「降りたい、降りたい」遠征の飛行機、迫る恐怖心。「広場恐怖症」公表の元ロッテ・永野将司の闘病と感謝

ロッテ在籍中に「広場恐怖症」を公表した永野投手。知られざる闘病生活と日々の困難、野球の喜びを語った
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全府中野球倶楽部の永野将司投手
平尾類

力強くしなった左腕からうなりを上げる直球が、捕手のミットに吸い込まれる。

東京都府中市のグラウンド。ロッテでリリーバーとして4年間プレーした最速154キロ左腕・永野将司投手は2022年から社会人野球のクラブチーム・全府中野球倶楽部に所属し、エースとして活躍している。

「今日はあまり調子が良くないですね。練習が週1回なので肩の筋肉が落ちる。平日は仕事があるので仕方ない部分はありますが、毎日投げるのは大事だなあと改めて感じます」

社会人野球で活躍を続ける永野投手だが、実は「広場恐怖症」を抱えており、電車や飛行機に乗れないなど、日常生活で不自由を強いられている。

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快速球で相手打者をねじ伏せる投球スタイルは健在だ
全府中野球倶楽部

「広場恐怖症」とは

ロッテの戦力構想から外れて退団したのは昨オフ。現在は一般企業の営業職として働く傍ら、全府中野球倶楽部で野球を続けている。

仕事は多忙だ。平日は午前6時前に起床し、埼玉の自宅を出発。茨城、栃木県など県外の取引先を回る。車で往復5時間の距離も珍しくはない。

午後6時過ぎに埼玉県内の営業所に帰社して事務作業を行う。自宅に戻るのは午後10時過ぎ。「今の生活だと平日は練習時間をなかなか取れない。クラブチームの投手は凄いですよ。練習時間が休日の3~4時間だけなのに、簡単にストライクが取れる。僕のコントロールが良くないだけかもしれませんが」と笑う。

物腰が柔らかく謙虚な性格だが、実力は飛び抜けている。

4月に開催された「全日本クラブ選手権」で都予選準決勝・リベンジ99戦に先発登板し、8回で159球を投げて11奪三振1失点の快投。決勝・ゴールドジム戦も11奪三振3失点で完投勝利を飾り、大会MVPに輝いた。

7月の都市対抗では、JR東日本の補強選手として声が掛かり、1回戦・大阪ガス戦に救援登板して1回無失点。社会人・ホンダで出場した17年以来5年ぶりの大舞台だった。

「ホンダの時は『プロになりたいからいいところをみせなきゃ』って感覚だったけど、今回は純粋に楽しかった。東京ドームで野球ができる喜びを感じましたね。その後に体調不良でチームの力になれなかったのが申し訳なかったですが、またあの舞台で投げたいです」と目を輝かせる。

自身の性格を「マイペースで楽天家」と分析する。気持ちの切り替えが早く、くよくよしない。この人柄に触れると、現在も闘病生活を送っていることが信じられない。

永野投手は、不安障害の一種である「広場恐怖症」を抱えている。公共交通機関や閉鎖的な空間に身を置くと不安や恐怖を感じ、動悸、息切れやパニック発作が起こる病気で、投薬治療や認知行動療法、カウンセリングで治療する。永野投手の場合は電車、新幹線に長時間乗れないため、自家用車を運転して移動する。

「言葉で表現するのが難しいのですが、電車や新幹線など自分の意思で止められない乗り物に乗ると不安に襲われる。降りられなくなることを想像してパニック状態になってしまう。車も知らない人が運転していたら厳しいですね。大学を卒業して病名が付けられるまでは、こういう体質なのだと思っていました」

