「問題発生だ」
7月23日、夜。三人は深刻な表情をつき合わせていた。彼らはフィリピン・マニラのビジネススクールAsian Institute of Management(AIM)のMBA生だ。Geeks on the Planeというイベントを翌日に控えていた。
「いったいどうしたの?」
「予定では参加者は300人だったけど、今送られてきたリストには400人の名前があるんだ。この会議室に収まるかな」
「直前にこんなに増えるなんて……」
「とりあえずテレビ局には、カメラマンの歩き回るスペースはないと伝えたわ」
Geeks on a Planeは、500 startupsが主宰する招待制のツアーだ。成長を続けるIT分野の見識を深めるとともに、世界中の起業家と投資家を結びつけるのを目標としている。アジア太平洋諸国を訪れるのは今回で三回目で、フィリピンに来るのは初めてだ。地元での注目度は高く、キー局の取材も予定されていた。
「待ってくれ。今、新しい参加者リストが送られてきた」
「この部屋に収まる人数になっていればいいんだけど」
「いいや。500人に増えているよ──」
会場の広さはともかく、参加人数ではすでに成功が見えていた。
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2007年、ゴールドマン・サックスはBRICsに続く急成長の期待できる国としてNEXT 11を発表した。フィリピンはインドネシアやベトナムとともに、11ヶ国の1つに選ばれている。この発表にはリーマンショックもアラブの春も折り込まれておらず、すでに古いものになりつつある。しかしフィリピンが今後の経済成長の見込まれる国なのは間違いない。
たとえばフィリピンの人口ピラミッドは健全な三角形で、まさにこれから人口ボーナス期が始まろうとしている。また英語が準公用語として使われており、さらに(中国等と比較して)民主的な自由市場が営まれている。加えて、国外への出稼ぎ労働者が多いというフィリピンならではの事情もITベンチャーにとっては魅力になる。意思疎通の距離をゼロにして地球を小さくするのは、情報技術が得意とするところだ。
だからこそ今回、Geeks on a Planeの開催地に選ばれた。
SMART CommunicationsやIdeaSpace Foundationといった国内の有名企業がスポンサーにつき、同国のトップビジネススクールであるAIMがオープニングイベントの主催者になった。
そもそもGeeks on a Planeを主宰している500 startupsとは何者なのだろう。その正体はシリコンバレーでもっとも注目されているアクセラレーター──起業の最初期段階への投資を行うベンチャーキャピタル──の1つだ。中心となって活動しているスタッフは20人ほどと小規模なものの、200人を超えるメンター(指導者)と1000人を超えるファウンダー(投資家)のネットワークを抱えている。
500 startupsからの支援を望む起業家は引きも切らず、そのため、出資の条件は決して緩くない。2010年の創業当時には、メンターからの推薦がなければ彼らに話を聞いてもらうことさえ難しかったという。人と人のつながりを重視しており、まるで「500ファミリー」と呼びたくなるような人の輪を世界中に広げている。
500 startupsの支援が決まると、まず5万ドルが出資され、4ヶ月間のスタートアップ・プログラムが始まるそうだ。メンターからの助言を受けられるだけでなく、デザイナーのブート・キャンプや、業界の有力者との懇親会など、独立を手助けする様々なイベントが準備されているらしい。プログラムの終了時にはシリコンバレーとニューヨークで業界人を招いた「デモ・ショー」を行い、さらなる投資のチャンスを得られるという。
すでに500社以上のベンチャーがこのプログラムを卒業しており、GoogleやYahoo!に買収されたサービスも少なくない。500 startupsは、彼らの持つ「起業を成功させる仕組み」によって注目されているのだ。社会貢献の意識も高いようで、女性起業家への投資が多いことも特徴の1つだと言われている。
そんな500 startupsの世界ツアーが、Geeks on a Planeだ。昨年の東南アジアツアーでは、クアラルンプール、バンコク、シンガポール、ジャカルタが開催地に選ばれた。今年はクアラルンプールが抜け、代わりにマニラが加わった。投資先としてフィリピンの注目度が高まりつつあるのだろう。
フィリピンで3日間に渡って行われたGeeks on a Planeのうち、AIMの主催するオープニングイベント「Geeks on a Plane: PH Tech Summit」に私は参加してきた。今回は東南アジア地域の現状について語りあうパネル1と、シリコンバレーの現状および世界情勢について語りあうパネル2が設定されていた。
パネル1の登壇者はMr. Arup Maity(BlastAsia, President)、Mr. Ed Ishidro(Philippine Venture Capital & Investment Group, President)、Mr. Micheal Lints(Golden Gate Venture, Venture Partner)、Mr. Dusan Stojanovic(True Global Ventures, Founder & Director)、Mr. Earl Valencia(IdeaSpace Foundation, Co-Founder & President)の以上5名に加えて、AIM教授のMr. Richard Cruzが司会を務めた。またパネル2ではMr. Mario Berta(Rocket Internet, Co-Founder & Regional Managing Director)、Mr. Dave McClure(500 startups, Founding Partner)、Mr. Samer Karam(alice, Co-Founder & CEO)、Ms. Liz Fleming(IE Business School、Deputy MD Venture Lab)、Mr. Ron Hose(Coins.ph、Founder & CEO)の以上5名に加えて、Mr. Roby Alampay(ビジネスワールド誌編集責任者)が司会を務めた。
