台湾、鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入るシャープ。2016年3月期決算で2559億円の最終赤字を計上し、債務超過に陥った末期症状の会社に、ホンハイはなぜ3888億円も投資するのか。背景には、ワンマンで知られるホンハイのテリー・ゴウ会長と、シャープの「伝説のエンジニア」の知られざる物語がある。
孫正義の「恩人」、ジョブズの「師」
「ああ、ゴウさんね。お父さんの代からよく知っとるよ」
テリー・ゴウのことを尋ねると、彼はこともなげに答えた。
佐々木正。1964年、シャープの創業者、早川徳次に乞われて同社に入り、「電卓戦争」の指揮を執った。現在も半導体の主流を占める「MOS-LSI(金属酸化膜半導体を使った大規模集積回路)」を民生品で初めて実用化した人物で、「電子工学の父」とされる。
佐々木はこの半導体を米航空防衛大手のノースアメリカン・ロックウェルと共同開発した。ロックウェルの技術者たちは、佐々木の自由奔放な発想力に驚愕し、「ロケット・ササキ」の称号を与えた。半導体はアポロ12号に採用され、佐々木はNASA(米航空宇宙局)から「アポロ功績賞」を受けている。
シャープの役員だった佐々木は、カリフォルニア大学バークレー校の学生だった孫正義が開発した電子自動翻訳機を1億円で買い取って起業資金を提供した「恩人」であり、アップルを放逐されたスティーブ・ジョブズにアドバイスを与えた「師」でもあり、神戸工業(のちの「富士通」、現「富士通テン」)時代は、のちにノーベル物理学賞を受賞する江崎玲於奈の「上司」だった。
電子工学の歴史に名を刻む佐々木の突き抜けた人生については、5月18日に発売される拙著『ロケット・ササキ ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正』(新潮社)を参照されたい。
テリー・ゴウの憧れ
佐々木はホンハイのテリー・ゴウを子供の頃から知っていた。
今年101歳になった佐々木は幼い頃、両親に連れられて台湾に渡り、京都大学に入学するまでの間をそこで過ごした。当時の台湾は日本の植民地で、佐々木が通った樺山尋常小学校には台湾人の子供も混じっていた。その中にテリー・ゴウの父親がいた。
「ゴウさんのお父さんはその後、学校の先生か警察官になったと思う。片足が不自由だったが、しっかりした人だった。ゴウさんはまだ、こんなに小さかったけどね」
佐々木はそう言って、自分の膝下に手をやった。
佐々木が大人になったテリー・ゴウと再会したのは、シャープの専務をしていた時だ。テリー・ゴウは香港で家電製品を販売する仕事に携わっており、シャープとも取引があった。
「(シャープの2代目社長)佐伯(旭)さんが香港に行くと、すっ飛んできて『佐伯さん、佐伯さん』と付いて回った。頭の回転が早く、人の心をつかむのがうまいから、佐伯さんも随分、可愛がっていた」
今から30年以上前、1970年代の話である。
このころのテリー・ゴウにすれば、日本の電機大手の一角を占めるシャープは仰ぎ見る存在だった。「いつかこんな会社を経営してみたい」と思ったとしても不思議はない。
凄まじい技術革新
佐伯が社長、佐々木が副社長だった時代のシャープは、松下電器産業(現パナソニック)や日立製作所のような巨大企業ではなかったが、ソニー同様、常に新しいことに取り組むイノベーティブな会社だった。国産テレビ第1号を生産し(パナソニックは自社が第1号と主張している)、電子レンジでも先鞭をつけた。
極め付けは電卓である。
佐々木が入社した1964年にシャープが発売した電卓は、重さ25キログラムで価格は53万5000円。クルマが1台買える値段で、机を1つ占拠する大きさだった。佐々木はこれを「八百屋のおかみさんが買えて、胸ポケットに入るサイズにする」というビジョンを掲げ、最先端の技術をかき集める。
それがMOS-LSIであり、液晶ディスプレイであり、太陽電池だった。21年後の1985年にシャープが発売したカード電卓は重さ11グラム、7800円。凄まじい技術革新だった。
