1月12日は「スキーの日」です。
1911年(明治44)年のこの日、日本で初めて本格的なスキー指導が行われたことに由来します。
スキーを指導したのは、軍隊の視察のため来日していたオーストリア・ハンガリー帝国の軍人テオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐です。指導を受けたのは、現在の新潟県上越市(当時の高田町)に駐屯していた旧日本陸軍の将校たちでした。
陸軍には9年前、八甲田山の雪中行軍で199人が凍死する惨事を起こした苦い経験がありました。そこで陸軍は、雪山をスムーズに移動できる技術として、レルヒ少佐にスキー術を学ぶようにしたそうです。
その後、軍による働きかけもあり、スキーは民間人の間でも広がっていき、スキー産業は上越市を支える一大産業として発展を遂げました。それから実に111年。
レルヒ少佐が高田で伝えたスキーは、現在のものとは異なるものでした。それはどのようなものだったのでしょうか。スキー伝来の歴史を紐解きましょう。
■ レルヒ少佐はなぜ上越に来たの?
日本スキー発祥記念館の小冊子「日本スキー発祥のはなし」によると、レルヒ少佐が上越に来ることになったのは、彼自身の希望によるものでした。上越を離れた後、レルヒ少佐は北海道の旭川にも行きました。どちらも冬に大量の雪が降り積もる豪雪地帯として知られる場所です。
2組のスキーを持って上越にやってきたレルヒ少佐には、日本の雪を体験したい思いがあったのではないかと言われています。
レルヒ少佐は1911年(明治44)1月5日から翌年の1月24日まで高田に滞在しました。そこで伝えたのが、1本の杖を使う「リリエンフェルト式スキー術(オーストリア式スキー術)」でした。
■ 「リリエンフェルト式スキー術」とは
「リリエンフェルト式スキー術」とは、レルヒ少佐の師匠、マティアス・ツダルスキーがオースラリアのリリエンフェルトで完成させたスキー術です。
当時、世界で主流だったスキーは2本の杖を使う「ノルウェー式」と呼ばれるものでした。ノルウェー式は、平らな場所を歩くのには最適だった一方、足をスキー板に固定する締具が簡素だったため、山の斜面を滑るのには適していませんでした。
そこでツダルスキーが考案したのが、急な斜面でも安全に滑ることができる「リリエンフェルト式スキー術」でした。特徴は足をスキー板にしっかりと固定する締具がついている点にあります。激しい動きをしても、スキー板が足から離れる心配がなくなったのです。
またノルウェー式に比べて、スキー板が短いという特徴もありました。当時は現在のスキーのように2本のストックを使わず、1本の長い杖が使われていました。
■民間人にもスキーが普及
レルヒ少佐の指導を初めに受けたのは、当時、高田町に駐屯していた大日本帝国陸軍・第13師団歩兵第58連隊の将校たちでした。
レルヒ少佐の指導は熱心かつ、親切、丁寧であったといいます。
その後、師団を率いていた長岡外史師団長が家族にスキーの練習をさせるなどしたことで、スキーは民間人の間でも広がりを見せていきました。
1912年(明治45年)1月21日。日本初のスキー競技会が高田市の金谷山で開催されました。その様子は、活動写真(当時の映画の呼称)によって全国で紹介され、高田はスキー発祥の地として知られるようになりました。
日本スキー発祥記念館の担当者は、ハフポスト日本版の取材に以下のように話しています。
「レルヒ少佐が現在の上越市内で指導したことがきっかけとなり日本全国にスキーが普及し、上越市でもスキー産業が発展しました。1月12日のスキーの日に注目していただけることは大変有り難いです」
新型コロナの感染拡大が収まり、気兼ねなくスキーを楽しめる日が来るのを願うばかりです。
【参考文献】
・日本スキー発祥記念館「日本スキー発祥のはなし」
・上越市立歴史博物館「日本スキー発祥記念館」
・朝日日本歴史人物事典「レルヒ」