非効率のススメ?

印刷の世界にもディジタル化、電子化が進み、新聞や雑誌の発行部数や売上の減少が取りざたされて久しい。つい最近も「小悪魔ageha」という雑誌が廃刊になった。それを受けて、コラムニストの小田嶋隆氏が日経ビジネスオンラインに寄稿していた。
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印刷の世界にもディジタル化、電子化が進み、新聞や雑誌の発行部数や売上の減少が取りざたされて久しい。つい最近も「小悪魔ageha」という雑誌が廃刊になった。それを受けて、コラムニストの小田嶋隆氏が日経ビジネスオンラインに寄稿していた。

小田嶋隆のア・ピース・オブ・警句:「アゲハはもう飛ばない」(2014年4月18日)

前振りの「小悪魔ageha」という雑誌が意味したことは何だったかという考察や、出版不況とウナギの漁獲量との比較や、雑誌づくりは漁業というよりは農業というアナロジーも面白かったが、その後の(そこからが本題ともいえる)「雑誌の編集の話」がとても興味深かった。

 …多くの雑誌は、土を耕す段階や苗代を作る過程を省略せざるを得ない状況に追い込まれている。

 理由は、皮肉な話だが、生産性が向上しているからだ。

どうして生産性が向上したかというと、「ファックスが導入され、ワープロが実用化され、電子メールが原稿取りのプラットフォームに」なったからというのだが、その結果として効率が良くなり、一人の編集者が1980年代なら3人のライターを扱っていたのが、2010年代には、10人以上のライターを扱うようになったという。写植も不要になり、写真もデジタルデータでやりとりできるようになった結果、同じページ数の雑誌でも、半分の人数で編集できるようになった。

以下、2パラグラフをそのまま引用させて頂く。

 事実、原稿待ちや、ゲラ待ちや、現像待ちや、写植待ちや、レイアウト待ちといった、作業過程のいちいちで発生していた待機時間のほとんどが、ひとつのプラットフォームに乗っかることによって、激減している。

 ただ、人数が減ったことで、直接に減ってしまう要素もある。

 どう言って良いのか難しいところなのだが、私が抱いている感じでは、編集部から人間の数が減ったことで、「余裕」と「アイディア」が減少したと思っている。

小田島氏は続けて、このようなゆとりの時間が減ったことが、アイディアを生み出す土壌を枯れさせてしまったのではないかと論じる。次のパラグラフも秀逸だと思うので、やはり引用しておきたい。

 なんとなれば、雑誌のページのかなりの部分は、無駄な待ち時間の間に、だらだら無駄口を叩いている編集部の人間のアタマの中から生まれるもので、そもそも、あるタイプのアイディアは、タスクやジョブに追われている人間からは決して生まれないものだからだ。

ここまで読んで、研究を生業とする私は、「あぁ、論文もおんなじなんだ」と気付いた。

我々の業界でも、IT化により、ダブルスペースでタイプを打たなくても良くなり、センタリングの小技なども必要無くなり(←これはちとマニアックか……)、画像はPhotoshopやIllustratorで自在に組み合わせることが可能になり(昔はフィルムを現像して、切り貼りし、インスタントレタリングで文字を入れたり、と手作りだった)、3部とか4部とか作った原稿セットを入れた封筒を抱えて24時間開いている中央郵便局まで走る必要も無くなった。

論文作成にかかる時間は、単位頁当たりで見れば圧倒的に少なくなったはずである。ただし、多くの論文のボリュームがどんどん厚みが増しているので、効率化で楽になるかと思いきや、そんな実感はほとんど無い。そして何よりも「手作業」の時間が減り、待ち時間といえば、最後にオンライン投稿する際のアップロード時間や、先方での自動PDF化時間くらいになった。そう、無駄な時間がどんどん削ぎ落とされていったのだ。

小田島氏の言う「あるタイプのアイディア」が「タスクやジョブに追われている人間からは決して生まれない」のだとすると、その弊害はサイエンスの世界にも生じている可能性があるかもしれない。とくに、科学のお作法を学ぶ最初の段階の学生さんが、自分ひとりで論文を一から十まで作り上げるというスタイルではなく、チームの一員として参画する場合にはとくに「タスクやジョブに追われている感」が強いかもしれない。

この10年くらいの間における生命科学分野の論文不正問題の根幹には、このような背景もあるのではないだろうか。

1906年にノーベル生理学・医学賞を受賞したスペインの神経解剖学者のカハールは、単眼の顕微鏡を見ながらスケッチをする間に、論文の構成を考えたり、テキストの構想を練ったことだろう。次の実験のアイディアもそんな中で生まれたかもしれない。私の大学院時代はスケッチは自分のノートのためであり、論文用には「フィルム」で撮影する時代だったが、顕微鏡室で蛍光撮影をするのに、ときによってはシャッターが落ちるのに5分、10分とかかる場合もあった。その間、真っ暗な部屋でストップウォッチを手にして息を潜めて、自分の観た細胞や組織の様子からあれこれと考えを巡らせた。カラー・フィルムは現像に出す必要があったので、撮影結果を見るまでに数日かかった。

今、画像はCCDカメラからモニタに映しだされ、マウスでクリックすればたちどころにキャプチャーされる。もちろん、最新の顕微鏡の解像度やデコンボリューションの精度は格段に向上しているのだから、我々はカハールの時代まで戻ることはできないし、戻るべきではない。だが研究室で、効率化によって損なわれている余裕をどうやって取り戻し、それを「アイディア」に繋げるかについては真剣に考える必要がある。

医学教育の基礎として、「組織学実習」では学生さんに組織切片像をスケッチしてもらう。このアナログな、まだるっこしい、非効率な作業の意味について、もう一度、考えてみたい。今、研究室の学生さんが、往々にして自分が撮影した画像をしっかり覚えていないのは、スケッチをしていないからかもしれない。

小田島氏の文章からの引用はこれが最後。

…余裕を失い、ロングスケールでものを考えることができなくなっている雑誌の現場は、終末期の漁業に似た様相を呈してきている。

アカデミアの世界でも同じことにならないようにするには、どうすれば良いか。危機感を共有しなければいけないと思います。

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(2014年4月20日「大隅典子の仙台通信」より転載)