大きな恐怖で症状が悪化した

自然に囲まれた大分県山香町(現杵築市)で生まれ、両親の大きな愛情を受けて育った。異変を感じたのは小学校低学年の時だった。

「音楽の授業で、男子たちがふざけて歌わないっていう時があって。その時に先生が『やり直し!ふざけないで!』って注意するのが繰り返されて、『いつになったら終わるんだろう』って急に不安になったことは今でも覚えています。車に乗った時も高速道路で急に速く感じて『怖いから降ろして』と運転していた父親に伝えて。『今までそんなこと言わなかったのに急にどうしたんや』ってびっくりしていましたけどね。中学の時も軟式野球部の遠征で、友達の親が運転する車に乗れなかった。その時は能天気な性格なので深刻には受け止めていなかったんです。いつか治るし、何とかなるやろって」

日出暘谷高(現日出総合高)に進学すると、地元の公立校で電車通学だったこともあり症状はおさまった。東京への修学旅行にも参加し、飛行機に乗っている。県下で好投手として評価を高め、強豪の九州国際大へ。

だが、大学2年のある出来事を発端に症状が悪化する。疲労回復で勧められた酸素カプセルに入った時だった。50分で終わる予定が、1時間半が経過していた。旧式の機械だったため中から開けることができず過呼吸に。大きな恐怖心に襲われたことがその後の生活に影響する。

リーグ戦でバスに乗って他大のグラウンドに向かう際、「いつ着くんだろう」と不安になるように。手汗が止まらなくなり動悸、めまいの症状が出て、『停めてください。怖いです』と訴えた時もあった。到着すると、心身共に疲弊しきっていた。投球にも大きく影響する。制球が定まらず乱調が続いた。

大好きな野球を続けたい。支えてくれたのは家族だった。父・俊行さんに相談したところ、大分から車で福岡に駆けつけてくれた。「どこのグラウンドに行くのが怖いんか?今から俺の運転で一緒に行って道覚えようや」と一緒に車で他大のグラウンドに移動するように。道を覚えることで到着時間が予測できるようになり不安が和らいだ。症状がおさまると、チームのバスで移動できるようになった。

移動の際はチームから離れて大分から福岡に出てきた父・俊行さんの車で移動するようになった。道を覚えることで到着時間が予測できるようになり不安が和らいだ。実家の車を譲ってくれることになり、監督や部員たちの理解を得て自家用車で移動するようになると、症状がおさまった。

病名が判明したのはホンダに入社した23歳の時だった。会社に提出する診断書が必要なため病院で検査を受けたところ、「広場恐怖症」と診断された。

「ピンとこなかったですね。病名を聞いても『え?それなんなの?』って。でもネットで調べたら症状が全部当てはまる。びっくりしましたね。こんな病気があるんだと」

日常生活で不自由を強いられたが、野球に没頭して才能を磨く。

左腕からの150キロを超える快速球が評価を高め、17年ドラフト6位で千葉ロッテへ入団する。病気のことを考えると、プロ入りに迷いがなかったわけではない。だが、幼少の頃から憧れていたプロの世界で勝負したい気持ちを抑えきれなかった。球団に病状を伝えたところ、理解を示してくれたことが大きな心の支えになった。

プロ入り1年目、機中で襲ってきた恐怖

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ロッテの新人合同自主トレーニングで汗を流す、永野将司投手(2018年01月12日)
時事通信社

プロはシーズンに入ると、月の半分が遠征だ。パリーグは札幌、博多など飛行機での移動が多い。この壁を乗り越えたい――。永野投手は当時を振り返る。

「羽田から石垣島に移動する1年目の春季キャンプは、(医者に処方された)睡眠薬を飲んで寝ていたら到着していて。うれしくて、親に『普通に(飛行機)いけるわ』って電話しました。オープン戦に出場するため、那覇に飛行機で移動した時も大丈夫だった。その後も移動を繰り返していたのですが、高知から宮崎のチャーター機に乗った時に天候不良で揺れて寝られなくて。『降りたい、降りたい』って怖くなり、そこから体調が悪化した。帰りは飛行機に乗れなくなり、親から借りた車で20時間かけて関東に戻りました。その後も飛行機に乗ろうとチャレンジしたけど空港で引き返したり。あの時の恐怖心が忘れられない。自分がダメなんです…」

