STAP問題が照らし出した日本の医学生物学研究の構造的問題

よく誤解されているので、STAPの著者と権利について明瞭にしておきたい。Natureの2論文が、もし完璧な論文だったと仮定して考えてみてほしい。
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本日4月1日、通称STAP問題についての理研の調査委員会の報告があった。理研がどれだけ真摯に問題解決にあたるかはまだこれからの対応を見なければ分からないが、そもそも問題についての認識がずれているように思ったので、ここに思う所を書いた。

今回の事件で、STAP論文はNatureに載りながら実にずさんな研究であったことが暴露されてしまったわけだ。理研、著者たちに個別的な問題は勿論あろうが、些末で表面的な騒動に目をとられて、根底にある構造的問題が隠れてしまっている。

よく誤解されているので、STAPの著者と権利について明瞭にしておきたい。Natureの2論文が、もし完璧な論文だったと仮定して考えてみてほしい。そうしたら、論文から派生する莫大な権利・利益は誰が最も大きく享受するか?第一著者にも分け前はあるが、医学生物学の階層社会では、第一に利益を享受するのは間違いなく最終著者(ラストオーサー)兼連絡著者(コレスポンディングオーサー)の人たちであり、理研とハーバードだ。次に実権があるのは、シニアの他の著者であり、たとえ第一著者が連絡著者としても、医学生物学全般の慣習および日本の縦社会の2つから、間違いなく第一著者の分け前は主ではない。この点誤解している人が多い。一般的に最終著者と第一著者が両方連絡著者になることはあるが、医学生物学の場合、クレジット(取り分)は自動的にシニア(=最終著者)にいくものなのだ。

さて、繰り返そう。権利を得るのはシニアだ。では、なぜ実験データ=医学生物論文の実質であり本体=に対する責任がジュニアのみに課されるのか。もう一度誤解がないようにいうが、医学生物学の古風な慣習からしても、論文執筆を主導していないことからしても、問題判明後の理研の対応からしても、私はSTAP細胞の第一著者は、給料や名前を除けば、実質的にはジュニアの身分(実質的平社員)として扱われていると見ている。

STAP研究は、少なくとも、ずさんだ。しかし、このずさんさは、正直なところ、日本の基礎医学生物学研究でよくみられるずさんさの延長だと思う。基礎医学生物学は科学であるというのに、実験とデータを含めた研究全体を見通し、責任を負って研究を遂行できる能力がある人材が日本の研究者会の本流から急速に枯渇してきている。これは日本の将来を考えたとき実に憂慮すべき問題だ。従来の日本的な強みのある人材も消えていき、欧州のごく普通にいるような、学際的研究のための多様な学問的背景を持った人材も蓄積されていない。しかし、この危機的状況はあまり認識されていない。

実のところ多くのシニアのひとたちは、STAP論文のシニア著者たちのことを気の毒に思っているはずだ。悪い人に当たってしまった、交通事故のようなものだ、と考えているだろう。なぜならば、日本の医学生物学の標準的研究体制からして、理研の体制は格段に酷い体制ではなかったかもしれないからだ。(尤も、理研の近年の予算縮小に伴う内部への締め付けの影響があった可能性は否定しない)

ここで私はSTAPの研究体制に問題がなかったと言っているのではない。酷い言語道断の状況だが、日本の他の研究室に比べて、それは取り立てて酷いわけではないことが問題で、それがゆえに日本全体の科学社会の劣化を憂えているのだ。

こんな事態になった大きな理由のひとつは、研究を実地でしている現場(ジュニア)と教授たち(シニア)の能力・意識・立場がこの十年くらいで急速に乖離していっていることがある。年を取った教授たちがお手盛りで定年を延長して長居しているうちに、最新の研究データを理解できないようになり、実験方法の機微を理解していないのはもちろん、特に最新機器(マルチカラーフローサイトメトリー、次世代シークエンス、マイクロアレイなど)の生データを理解できないどころか、マイニング・データ解析の理論についても全く分かっていないひとが多い。著明な教授たち偉い面々は、日々の研究の場では、学生たちが図に加工したデータしか見ていない。