聞く人が聞けば驚きのあまりひっくり返るような、最前線で活躍する人物が一堂に会したのだ。
各パネルで話された内容について、ここで細かく書くのは控えよう。イベントの全容はすでに動画がアップロードされている。いずれも刺激的な議論だった。
少しだけ紹介すれば、たとえば「政府リスク」の議論が印象深い。新興国では、行政の方針がある日突然がらりと変わってしまうことがある。最近では、タクシーの配車アプリ「Uber」がソウル市で禁止されたばかりだ。タクシーは規制の多い業種であり、どこの国でも参入に苦労するようだ。
登壇者の1人Mr. Mario Bertaにとって、ソウル市の件は他人事ではない。彼は「Easy Taxi」という類似サービスに携わっている。
行政による規制は、結局のところ消費者のためにならない──。集まった起業家たちの意見はおおむね一致していた。
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個人的な見解を述べれば、行政と企業は前提としているものが違う。企業は消費者のために活動するが、行政は国民のために活動する。たとえ消費者を喜ばせるサービスだとしても、既存のタクシードライバーの失業を招いたり、運転技術の未熟なドライバーによる交通事故のリスクが増すとしたら、行政はそのサービスに待ったをかけるだろう。行政と企業ではステークスホルダーが違うのだ。
技術革新が失業を招くという考え方がある。19世紀イギリスのラッダイト運動では、織物職人たちが自動織機を壊して回った。現在ではこれは誤解だと分かっており、「労働塊の誤謬」として知られている。新技術は一時的に人の仕事を奪うかもしれないが、やがて新技術の生んだ新たな商売によって失業者は吸収される。
では、「やがて」とはいつか?
人間の学習能力には限界があるため、それを超える速さで技術革新が進めば失業を解決できなくなる。たとえば配車アプリがタクシー市場を席巻すれば、スマホの操作を覚えられない高齢のドライバーは職を失うだろう。
そして企業は、このような失業に何の責任も負わない。もしも一ヶ月おきに仕事のやり方が変わるとしたら、それに適応できない労働者のほうが多いはずだ。現在の情報革命は、変化の速さという点で過去のいかなる技術革新とも違うと、エリック・ブリニョルフソンは『機械との競争』で述べている。
私は自由市場がもっとも効率的だと信じているし、技術革新が私たちの暮らしを豊かにすると信じている。つまり起業家は、この世界の変化を加速するアクセルペダルのようなものだ。一方、行政は変化によって生じる軋轢を防ぐためのブレーキペダルと言っていい。アクセルとブレーキが健全に均衡して初めて、安定した継続可能な社会を作り出せる。少なくともタクシーにはブレーキペダルがあったほうが安全だろうし、アクセルがなければ前に進めない。
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話がだいぶ脱線してしまったが、やはり起業家はイノベーティブであるべきだし、既存の常識や習慣を破壊するような存在であるべきだろう。それがアクセルペダルとしての彼らの役割だ。Geeks on a Planeでのディスカッションを聞いて、私は改めてそう思った。登壇者たちの熱気や情熱、見識の広さにはただただ圧倒された。
「こうしたイベントを行うことが、フィリピンの起業家を大いに刺激すると思います」とMr. Mark Daniel V. Chanは述べた。彼はAsian Institute of Managementのプログラム・ディレクターだ。「フィリピンでは財閥が強く、また賄賂の文化がいまだに残っています。そのため事業を興すのが必要以上に難しくなり、優秀な起業家が道半ばで諦めてしまったり、国外に流出してしまうのです。しかしGeeks on a Planeのようなイベントによって、フィリピン国内の起業家は大変勇気づけられたはずです」
※今回のイベントの総合プロデューサーを務めた石本俊輔さん。
勇気づけられたのはフィリピン人にとどまらないだろう。AIM教授のMr. Matthew Escobidoの指導の下、今回のGeeks on a Planeをプロデュースした3名の学生は、日本人の石本俊輔さん(総合プロデューサー)、フィリピン人のMs. Mica de Jesus(マーケティング・広報担当)、インド人のMr. Nishant Abraham(プログラム・会場担当)だ。彼らは学生主導の起業家支援プログラムAIM For Innovation を発足させた、学院期待の学生チームである。国籍や文化は違うが、それぞれの強みを活かしてイベントを成功に導いた。また参加者の国籍もバラバラでじつに国際色豊かだった。
変化は、シリコンバレーだけで起きているのではない。現代では、世界中のすべての場所がイノベーションの舞台になりうる。私たちが今どんな時代を生きているのか再発見できるイベントだった。
※参考リンク
■韓国ソウル市が配車アプリ「Uber」を禁止・独自のアプリ作成へ
(2014年7月31日「デマこい!」より転載)