才気あふれるMatsuki***さんのこのツィートを見て、思わずふいた。
この疑問は、僕が若いころに持っていた疑問とまったく同じだからだ。
オッサンどもは馬鹿じゃないのか、と思っていた。
完全なオッサンになった今、あれほど不思議だった謎がようやく解けた。というか、自分もそういうオッサンになっていることに気づいた。
そこで、自分の心の中に取材班を派遣して、その理由を探ってきた。おおむね、その理由は以下の5つによるものと思われる。
Matsuki***さんが何十年かのちに、三国志に関する記事を書いて1,000はてブというところを見たうえで、あの世へ旅立ちたいものだ。
だいたい、50才ぐらいになると、「同窓会サイコー」などと言い出すのがオヤジである。
人生の残り時間よりもすでに過ぎ去った時間のほうが長いのだから、仕方がないことでもある。アップルウォッチをつけても、曜日の表示小さすぎ老眼で見えないのだ。
その夢想の向かう先が、同窓会から幕末へ、そして安土桃山時代へと向かうのはやむ終えないことなのである。
自分が特別な存在ではなく、いままでに何億何千億といた普通の人間であることに気がついた。そして、悩みはジョン・レノンやクロサワ監督のそれよりも、歴史上の人物(主に脇役や不運のうちに人生を終える人たち)のそれとそっくりであることに気がつく。
自分も「ただの普通のオッサン」だから、何も特別なことを成し遂げていない普通のオッサンたちが好きなように戦国武将や三国志が好きでもいいんだと、ある日突然目覚めるのである。
現在脚光を浴びている人物を引き合いに出して、数年後にその人が転落してしまえば、なんだか自分の洞察力のなさの証拠になってしまいそうで不安である。
その点、歴史上の人物であれば、すでに人生は終結している。
ことの成否が俯瞰しやすい。また、だくさんの評価がすでに出尽くしており、どういったところで安心である。
オヤジともなれば、その辺の危機管理には敏感なのである。
若いころは自分を投影するのはミック・ジャガーだったり、リンゴ・スターだったりした。
さすがにオッサンになると、それは無理だ。
が、歴史の上の人物のなかには、現実の自分を投影できる身近な人物も多い。
敵側への寝返りを信長に疑われた官兵衛。息子を殺せと命令する信長。友官兵衛を信じて命を賭けて息子を匿う半兵衛。オッサンどもは官兵衛や半兵衛に自分を投影して酔うこともできるし、憎っくき豪腕上司を信長に投影できるし、あるいは身代わりに殺された子供に自分を投影して号泣することもできるのである。
いくら信長のような大きな業績をあげても、しょせんは死ぬのだ、自分と同じように。
そう思うと、なにも語るべきものがないまま死んでしまうことも、まあ仕方がないかと、胸のつかえもおりるのである。
(2015年6月2日「ICHIROYAのブログ」より転載)