4月28日午後3時半新宿アルタ前、SNSを通じて呼びかけ合った有志が開いた街宣イベント「#私は黙らない0428 」へ行った。
自分と同世代の若者が主体となって声を上げている。世の中を変えようとしている。そのコンセプトや実行力に惹かれて取材を申し込んだ。
15分前に到着したが、新宿アルタ前は想像以上の人が押し寄せ、メディア関係者で埋め尽くされていた。
事前にSNSでシェアしていた色とりどりのプラカードや、ステージ後方に設置されたDJブースなど、色鮮やかで堅苦しさを感じさせない、いわゆる「日本のデモ」らしくない雰囲気が漂っていた。
主催の学生たちも、思い思いのファッションに身を包んでいる。「真面目そうな学生」はどこにもいない。
皆、私が大学や週末のクラブで出会うようなイマドキの若者。休日に街を歩く通行人と何も変わりなかった。
あの日、大きく一歩踏み出すまでは、何も。
新宿の空気を変えたこと以外は、何もーー。
有志の呼びかけによって発足したこの街宣は、福田淳一・前事務次官のセクハラ問題と、財務省が当初セクハラを認めようとせず、女性記者に名乗り出て調査に協力するよう求めたこと。福田氏が「お店の女性と言葉遊びを楽しむようなことはある」と客商売の職業を貶め、差別したこと。それを(なんとなく)許してしまう社会への悔しさが皮切りとなっている。
後に財務省は福田氏のセクハラを認定したが、組織や構造の問題ではなく、一人の官僚の問題として処理され、終わったように見えもする。
しかし、セクシズム(性差別主義)は日常に転がっている。私たちが毎日のように直面している事実である。これまではセクハラや性差別、性暴力を訴えたとしても、「被害者」の容姿や言動に落ち度を求められ、黙らされてきた。声を上げられない人もたくさんいた。
「だからこそ今、自分の言葉で語りたい」
進行の溝井萌子さんがそう宣言すると、現場は大きな拍手で賛同した。
「あなたは何にも悪くない、あなたは決して一人じゃない、あなたはこの抑圧に対して声をあげる権利があり、それは誰も奪えない」
私は、開始5分で勢いに飲まれていた。
そこから続く1時間、胸に直球で刺さるみんなの言葉を受け止め、溢れ出る涙をこらえながらカメラのシャッターを切り続けることしかできなかった。
性別も、年齢も、バックグラウンドも異なる9人の登壇者。
言葉一つひとつが、彼らの現実そのもので、まっすぐ心に刺さる。
私は今まで #MeToo で過去を吐露するようなツイートや、それを励ます人々のような仲間や同志を見つけるたび、何度も心を救われ、ボロボロだった自己肯定感をギリギリつなぎとめてきた。
街宣では、エネルギーを込めて、生身の人間が自分の声で叫んでいる。
ネット上ではどうしても伝わらないパワーが、余すことなく自分の五感に届く。
街宣が終わり、登壇者にインタビューをして帰路へ着いたが、そこから筆が全く進まなかった。
私が間に入って伝えたら陳腐になってしまう。あの熱量をどうしたら表現できるのか。ライヴの勢いを伝えられない、と何度も悩んだ。
なぜ私は、うまく伝えられないのか
私たちは今、連日メディアを通して「沈黙を破った女性たち」「日本の女性たちも声を上げ始めた」とニュースを見聞きする。
まるで、#MeTooが「ポッと出の流行」のように扱われてる気がする。
それが苦しい。
私たちは、ずっと前から戦っていた。
日々、自分たちが理不尽に受ける不当な仕打ちに、「おかしい」と声を上げていた。
目の前の現実に迎合するしかなかった人々も、かつては声を上げようとしたはずだ。
沈黙を破った、声を上げ始めたのは、「被害者」ではない。
顔の見えない「被害者」を黙らせてきた圧力の蓋が、今やっとかすかにこじ開けられ、世の中がやっと耳を傾け始めたのである。
彼女ら彼らが姿を隠さずに本名で人前で過去を話した「0428」は、始まりの日ではない。
彼らが感じてきた違和感、受けてきた被害、理不尽な扱いといった日々。そこからもがき苦しみ、あの日登壇まで至った決意。その過程の全てが「#MeToo」なのではないだろうか。
あの日、最後にスピーチをしたフェミニストの福田和香子さんは、自分の過去を初めてカミングアウトした。
「私の痛みはあなたの消費のためでない。私の選ぶ洋服はあなたへの招待状でもなければ許可証でもない」
「私は棚に陳列された商品ではなく笑顔を貼り付けられた人形でもない。自分を定義することを覚えた私はお前の一時的な欲求とシステムにコントロールされた物言いに負けることはない」
目に涙をためながらも前を見て力強く宣言をした彼女の言葉は強く、会場中が涙したのを体感した。
性暴力を受けた人々は、声をあげるたびに大したことないと笑われジャッジされ、お前も悪かったと切り捨てられてきた。
「なんであの時言わなかったの」そう言って傷口に塩を塗り込まれ、涙を否定されてきた。
あの日、和香子さんや会場にいた人が湛えた涙は絶望ではなかった。その目に溜めたのは怒りの炎だ。
彼らが見ているのは、過去の後悔ではない。今、何をすべきかだ。
この街宣は、今の日本社会を生きる若者たちにとって、未来への大きな一歩だったのではないだろうか。
私たちのこの炎を受け止める覚悟は、この社会にあるか。
デモに参加することも、「アタラシイ時間」だ。
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