自身を責める永野投手にかける言葉が見つからない。飛行機に乗るのは大きな勇気が伴っただろう。病名を公表したのは翌19年3月だった。2月の春季キャンプは体調不良で参加せず、自宅療養を経て実戦復帰したが、SNS上で重病説が流れるなど周囲に心配された。担当スカウトだった高橋薫さんから「隠し切れないから(公表しても)いいんじゃないか?」と助言を受け、公表に踏み切った。

「発信したら(SNS上に)残るけど、伝えることによって治った人から良いアドバイスをもらえるかもという思いもあった。反応は想像以上でした。『私も同じような病気です』って手紙が来て。サバの缶詰とか青魚とか副交感神経に良いとされる食品を送って頂いたり。同じ病気で悩んでいる人がこんなにいるんだってことに気づかされました。多くの方に『勇気づけられました。私も頑張ります』とメッセージを頂いたけど、僕が一番励まされたんです」

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埼玉西武ライオンズ相手にリリーフとして登板したロッテ時代の永野将司投手(2020年09月16日)
時事通信社

つらい時、支えてくれた人と言葉

19年に5試合登板で3ホールド(中継ぎ投手としてリードを継続)をマーク。20年に13試合登板する。1軍で投げられる喜びを感じながらも、車で何度も休憩しながら10時間以上の移動は心身が消耗する。思うような結果を残せず、「移動が多いしプロは向いてねぇわ」と自暴自棄になりそうな時もあった。

支えてくれたのは入団前に結婚した看護師の妻・紗央里さんだった。自律神経に良いとされる食事を調べて用意し、トレーニングで一緒に電車に乗る時も、不安な気持ちに襲われる永野投手の体に手を添えていた。

チームメートや首脳陣の励ましの言葉も心に残っている。当時の吉井理人投手コーチに「無理せんでいい。ホームで70試合あるんだから全部投げるつもりでやれば戦力になるし、給料も上がるんやぞ。パフォーマンスを上げることに集中しよう」と声を掛けてもらい、心が軽くなった。

プロ4年間で22試合登板し、0勝1敗3ホールド、防御率4.30。最終年の21年は左肩の故障で球速が低下。1軍登板なしに終わり、戦力構想から外れて退団が決まった。

際立った成績ではないかもしれないが、自分の症状と付き合いながら、最善を尽くした結果と言える。濃密な時間は、今後の人生できっと大きな糧になる。

「プロに行きたくても夢が叶わなかった人がたくさんいる。僕は1軍で22試合投げられたことが大きな財産です。プロに入団できて本当に良かった。サポートして頂いたロッテ、両親や家族を含めて感謝の思いしかありません」

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ブルペンで投球練習を行う永野将司投手
平尾類

永野投手と同様に不安障害に悩む人たちは決して少なくない。メッセージを求めると、言葉を選びながら答えてくれた。

「症状の重さもあるので一概に言えない部分はありますが、この病気だから好きなことをあきらめるって言うのは…できればしてほしくないです。あきらめずに最善の方法を尽くしたら自分らしく生きられる。無理やり治そうと思わず、『この病気を含めて自分』だと思えば少し気が楽になると思います。僕は野球が好きなので獲ってくれたオール府中で長く続けたい。皆さんも夢中になれることを見つけて楽しんでほしいですね」

現在も電車、飛行機に基本的には乗れないが、2、3分で各駅に停車する山手線は短時間で降りられるので乗車できるという。「娘が電車に乗りたいって言うから。無理はしませんがちょっとかっこいいところを見せないと」。穏やかな笑みを浮かべる永野投手が、かっこいいパパであることは間違いない。

(取材・文:平尾類、編集:安田聡子)