愛とか神とか、そういったウソについて

「愛」は非常に意味が曖昧ですから、はっきりした支配者がいない複雑な社会では様々な人が「愛」への信仰心を利用することができます。
|
Open Image Modal
Henrik Sorensen via Getty Images

まず愛という言葉の意味ではなく、その使われ方ついて考えてみましょう。

・愛を信じる人は幸せで、愛を信じない人は不幸な人

・愛を持っていない人も心を入れ替えて愛を持てば幸せになれる

・愛を信じる人でも愛がどういうものなのかを説明することはできない

・愛とは何なのか?本当に存在するのか?と疑うこと自体がタブー

・愛さえあれば他の何がなくても幸せ

これは「宗教的なもの」全般と同じ使われ方です。

試しに「愛」の文字を「神」に置き換えてみましょう。

・神を信じる人は幸せで、神を信じない人は不幸な人

・神への信仰を持っていない人も心を入れ替えて信仰心を持てば幸せになれる

・神を信じる人でも神がどういうものなのかを説明することはできない

・神とは何なのか?本当に存在するのか?と疑うこと自体がタブー

・神への信仰心さえあれば他の何がなくても幸せ

何の違和感もないと分かっていただけたでしょうか。

「愛」というのは宗教の劣化版のようなものです。

宗教にはいくつかの段階があります。最も初期の段階では山とか川とか森とかを信仰します。そのうち神の力をあの手この手で利用した一部の人が権力を手に入れます。権力者は徐々に力を蓄え支配者となります。支配者は神の力をより有効に利用するために、自らを神だと称します。さすがにその嘘は長続きしないので、次の段階では神の像を造っておごそかな建物に納め統治の道具にします。最終段階では神は目に見えない存在で形はないことにします。

この最終段階の「見えない神」と「愛」とは使われ方が非常に似ています。これを偶然の一致だと考えるよりは両者がもともと同じものだと考える方が自然ではないでしょうか。つまり「神」という荒唐無稽なウソが通用しなくなったものだからより曖昧な「愛」という概念をかわりに持ってきたわけです。

「愛」は非常に意味が曖昧ですから、はっきりした支配者がいない複雑な社会では様々な人が「愛」への信仰心を利用することができます。

作詞家や小説家は愛の詩や愛の物語を書きなぐって小金を稼ぎますし、チョコレート業界は年に一度チョコレートを売りまくりますし、若い男性は女性にセックスさせてもらう理由に使いますし(まともな男性は少し歳を取ると恥ずかしくてこの嘘がつけなくなりますが)、女性は男性にセックスさせる理由として使います。

はっきりした支配者がいない社会に何故このような利用されるだけの概念が必要なのでしょうか?

それは、一つには便利だからです。そしてなにより、何も信じずには生きられないような弱い心しか持たない人が多いということです。

世の中は複雑で、人生はややこしい。

なんとかもっと単純明快にならないものかなぁという弱くて怠惰な気持ちにつけ込んで「○○さえあれば他の何がなくても幸せですよ」と囁かれると、ついついそっちに流れて行ってしまいたくなります。

しかし現実として、やっぱり人生は複雑で、「○○さえあれば他の何がなくても幸せですよ」というのはすべてウソなわけです。

愛さえあれば他の何がなくても幸せですよ

神への信仰心さえあれば他の何がなくても幸せですよ

金さえあれば他の何がなくても幸せですよ

民族の誇りさえあれば他の何がなくても幸せですよ

労働者の権利さえあれば他の何がなくても幸せですよ

友情さえあれば他の何がなくても幸せですよ

自由さえあれば他の何がなくても幸せですよ

家族さえあれば他の何がなくても幸せですよ

音楽さえあれば他の何がなくても幸せですよ

夢さえあれば他の何がなくても幸せですよ

全部ウソです。

人生には、その場その時に応じて、実に様々なモノが必要なのですから。

さて、あなたはどう思いますか?

関連するエントリー「あなたが愛に満たされていない理由」へ

(2014年5月27日「誰かが言わねば」より転載)