この間、テリー・ゴウはシャープの躍進を間近で見ていた。ホンハイがアップルのiPhoneを受託生産するようになると、シャープの液晶部門とも近くなった。テリー・ゴウは自らも液晶パネルのサプライヤー(製造業者)になるため台湾の液晶メーカーを買収したが、アップルが満足するスペックのパネルはなかなか作れない。またしてもシャープの技術力の高さを見せつけられた。
ペットボトルを投げつけ
最初にシャープの経営危機が表面化した2012年、テリー・ゴウは「千載一遇のチャンスが到来した」と感じただろう。子供の頃から憧れてきたシャープが、手に入るかもしれないのだ。
テレビ向けの大型液晶パネルを作る堺工場(現「堺ディスプレイプロダクト=SDP」)とシャープ本体に総額約1300億円を出資することで大筋合意した後、テリー・ゴウはホンハイの開発部門に冷蔵庫や洗濯機の試作品を作らせ、シャープに「あれもやろう、これもやろう」と猛烈にアプローチした。交渉相手だった町田勝彦(当時シャープ会長)が「そんなに焦るな」と諌めたほどだ。
「会長にとってシャープはキラキラしたおもちゃ箱。それが手に入るとなって、明らかに舞い上がっていた」とホンハイの関係者は打ち明ける。
だが大筋合意の数カ月後、シャープは大幅な業績見通しの下方修正を発表する。ホンハイにとっては寝耳に水。シャープの株価は大筋合意時の1株550円から200円台に急落した。
「話が違う!」
テリー・ゴウの落胆と怒りは凄まじかった。出資条件の見直しを迫ったが、シャープは「双方で合意したこと」と譲らない。テリー・ゴウは怒りのあまり、水の入ったペットボトルをシャープ首脳に投げつけたという。
結局、出資はSDPのみとなり、シャープ本体への出資は棚上げされた。それでもテリー・ゴウのシャープへの憧れは消えなかった。
片山幹雄、奥田隆司(ともに元社長)ら関係がこじれていたシャープの経営陣が交代すると、再び水面下でアプローチを開始。一時は官製ファンド、産業革新機構による救済で決まりかけたシャープ再建の流れを力づくで押し返し、ついにシャープの経営権を握った。子供の頃からの片想いがついに成就した。そんな瞬間である。
「驕った考えだった」
ただ、今のシャープは佐々木がいた頃のシャープではない。佐々木がシャープの顧問を辞めたのは1989年。その後、シャープは液晶テレビの「アクオス」で大ヒットを飛ばし、世界最強の液晶パネルメーカーにのし上がった。だが、その瞬間から「成功のジレンマ」が始まる。
液晶一筋で「プリンス」と呼ばれ、40代後半の若さで社長になった片山は「液晶の次も液晶」と語り、巨額投資にのめり込んだ。佐々木は液晶1本足の経営に危機感を覚え、知人を介して片山に「液晶以外の技術開発にも取り組め」とアドバイスしようとしたが、片山は「忙しい」と言って、その知人に会うことすらしなかった。
「アクオス」で一世を風靡していた頃、町田は社内で「シャープは一流企業になった」と漏らすようになった。社員にも「一流企業らしく振る舞う」ことを求めたという。液晶パネルの開発競争で先頭に立ったと確信した町田は「オンリーワン経営」を標榜した。
「技術者の使命は、人類の進歩に貢献すること。会社が一流かどうかなんて関係ない。1社でできることには限りがある。『オンリーワン』というのは、いささか驕った考えだった」と佐々木は振り返る。
アクオス発売から15年。一流意識に凝り固まったシャープを変えるのは、並大抵のことではない。佐々木が存分に腕をふるった時代の「イノベーティブなシャープ」を取り戻すには、テリー・ゴウが日産自動車におけるカルロス・ゴーンの役目を果たさねばならない。(敬称略)
大西康之
経済ジャーナリスト、1965年生まれ。1988年日本経済新聞に入社し、産業部で企業取材を担当。98年、欧州総局(ロンドン)。日本経済新聞編集委員、日経ビジネス編集委員を経て2016年に独立。著書に「稲盛和夫最後の闘い~JAL再生に賭けた経営者人生」(日本経済新聞)「会社が消えた日~三洋電機10万人のそれから」(日経BP)などがある。
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(2016年5月18日フォーサイトより転載)