学校の生活指導 生徒の胸ぐらをつかむような指導はアリ?ナシ?

学校全体の「生活指導」のあり方の基礎固めの意味を持つ「生活指導主任」の人事や指導の実態は、イコール「学校の教育方針」でもあるわけです。

「教師の胸ぐらをつかむ」

「教師に向かって椅子を投げつける」

「教師の足をける」

文部科学省は「児童・生徒の問題行動、不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」を行い、児童・生徒が教師に暴力をふるった「対教師暴力」の件数を公表しています。

公表されている調査結果の中に、教師に対する暴力の具体的な事例は記載されていないので、文科省に直接取材して、どのような行為を指すのか、事例を挙げていただいたものが冒頭に書いた行為です。

これが逆だったらどうでしょうか? 教師が児童・生徒の胸ぐらをつかんだら?

教え子への暴力? 体罰になるのか?     

文科省によると・・・

「ケースバイケースで、一律には判断できない」

とのことです。

相手の胸ぐらをつかむのは、カッとなって、感情のコントロールが効かなくなってしまっての行為だと思うのです。

ところが、「児童・生徒が教師に行えば暴力」で、「教師が児童・生徒に行えば、ケースバイケース」で即暴力とはならない

釈然としません。

教師と児童・生徒では、力関係が違います。

例えば、学校教育法に、

第11条 校長及び教員は,教育上必要があると認めるときは,文部科学大臣の定めるところにより,児童,生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし,体罰を加えることはできない。

と明記されている項目からも分かる通り、力関係の歴然とした差は明らかです。

新年度が始まり、保護者会などで生活指導主任は◯◯先生です・・・等といった紹介がなされます。

そうした中、児童・生徒の胸ぐらをつかんだり、大声でどなり散らしたり、力で指導する先生が生活指導主任になって「不安を覚える」との声が様々聞こえてきます。

生活指導主任に誰を指名するか、それは校長が決めることです。

ということは、校長がそうした「力による」指導を良しとしているのか?疑問がわいてきます。

「生活指導」とは、大辞林第三版によると・・・

「児童・生徒が日常生活の基本である習慣や態度を身につけ、生活上の問題を自分で解決できるように指導すること。」

とあります。

生活指導の目的である「自分で解決できるようにする」ことを達成するために、胸ぐらをつかんだり、大声で、時には暴言に聞こえるような力で児童・生徒をねじ伏せたりするような指導を行うことが本当に有効でしょうか? 身動きできず、力で押さえつけられて、声も出せないような萎縮している状況で「子どもが自分で問題を解決する力」を身につけられるものでしょうか?

また、その光景を目の当たりにした他の生徒たちも、同様に恐怖感を覚え、萎縮してしまい、力で支配されていくのではないでしょうか。

怖さや恐怖心を感じるほどの厳しい指導があったからこそ、今の自分がある。」と振り返る方もいらっしゃるかもしれません。

でも、そういう指導でないと身につかなかったことでしょうか?

「愛があるからこそ厳しい指導をしてくれた」ということなら、大声を出したり、手を出したりすることがすなわち「厳しい指導」ではないと思います。

大声を出したり、手を出したりせずとも、児童・生徒自身が自らの行動や発言を省みて、より自分を高めるために、教師として徹底的に寄り添う。児童・生徒が自らを省みる過程にとことん付き合う。そういう指導方法のほうが余程「愛のある厳しい指導」であり、時間と根気、何より教師自身の覚悟が必要な指導です。力を使って恐怖心で押さえ込む指導は、手っ取り早くすませたい、安易で場当たり的な指導法にさえ思えます。力を使い、恐怖心で押さえ込むことが、有効な教育方法だとはどうしても思えません。

児童・生徒が、指導を受けるような行動をとる背景には、必ず理由があるはずです。そのことにまず寄り添い、探り、共感し、信頼関係を築き、児童・生徒が自らを省みて解決しようとする過程のよきガイドとして、いわば「伴走者」になることが重要なのではないでしょうか。

その積み重ねがあってこそ、「自分で問題を解決する力」が育つように思えてなりません。

また、学校で「あなたと出会えてうれしい」というメッセージが伝わるように、一日に一度は言葉をかけ、他の先生と情報を共有した上で、良かったこと、昨日よりも良くなったこと等をほめ、励ますことで、尊重されている安心感をもって、「学校は自分にとって良い学びの場所だ」と思えてきたときに、変わっていくことがあるようにも思うのです。

生活指導主任の仕事は、学校全体の中でちぐはぐな生活指導がされないための「基礎固め」をする役割があると聞きます。

児童・生徒を力で従わせるような指導を実践していく先生が主任となれば、学校全体がそうした方向になっていく危機感を覚える保護者がいるのも当然です。

校長や教育委員会は、暴言や胸ぐらをつかむような指導をする先生を、

「熱意がありすぎて、行き過ぎた指導になってしまった。」

「保護者にはご理解いただいている」

「保護者から信頼され、ぜひ、あの先生に受け持ってもらいたい、と支持している保護者も多い」

とかばうことも少なくありません。

しかし、忘れてならないのは、保護者が学校で過ごすわけではなく、多くの時間を過ごすのは児童・生徒自身です。

国は、子どもたちに主体的に問題を解決する力を養うことを目指しています。

学校であれば、校長は、そのことに基づく学校経営を行います。その中で、生活指導も一貫した方針で行う「教育」でなければなりません。学校全体の「生活指導」のあり方の基礎固めの意味を持つ「生活指導主任」の人事や指導の実態は、イコール「学校の教育方針」でもあるわけです。

威圧や恫喝とも言えるような暴言、胸ぐらをつかむといったことで児童・生徒に恐怖心を与えるような指導を容認しているような誤解を与えることのないよう、教育委員会や校長は、学校経営を見直していってもらいたいと願います。

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