一方のジュニアは、別名をピペット奴隷(ピペド)という。彼らには土日なし、夜11時まで、というのが標準的な長時間労働が強制されるが、研究者という名目だけで、自分の研究を教授の許可なしには自由に発表できない。そして老いた教授たちがいつまでも職に居座っているから、若者が大学・研究機関で定職に就ける見込みは殆ど無い。彼らはいつまでも下働きとしてこき使われている。そして彼ら若者を「指導」している教授たち自身がどれだけ最新科学を理解しているかは疑問なのだから、当然その下についている大学院生・研究員たちは、「ピペド」以上の存在にはなれない。しかも定職がない・学位がかかっているといった弱みにつけこまれて日常的に教授から理不尽な圧力をかけられる。こうした異常な事態が普通に見られる。ジュニアをこの不安定で肉体的・精神的に過酷な状況に追いやって、それでいて緻密な研究や科学的な高い倫理観を要求するのは、やはり無理があるのではないか。

誤解がないように、私はここで日本の研究室で意図的な組織的捏造が常態化していると言っているのではない。確認バイアスの虜になった教授たちが、データーに直接接することで「自然」から真実をつきつけられ、「自然」の前に反省する機会を完全に逸していることについて話しており、若者が主体的に能力を伸ばす機会を奪われていることについて語っている。

これが日本の医学生物学研究の標準だ。私は標準だから良いと言っているのではない。これが標準になるほど、日本の医学生物研究は堕落しているのだ。研究の底辺を支えている若手研究者は使い捨てにされて彼らの能力を伸ばす機会を与えられず、その血と涙を容赦なく絞った成果を研究の表舞台で華やかに発表している多くの教授たちは、既に最新科学による測定とデータ解析を理解できなくなって(=責任を持てなくなって)、修辞学(レトリック)で格好よく論文を書くのが偉い学者だと勘違いしている。

これは科学者としての堕落だ。科学的真実に対する背信だ。かつてギリシャで哲学者がソフィストに堕落したのと同じことではないか。ちなみに、この傾向は日本だけではなく、米国の大研究室も同じ問題を抱えている。だから、米国であれば何でも範とあおぐ輩には、この問題は認識できない。

ところで私は、5年前に免疫学会に縁があって学会改革のためのエッセイを依頼されて、このピペド問題について論じた文章を書いたが、委員の先生がたの支持にも関わらず、上部の権限で没にされた。私はそれを提起して論じていれば、免疫学会だけでも多少は状況が改善していたのではないかと思っているが、残念ながら日本免疫学会はその機会を逸したようだ。だから同じ問題は今の免疫学で起きてもおかしくないし、ほかのどの医学生物学の分野で起こっても全く驚かない。

こんな暗澹たる状況だが、それでも日本はムラ社会だ。それなりに研究者ムラ社会の中での助け合いは機能することもある。そしてそれがゆえに、誰も地に二本足で立っていない(自立していない)。ジュニアとシニアはお互いもたれ合い、研究者と研究所・大学はお互いもたれあっている。そして問題が起きると、このもたれあいの構造の中で、責任を引き受ける立場のひとに仮に意思があっても自由に発言できず、責任を引き受ける気がないひとは真っ先に逃げ、その喧噪の中で水は低いところに流れていき、末端が責任をとらされて終わることになる。

つまり、STAP問題は、日本では特別な問題では全くない。これは日本の社会が広く抱える病態が、幾つかの偶然によって、理研という場で大きくスポットライトを浴びるようになっただけだ。この問題は、科学の社会における公正を取り戻し、科学研究の全体に対して責任を負える優秀な人材を育てる環境をつくり、日本の科学研究を建て直さないことには解決しない。もしこの問題を個人の瑣末な問題に帰して、構造的問題に手をつけることなく終わらしてしまえば、同じ問題に由来する危機を日本の科学界は近い将来に再び経験せねばならなくなるだろう。

(2014年4月2日「小野昌弘のブログ」より転載)