄化を加速させようとした先人らと対峙する。

序盤から中盤にかけて、腐海は人間の愚行を癒すために自然が生み出したものと示唆されるので、このラストはニヒリスティックな「どんでん返し」として機能する。

本作は本来、ここに力点を置いて読まれるべき作品なのだろう。

だが、今回改めて精読した私には、別の問いかけ、危機を前にしても協力して事に当たれない人間の業の深さをえぐる視点が強い印象を残した。

腐海による生活圏への侵食は、人類という種の存続そのものへの脅威だ。

そんな危機の中にあって、トルメキアではクシャナと兄たちに父である王まで加わって陰謀と抗争に明け暮れる。土鬼側でも神聖皇帝の地位を巡って兄弟が100年単位の闘争を続ける。

焦りと驕りは、トルメキアを無益な開戦に押しやり、応戦する神聖皇帝は腐海や王蟲を生物兵器として利用する禁忌を犯す。かつて文明を滅ぼした巨神兵まで担ぎ出される。

こうした愚行に意識が向かったのは、無論、気候変動や新型コロナウイルスの脅威に対する昨今の状況が影響している。コロナ禍を前に政治は混乱し、気候変動に取り組む国際協調の足並みは乱れるばかりだ。

自らの愚行で墓穴を掘る人間の愚かさを描き切った宮崎駿の成熟した筆の運びは、憂鬱だが、見事というほかない。

 

人類の大きな分岐点

3つ目の大きな問いは、作品のラストをどう解釈するか、というものだ。

本作は、人間への賛歌とも、正反対の諦念とも解釈できる多義的な幕切れを迎える。ナウシカは自身が否定したシュワの「墓所」と、腐海の主である王蟲が「体液」を共有する不可分のものと知る。

ここからは、人間性への希望を見出すこともできる。人類は、「墓所」を作った人々の予定調和を超えて、腐海と共生して自ら未来を切り拓いていくという解釈だ。

それとは逆に、王蟲は所詮、「墓所」と同根であり、浄化された地球に耐えられない身体をもつナウシカたちの子孫は、破滅の道を選び取ったという悲観的な読み方もできる。森の人・セルムの「すべてをこの星にたくして共に」という最後の言葉通り、運命論を拒否する代償として、人類には黄昏(たそがれ)の時代のみが残される。

どちらの読み方をとろうと、はっきりしているのは、最後のシーンでナウシカらがとった行動が人類の大きな分岐点となったことだろう。

我々の生きる現代も将来、「あそこが分かれ道だった」と振り返られる転機なのではないだろうか。自然との共生と調和が賢明な選択だと知りつつ、リーダーたちが指導力を欠き、愚行を重ねて危機を深めている現在も、『風の谷のナウシカ』と相似形に映る。

せめてナウシカやクシャナのように、難事を前に希望と矜持を失わないでいられればと願うばかりだが、それこそ、今の我々からもっとも縁遠いものにも思える。

 

驚異的な臨場感

長引く「コロナ疲れ」のせいか、何やら大上段に構えた悲観的な話になってしまった。 最後はマンガとしての『風の谷のナウシカ』の素晴らしさに触れておこう。

マンガとして見ると、特筆すべきは読み手の視覚をコントロールして世界をありありと浮かび上がらせる構成力だ。冒頭わずか15ページほどを読めば、本作のすごみは分かる。

空を舞うメーヴェが巨神兵の残骸に影を落とす。腐海に分け入り、王蟲の抜け殻を見つけたナウシカは、「森」の異変に気付き、蟲の大群に追われるユパを見つける。ナウシカが鮮やかな手際で王蟲の怒りを鎮め、師弟は再会を果たす。

近景と遠景、動と静を巧みに組み合わせた小気味よいテンポの導入部は、アニメである『天空の城ラピュタ』のオープニングに劣らない躍動感がある。

全編を通じてやや細かめのコマ割りは大ぶりな判型と相性が良く、描き込みの細かさもあって情報量は極めて多い。それでいて胃もたれすることはない。はじめから終わりまで、「何が起きているか分からない」シーンは1つもなく、無駄なコマもない。恐ろしく密度の高いマンガだ。

尻切れトンボな映画版に満足していない愛読者としては、こんな夢想をしてしまう。 もし『Netflix』あたりが巨額の予算をつけて、宮崎駿自身の指揮のもと、完全版『風の谷のナウシカ』がアニメ化されたら、どれほどの傑作が生まれるだろうか――。

それはかなわぬ夢だから、黙ってこの傑作を繰り返し読むに如くはない。

高井浩章 1972年生まれ。経済記者・デスクとして20年超の経験があり、金融市場や国際ニュースなどお堅い分野が専門だが、実は自宅の本棚14本の約半分をマンガが占める。インプレス・ミシマ社の共同レーベル「しごとのわ」から出した経済青春小説『おカネの教室 僕らがおかしなクラブで学んだ秘密』がヒット中。 noteの連載はこちら。ツイッターアカウントはこちら

 

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(2020年8月12日フォーサイトより転載)