幕末の京都を警護した「新選組」が、浄土真宗本願寺派の本山・西本願寺(京都市下京区)に駐屯していたときの、やりとりを記録した文書が見つかった。当時の状況を記した史料は、これまで知られていなかった。
文書には、新選組が寺に多額の借金を願い出たり、副長の土方歳三(ひじかた・としぞう)が待遇改善を求めて直談判した様子が記録されているという。同派の本願寺史料研究所が2日発表した。毎日新聞などが報じた。
記録には駐屯を始めた11日後の3月21日に「金五百両也」「新撰組ヨリ拝借願ニ付、今日御貸下ニ相成候事」との記述があり、寺が200両、残りを商人から工面していた。同じ日に新選組が「相撲を開催するので見物に来ないか」と誘うなど気遣いも見せていた。ただ、当時このような借金は返されないことが多かったという。
6月25日には土方が寺の担当者と面談し、「1人1畳くらいのスペースしかなく暑くてたまらず、隊士からも不満が出て抑えられない」とし、阿弥陀(あみだ)堂(本堂、現在は重文)を50畳ほど借りたいと要求。寺側は応じず、集会所の未使用部分に畳を敷き、壁を取り外して風通しを良くすることで対応した。その日のうちに土方から「無理な願いを早速聞いていただき、かたじけなく思う」とする礼状が届いていた。
(毎日新聞「新選組:待遇改善を直談判した土方歳三 西本願寺から文書」より 2014/09/02 20:07)
新選組は1865年3月、手狭だった壬生(みぶ、京都市中京区)から西本願寺境内北側の北集会所(きたしゅうえしょ)に拠点を移した。北集会所は200畳の広さがあるため、『1人1畳くらいのスペース』という内容から、当時隊士は200人ほどいたことが推測される。
本願寺史料研究所の大喜直彦上級研究員は「当時の新選組は崩壊の危機にあった。寺の環境が悪ければ隊士を抑えられないと考え、土方は必死で頼んだのではないか」とコメントしている。
一方、西本願寺は毛利家の支援を受けた縁から親長州派であったこともあり、幕府が寺と長州藩との関係を警戒し、新選組の拠点を移したとの見方もある。新選組が寺を出て行くことに尽力した寺関係者には、褒美を与えたことなども今回発見された文書に記されており、新選組に対する同寺の胸中もうかがえる。
■京都西本願寺の「北集会所」は現在は兵庫県姫路市の亀山本徳寺へ移築されている。
■阿弥陀堂外観
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