是枝裕和の嘆き
先日、新作を公開したばかりの是枝裕和のインタビューをしたとき、とても興味深いことを言っていた。是枝はこの時代において「表現者」として、社会への発信を担っている数少ない映画監督の一人だ。
話題は「あいちトリエンナーレ」から、文化への助成をどう捉えるかだった。是枝は日本における表現と権力との「戦い方」に言及した。
《言い返すことも戦い方だけど、文化助成はなぜ必要なのかという情報がなさすぎる。「あいちトリエンナーレ」の騒動でも、テレビで識者と呼ばれる人たちが「そんなことは自分の金でやれよ」と言って済ましている状況では、いくら反論しても、無理なんですよね。》
作り手に言わせてしまう空気
私は内心、この発言に驚いていた。是枝にして、現状は反論しても無駄だという認識を持っている。私も含めて表現者が共有している倫理観は、是枝の次の発言に集約できるだろう。
《「国は金を出すけど、口は出さない」のは西欧では常識なんだよね。政権の価値観に合致するものを文化に求めるのはおかしい。そもそも学問や芸術は国益のためにやるものではないけど、豊かな学問や多様な作品は巡り巡って結果として国益になる……なんて話を作り手が言わないといけないこと自体がおかしいことなんだよね。》
まさにおかしなことは現実に起きている。さらに言えば、是枝のように国内外で高い評価を受けている映画監督が声をあげても、それは広がらない。
国は口は出していないが、金も出さないことで態度を示すということは明らかに問題なのだが、本当の問題はこうした決定すら、時の政権への疑義にもつながらず、メディア業界の人々にしてあまたある問題の一つにすぎないという空気が流れていることにある。
右傾化しているから?
ここで、こんな問いを立ててみる。表現が制限されるーー百歩譲って、制限されかねないーー時代にあって、疑義の声が強まらないのはなぜなのか、と。
この問いを考えていくのにあたり、一つのデータを参照しよう。
田辺俊介編『日本人は右傾化したのか』(勁草書房、2019年)である。田辺らは2009年、2013年、2017年の3回、日本全国の20歳〜79歳の日本国籍保持者の男女を対象にした大規模な社会調査をした。
回収率もこの手の調査では比較的高く、現状においては信用に足る調査となっている。
若者は右傾化してるのではなく「権威主義化」している
私が注目したのは、この調査で確認された氷河期世代(1969年〜1989年の生まれ)、平成世代(1990年以降生まれ)で強まっている権威主義だ。田辺らの調査で明らかになったのは、明確なイデオロギーに基づくナショナリズムは、年長世代ほど高いスコアとなっている。
つまり、年長世代ほど保守的かつ右派的な傾向が強い。一方、氷河期世代以降で明確に強くなっているものがある。それが、権威があるものに従っておけばいいと考える権威主義だ。
彼らも指摘しているように、氷河期世代以降を特徴付けているのは「イデオロギー無き保守化」である。純化主義や愛国主義についての調査をみれば、氷河期世代は決して右傾化はしていない。
「イズム」のない「空気」とどう戦う?
自覚的に「保守」を選んでいるのではなく、何の「イズム」もなく、単に権威に従っているだけなのだ。政治意識は先行世代に比べて軽いのだが、厄介なのは、その「軽さ」にある。
表現をめぐる問題に引きつけていえば、過去の日本社会に果たして、表現の自由をめぐる「常識」があったといえるのか。おそらく、あったとしてもインテリ層だけだろう。
昔は通用した「常識」が通用しなくなったと嘆くのではなく、踏まえなければいけないのは、若い世代ほど権威に従っておけばいいという考えが広がっているという事実である。
田辺らの調査を踏まえて、先の問いに対する仮説を立てれば、社会のマジョリティーは表現規制につながりかねない問題であっても「時の政府が決定したのだから、声の大きな人たちが『問題である』と指摘しているのだから、別にいいのではないか」と考えているのではないか。
だからこそ、表現者が声をあげても、主張は無効化する。
イデオロギーがあれば論理的な批判や、事実に基づく議論がまだ可能ではある。だが、明確な主義も主張もなく、ただ長いものに巻かれていればいいという「軽い」考えが強まっている中にあってどのような方法で戦えばいいのか。
ひとつ確かなのは、「常識」をただ声高に唱えても無駄だということだ。
バズらないからといって諦めてはいけない
私にも答えは見えていないが、一つ言えるのは表現者もメディアも実績を積み重ねるより他ないということだ。
メディアの内側にいる経験に基づいて言えば、インターネット時代に「バズ」が重視されるようになって、もっとも軽くみられるようになったのは、積み上げること、継続することの価値だ。
継続が力ではなく、バズこそ力なりという考えが広まった結果、言論の力は軽くなった。いっときの波をどう捉えるかばかりに執着する人々が増えた結果、継続の価値は「無駄」と片付けられるものになった。だが、果たしてそれは正しかったのか。
インターネットというメディアの最大の長所は、ストックにこそあるのではないか。コンテンツを継続して発信し、積み上げ、それがやがてアーカイブになり、社会に残っていく。
いまバズらないからといって、あきらめることなく、いまバズらないからといって、無駄だと切り捨てることなく、少しずつでも表現の自由を適切に行使し続けること。「表現の自由」とは何かをこれまでの紋切り型の説明ではなく、権威主義が広まる社会であっても伝わる形で広めることーー。
人々に表現の自由に関する常識がないと嘆く前に、自らが価値を発信する側に回ることが求められているというのが、現段階での私の結論になる。
常識が常識として通用するような社会に変化させていくのは、やはり言論や表現の力でしかない。絶望するには、まだ早すぎる。