社畜予備軍を育てる部活動という制度
みなさん、部活やってました? わたしは中学時代は合唱部に入部、転校して吹奏楽部に入っていました。犬夜叉の桔梗に憧れてわざわざ弓道部に入部して、高校では弓道をやっていました。
わたし自身は中・高と部活を退部してしまっているんですが、『スラダン』『ハイキュー!』『弱虫ペダル』みたいなスポーツ漫画や『ちはやふる』『この音とまれ!』といった文化部が舞台の漫画などを読むと、やっぱり胸が熱くなります。
部活はロマンがあります。でもその反面、部活というのは問題点も多いと思うんです。
部活は理不尽のかたまりです。その理不尽に慣れてしまうと、学生が社会人になったとき、なんの疑問も持たずに滅私奉公してしまいます。
社蓄予備軍を養成しているという意味では、部活はとても罪深いものだと思います。
日本の部活事情
2013年の文部科学省の統計によると、中学校では約65%、高校では約42%の生徒が部活に加入しています。(運動部活動の在り方に関する調査研究報告書)
部活は子どもが非行に走るのを抑制したり、責任感や連帯感を培うための「教育の一環」として推進されています。
昔は、子どもが言うことを聞かなければぶん殴って言うことを聞かせ、根性論で水を飲ませずとも「教育」の一言で済まされていたのですが、いまはそうはいきません。
正直、日本の部活はゆがみすぎています。部活を美化しすぎず、もっと問題点に目を向けるべきじゃないでしょうか。
いつまで先輩絶対主義を貫くんですか
日本の雇用システムは、年数にしたがって賃金が上がるという年功序列システムです。とはいえ最近はもっと個人の実力を見て能力を評価しよう、という意見が支配的になってきています。
それなのに、部活ではいまだに先輩絶対主義を貫いています。
先輩がいたら後輩から挨拶すべきだし、なにかあったら先輩に報告。実力があっても1年生は玉拾いからってのも当然だし、部長は基本的に最高学年から選ばれる。
部活時代に、すでに「上の命令には従え」と刷り込まれるんです。
後輩はとにかく先輩に責任を丸投げすればいいし、先輩は面倒事を後輩に押し付ければいい。
年上を敬う情緒教育というより、先輩が心置きなく横柄に振舞える環境を容認しているだけではないでしょうか。
苦難は耐え忍べ!はパワハラである
部活への本気度によりますが、部活では多くの苦難を味わうでしょう。いくら楽しくても、万事上手くいくってことはありません。そういうときは必ずといっていいほど、「困難は耐え忍べ」と教えられます。
「逃げるな」「立ち向かえ」「耐えていればいつか報われる」。うわべだけのとても美しい言葉です。
中高生は多くの場合、純粋で素直です。「耐えろ」と言われたら「耐えるべきなんだ」と理解するでしょう。情操教育という名の洗脳です。
忍耐を押し付けられ根性を強制されると、大人になった時も「耐えなきゃいけない」「逃げちゃいけない」と自分で逃げ道をふさいでしまうんじゃないでしょうか。
耐える必要のない理不尽や逃げる方がいい困難だってあります。それでも部活という狭いコミュニティでは、「逃げるな」「耐えろ」と洗脳します。
そういう教育をしておいて、「ブラック企業はすぐに辞めましょう」なんて、どの口が言うんでしょうね。
湯水のように時間を費やすのが当然
部活というのはおもしろい制度で、「強くなるために」「結果を出すために」という目的を掲げて、湯水のように時間を費やすことが当然となっています。
そしてそれは、「やりたいから」という単純な気持ちで正当化されます。
そこでは、「みんなで目的を成し遂げるために自分の時間を犠牲にするのが当然」という考えが育ちます。
ですが、学生の本分は学業です。部活に入ると、朝練、昼練、放課後練、土日練とものすごい時間を捧げることになる。緩いところもあるだろうけど、基本的に理由のない休みは禁止。学校によっては部活に強制加入です。
部活に入ったら最後、自分の時間よりも部活のために時間を使うしかなくなります。
なぜなら、活動時間や活動頻度すら自分で決められず、「部員」である限り「部活」への貢献を求められるから。
学生時代ですらこうなんだから、会社でも「自分の時間を犠牲にして仕事すべき」理論を受け入れちゃいますよね。
学生だからこそ、自分の時間をどう使うかを学ぶべきだと思うのですが、部活ではその機会はありません。
いじめや事故が多発する集団行動という闇
部活の一番の罪深さは、「集団行動」にあると思います。
部活に本気になればなるほど絡む人も部活関係がメインになっていくし、朝から晩まで、土日含めずーっと一緒です。
さらに「みんなで同じ目標に向かう」という共通意識がはたらくので、謎の閉鎖空間が生まれます。
それはいわゆる「ムラ社会」なんですが、それを結束と言い換えて美しいものだと見せかけます。
結束したからには最後、集団のために個を犠牲にしなきゃいけません。ワガママは言わない。休まない。先輩には反抗しない。だって僕たちは仲間なんだから、仲間を思いやるのは当然だろう!とこう言うわけです。
その結果、だれも「おかしい」と言い出せなくなります。
わたしの高校は校則では染髪OKなのに、弓道部は茶髪もパーマも禁止でした。ピアスは危ないので禁止するのは理解できますが、髪型で実力は変わりませんよね。
でも「武道だから」という理由で禁止です。そこに客観的根拠は不要。
理不尽で納得いかなくても、結束というしがらみに囚われた閉鎖空間ではそれが当然の常識としてまかり通る。これは恐ろしい洗脳です。
部活によって社畜根性が培われる
部活に青春を捧げた人を否定するつもりはまったくないし、部活は部活のロマンがあると思います。一概に「部活」といっても、活動頻度や濃度がちがうのは承知しています。
ですが、部活は子どもたちに「理不尽を受け入れろ」という意識を植え付けます。
逃げることは裏切りであり、自分の意見を言うことは先輩への反抗であり、休むことは怠慢である。これはすべて、ブラック企業が得意げに押し付ける理論でもあります。
「先輩は絶対だから逆らうな」「逃げずに耐え忍べ」「みんなのために自分の時間を犠牲にしろ」。どれもザ・社畜の考え方ですが、部活ではそれが当たり前なのです。
恐ろしくはありませんか?
部活という制度自体が悪いわけではありません。ただ、根性論を美談にしたり、自己犠牲を払うことを当然とする風潮には疑問を持つべきだし、疑問を持たない学生を育ててはいけないと思います。
部活というシステムを今一度見直して、むしろ部活では積極的に、「理不尽には戦うべきである」と教えていってほしいです。
部活っていう閉鎖空間のなかで、前途ある若者が社蓄予備軍になってしまわないことを祈るばかりです。
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