15日、安全保障関連法の廃案などを訴えてきた学生グループ『SEALDs』が解散する。
2015年5月3日に結成され、その輪は関西、東北、沖縄、東海と瞬く間に広がっていった。
シュプレヒコールはラップ調で、キャッチーな言葉も並び、今まで政治に関心のなかった一定層の若者への発信もできただろう。(それ以上に周りの大人の方が熱狂的だったと思うが...)
また、SNS上で物事を決め、メンバーが集まれなくても組織を動かせる体制が整っていた。
これらの視点から、『SEALDs』が取り組んできたことは、同じ若者世代に物事を伝えるヒントが大いに隠されていると私は思う。
しかし、総じて、『SEALDs』が若者代表と言われるのには、大きな違和感を覚える。机に向かって勉強をしている学生もいる。そもそも安保法案に全く興味のない学生もいる。
そんな中、若者=SEALDsという構図はおかしい。
実際、先に参議院議員選挙における街頭演説にも『SEALDs』のメンバーが登場していた。
周りを見るとご高齢の方が多かった。
彼らは高齢者の同窓会のつなぎ役のように見えた。
若い人と一緒に集まり、声をあげると、自分たちも一緒に将来を考えている。
そんな気分になるのだろう。
そんな中、先日、私は『SEALDs TOKAI』の一人のメンバーと実際に会い、話をした。
なぜ、活動に参画しようと思ったのか。どんなことを個人的に目指しているのか、気になっていたことを次々と聞いた。
しかし、話を展開していると、想像もしていなかった言葉を聞いた。
それは、『実際、デモよりも対話を重ねたい』だった。
私は以前からデモはあくまでも一つの手段。その先を目指すには、しっかりとした対話が必要だと考えている。(それでもデモは進んで参加しようと思わないが)
この私の意見と『SEALDs TOKAI』の子の発言は類似する。
全員が全員ではないと思うが、やはりデモでは限界が見られるのだろう。
解散する今だからこそ、「解散してお終い。僕たち頑張ったね。」
のただの『お祭りごと』ではなく、次の展開をしっかり考え、見据えた上での解散であってほしい。
ここから、今までの活動の本当の意義が見えてくるのではないだろうか。