「南沙諸島」の領有権を中国が主張する理由

本質的な疑問として、海南島から大きく南に下った海域の島々まで中国が「私たちの領土である」と主張することには、誰もが不自然さをを感じるはずだ。
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南シナ海の南沙諸島(スプラトリー諸島)をめぐる情勢の緊迫度が高まっている。中国が滑走路の建設などのために大規模な埋め立てを続けていることに米国が猛反発。中国と東南アジア各国との間のローカル・イシューだった南沙諸島問題が、一気にグローバル・イシューに性質が変わってしまった。

南沙諸島を含めた南シナ海にある島嶼の領有権問題は、一般にメディアで書かれるように「1970年代に海底資源が見つかって以来、対立が深まった」という時間軸と図式で考えようとすると、その理解は局限的になってしまう。米中や東南アジア諸国が戦わせている「言語」を深く読み解くためには「中国近代と南シナ海」の経緯を知っておく意味は小さくない。

戦後に占領したのは中華民国

本質的な疑問として、海南島から大きく南に下った海域の島々まで中国が「私たちの領土である」と主張することには、誰もが不自然さをを感じるはずだ。

360万平方キロの海域に大小300の島々がある南シナ海には、南沙諸島のほか、西沙諸島、東沙諸島、中沙諸島などがある。そのいずれについても、中国領有の法理論的根拠は、現在の中華人民共和国ではなく、いま台湾にある「中華民国」によって整えられた。南沙諸島最大の島である太平島は、いまも台湾が「高雄市旗津区中興里」という地名のもと実効支配している。東沙諸島も同じく「高雄市」の行政区域として台湾が実効支配下に置いているのも、そうした経緯と関係している。

南シナ海の島々が中国の文献上に登場するのは極端に言えば漢代にも遡るとされるが、近代以降において南沙や西沙に国家として最初に触手を伸ばしたのはベトナムの宗主国だったフランスで、1933年から少数の兵士を駐留させた。このとき、中華民国国民政府は反発して「中国南海島嶼図」を公表し、領有権を主張したが、具体的行動は取らなかった。その後、第2次世界大戦が勃発すると、1939年に日本がフランス軍やベトナム漁民を追い出し、最初に西沙、続いて南沙を占領した。日本は軍事拠点を置いて、資源開発も試みながら、南シナ海全体を終戦まで支配した。

問題は1945年以降で、空白になった南シナ海の島々をフランス軍はいち早く占領したが、ベトナム内戦のあおりですぐに撤収。そのチャンスを逃さず、中華民国国民政府は「太平号」など4隻の軍艦を派遣して1946年末までに主だった島々の占領を終え、測量も行った末、「南海諸島位置図」を作成した。(台湾が公表している同図はこちら

これが、今日の中華人民共和国が南沙諸島などを含め、南シナ海の島々の領有権を主張する根源的な論拠となっている。

9段線はもともと11段線

この「南海諸島位置図」は最南端を北緯4度付近とし、東沙、西沙、南沙、中沙の島々の位置と名称を確定させた。さらに重要なのは、「11段線」と呼ばれる11本の境界線を使って、南シナ海を「中国の海」と確定したことである。形がU字型であることからU形線とも呼ばれた。

さらに「中華民国行政区域図」を公表し、ここにも「南海諸島位置図」を付けている。これによって国際社会に向けた「南シナ海の中国領有」を宣言したという解釈である。

その後、中華民国は大陸を喪失し、台湾に撤退。南シナ海の領有権問題の主導権は現在の中華人民共和国に引き継がれた。台湾側はそのまま南シナ海は「中華民国の領土」との位置づけは変えず、いずれも飛行場を持って兵士が駐留する南沙諸島の太平島と東沙諸島の現状維持に徹して、中国のように新たな島の占領などは行っていない。

日本は1952年のサンフランシスコ講和条約で南沙諸島などの領有権を放棄するが、帰属先は明確にされなかった。一方、中国は1953年、11段線のうち、当時は仲が良かったベトナムとの領域にあたる東京湾線と北部湾線の2線を削除。新たに「9段線」として、1958年に「領海宣言」を出し、南シナ海の島々を含めた海域の領有を宣言。1970年代に西沙諸島をベトナムとの戦いを経て実効支配下に置き、南沙諸島でも1980年代から複数の島々を実効支配している。

本来は領土への編入によって領海が確定することが常識であるが、中国が実効支配する島はごく一部であり、先占主義を取るとしても、本来なら南シナ海全体の島々の中国領有の合法性は決して十分とは言えないだろう。何より、なぜ9段線(11段線)が中国の領海の境界となりうるのかについては、「中華民国が決め、我々が引き継いだ」というところに落ち着くので、議論が深まらない。

 米国の議員やシンクタンクの研究者が「台湾から南シナ海関連の資料を提供してもらおう」という趣旨の発言を時々行っているが、南シナ海を領海とし、その島々を領土と主張する論拠の史料は、こうした経緯から分かるように、基本的に台湾が握っていると見られるからである。

「本家」の「意地」

この問題について、台湾の馬英九総統は5月26日に「南シナ海平和イニシアチブ」を発表し、主権問題の棚上げや共同資源開発など平和的な現状維持を呼びかける構想を発表した。台湾としては、対米関係と対中関係の板挟みになることを避けるだけでなく、歴史的に南シナ海問題をつくり出した「本家」としての「意地」も込められていると見ることができる。

いずれにせよ、南シナ海情勢から目を離せなくなるなかで、これらの中国の主張の「根っこ」を知る必要性ますます高まっていくはずである。(野嶋 剛)

野嶋剛

1968年生れ。上智大学新聞学科卒。大学在学中に香港中文大学に留学。92年朝日新聞社入社後、佐賀支局、中国・アモイ大学留学、西部社会部を経て、2001年シンガポール支局長。その後、イラク戦争の従軍取材を経験し、07年台北支局長、国際編集部次長。現在はアエラ編集部。著書に「イラク戦争従軍記」(朝日新聞社)、「ふたつの故宮博物院」(新潮選書)、「謎の名画・清明上河図」(勉誠出版)、「銀輪の巨人ジャイアント」(東洋経済新報社)、「ラスト・バタリオン 蒋介石と日本軍人たち」(講談社)、「認識・TAIWAN・電影 映画で知る台湾」(明石書店)、訳書に「チャイニーズ・ライフ」(明石書店)。

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(2015年6月4日フォーサイトより転載)