フラワーデモから見えてくる、女性たちの痛み。性被害は、身体と心が引き裂かれる苦しい体験です

「痛み」に対する政府の鈍感さ。それはコロナ禍の前から問題であったということが、フラワーデモの記録から見えてくる。
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阿古真理さんのnoteより

写真にあげた本は、去年の春、実父の娘に対する性虐待の裁判など、性犯罪の被告が相次いで無罪になった裁判に抗議するため、立ち上がったフラワーデモを記録した本です。北海道から沖縄までの全国のデモ主催者が寄せた文章やスピーチの記録、裁判の記録、報道などの年表に加え、エッセイが収録されています。性被害者が多く集まったデモは、「日本の#Me Too運動」とも言われています。

この本の版元のエトセトラブックスは、フェミニズムを看板にした独立系出版社。社長の松尾亜紀子さんは、北原みのりさんと一緒にフラワーデモを立ち上げた当事者でもあります。松尾さんには、今年インタビューを行いました。

 

コロナ禍において、政府のとんちんかんな対応や、この情勢下で国会を終わらせたのち、記者会見もほとんど開かなくなった安倍首相に腹を立てている人は多いと思います。現状を維持しようとすること、何もしないことという意味で政府の対応のひどさ、人の痛みに対する鈍感さは、コロナ禍で広く知られたわけですが、こういう本を読んでいると、そういうことは、ずっとこの国で行われてきたことがわかります。非常事態になると、日頃から抱えている問題が鮮明に大きく表れます。

本に収録されている裁判記録を読むと、驚きますよ。もしかして、男性はこの記録を読んでも、「どこがおかしいんだ?」と思うのでしょうか。そうでないことを願います。というのは、被害者が酩酊状態だったとか、長年の性的虐待を受けていたとか、明らかに「被害」を受けていることを検察が主張し、事実認定・裁判所の判断等の項目では、性的虐待を認定する、被害者の主張を認定するなど書いてあるにもかかわらず、軒並み無罪になっていること。

無罪の理由がまたひどい。「被害者が被告人に明確な拒絶の意思を示していない」「被告人が、被害者が被告人との口腔性交を拒否することがとても難しい状態であったこと、あるいはそのような状態であることを基礎づける事情を認識していたとは認められないため、故意が認められない」などと説明してあります。まるで、最初から無罪にするつもりで、そのための証拠をひねり出したように見えます。

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19歳だった実の娘に性的暴行を加えたとして、準強制性交等罪に問われた父親の被告の控訴審判決を前に、名古屋高裁の前で行われたフラワーデモ=12日、名古屋市中区
時事通信社

女性の性被害は長らく、服装が悪かったと言われる、大声を上げて分かりやすく暴れて抵抗しなければ駄目とされがちだったけれど、今でもそういうステレオタイプの抵抗をしなければ嫌だと分からないといったことが、裁判の場で通用していることに驚きます。裁判官には想像力がないのでしょうか。心理学を一から学んだ方がいいのではないでしょうか。この中には、12歳の娘を襲い続けた父親の例も入っています。12歳はまだ子供で、性的同意年齢の13歳より下です。しかも親子で。なんでその性交が犯罪とされないのでしょうか。

デモに参加した人たちには、性的被害を受けた経験がある人がたくさんいます。親族や親しい人からの暴行を受けた人も多い。50年目で告白した人もいます。その人たちは話す場を求めていたのかもしれません。傾聴してくれる人がいなければ、二重三重に傷を負うから話せないできた人もきっといるでしょうし、過去に話して傷つけられた人もきっとその中にいます。もちろん、デモに参加せず今でも胸に秘めている人は、その何十倍、何百倍もいるはずです。

ステレオタイプの抵抗ができなかった被害者を責める人たちは、男女に関係なくたくさんいます。性的な暴力に対する被害者は、自罰的になりがちなのに、周りが追い打ちをかけるように被害者の非を探す。そういう時代は終わって欲しいです。

できないことを責める風潮は、自己責任ばかり求めるこの国の問題点ではないでしょうか。そうした風潮は世間のものでもありますが、政治の問題も大きいのではないでしょうか。新しいウイルスである新型コロナウイルスに、国民が自己責任で対処するよう求めているとしか思えない今の状況と重なります。

性被害は、身体と心が引き裂かれる苦しい体験です。そのときにどんなつらさだったのか、その後どんな苦しみを負っているのかも、この本では語られています。そのつらさは、どこか原発事故の被災者、コロナ禍で感染してしまった人に向けられている世間の眼と、本人たちの苦しみの関係に通じているのではないでしょうか? 

人はそれぞれ個性が異なります。そして男女に関わりなく、人はそれぞれが独立した人格を持つ人間です。当たり前?その理解が当たり前でないことが、この本を読むとよく分かります。私たちはどれほど、人の痛みに気づけているでしょうか。あるいは、人のことを分かったつもりになっているでしょうか。改めて考えさせられる本です。

女性差別の問題は、遅々として進みませんが、それでも進んでいます。本の中にもありましたが、10年前は裁判にこぎつけることすら難しかったかもしれません。昭和に生まれた私は、昭和時代は痴漢も犯罪でなかったこと、性的犯罪は被害者が責められがちだったこと、そして恥として黙することを求められてきたことをはっきり覚えています。

今もそうですが、被害者は魂を奪われてつらい人生を送り場合によっては命を絶ってしまうのに、犯罪者はのうのうと生きて、場合によっては次々と餌食を求めていきます。それに対して何もしない。被害者が訴えるということは、被害を受けたという自覚があるからです。その時点ですでにその性的接触は犯罪です。そのことがどうして裁判官にはわからなかったのでしょう。性暴力を容認するような国が、コロナ禍であまり対策を打たないのは当たり前かもしれません。野放しの国なんですから。

 

(2020年8月14日の阿古真理さんのnote掲載記事「被害の痛みに鈍い国」より転載。)