太平洋戦争が生み出した受験戦争 佐藤優さんの自伝が明かす「1970年代の日本」

元外交官で作家の佐藤優(さとう・まさる)さんが一冊の本を書いた。タイトルは「先生と私」。1960年に生まれた佐藤さんが1975年に浦和高校に入学するまでの少年時代を描いたノンフィクションだ。1月23日に幻冬舎から発売された。外交問題の専門家として知られる佐藤さんにとっては異色と思える本が、なぜ出版されるに至ったのか。彼は何をこの本で描こうとしているのか。インタビューで話を伺った。
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安藤健二

元外交官で作家の佐藤優(さとう・まさる)さんが一冊の本を書いた。タイトルは「先生と私」。1960年に生まれた佐藤さんが1975年に浦和高校に入学するまでの少年時代を描いたノンフィクションだ。1月23日に幻冬舎から発売された。

中国の南京に従軍したことがあるエンジニアの父親と、沖縄出身のキリスト教徒の母親の間に生まれた佐藤さんが高校受験をする中で、進学塾の講師らから様々な影響を受ける様子が生き生きとした筆致で描かれている。外交問題の専門家として知られる佐藤さんにとっては異色とも思える本が、なぜ出版されるに至ったのか。彼は何をこの本で描こうとしているのか。詳しい話を伺った。

—この本で少年期を振り返るようになった経緯は?

それは、こういうことなんですよ。私はまず、新潮社から『国家の罠』という本を書いた。それが一作限りで終わりになると思っていた。その2カ月後くらいに、作家の井上ひさしさんに鎌倉まで呼ばれたことがあったんですね。「あなたは職業作家になるから」と予言されたんです。不思議な予言で「段々と小説に近い方に行って、最後は戯曲に行くだろう。あなたの文を見れば分かる。会話体の使い方を見れば分かる」というんです。それで、編集者とのつきあい方とか、いろいろなことを教わったんです。

「私は書く力もないし」と彼に話したら、「そういうことじゃない。一つ書いたら、このところを知りたいという読者の要請が来る。だから第2作を必ず書かざるを得なくなる」というんです。それで、第2作で『自壊する帝国』という僕のソ連時代の本を書いた。そしたら「どういう学生時代を送ったのか」という読者の声があって、文藝春秋から『私のマルクス』というのを出した。すると今度は「そこに至るまでの軌跡。なんでロシアやチェコなどに関心を持ったか書いてくれ」という声がすごく来て、みんなからそのことを聞かれると。それだったら書いちゃえと。

それで15歳の夏休み、浦和高校の一年生のときに東欧とソ連に行ったときのことだけを書こうと思って書き始めたんです。当時まだ、外貨の持ち出し制限がある時代だったんです。しかも共産圏に行くことが非常に珍しかった。それをなぜ親がOKしたのか、と。そこに答えなきゃいけないので、じゃあ両親について1〜2章で簡単に触れようと思ったら説明しきれなくなって、結局、この量になってしまいました(笑)。

—「東欧旅行になぜ行けたのか?」を書こうとしたのがきっかけだったんですね。

そういう不思議なことを、なぜ親が許したのかと。これは読者全体でも共通すると思いますが、今いる自分自身というのは父親・母親がいないと生物学的に絶対生まれないわけですよね。しかも、遺伝子だけではない。父親と母親の価値観や人生観は、物の考え方や立ち振る舞いの部分で伝わっているんです。私も気がついたら53歳になっていたわけですが、私の子供ぐらいの世代に自分の父親達は、どういう時代を生きてきたのかと説明するような本にもなっています。

社会学者の古市憲寿さんが出している『希望難民ご一行様 ピースボートと「承認の共同体」幻想』(光文社新書)という本の中で、バックパッカーの「カニ族」の話が出てきます。私の『先生と私』の中でも出てきますが、なぜか大学生は北海道を目指すんです。北海道で襟裳岬や納沙布岬とか、なぜか先端に行くんですね。まだ海外に出にくかった時代だったんです。それで先端まで行く人達は、みんな髪の毛を長くしていて、それで髪の毛を切って就職の面接に行くという文化。あの頃はまだギリギリで集団就職という文化があった。あるいは、あの頃はユースホステルに我々の世代はすごく熱中して、みんなスタンプを集めていました。ああいう時代の雰囲気を出したかったんです。

—時代の雰囲気を表現したかったということ、それとご自身のパーナソナル・ヒストリーを記録したかったとどっちが比重が大きいですか?

その両方を描きたかったんです。逆に本来の私小説の伝統だと思うんです。島崎藤村の『破戒』から日本の私小説は始まったんですが、それで被差別部落の問題を正面から扱う社会性のある物だったんです。しかし、次に続いたのは田山花袋の『布団』だった。自分のプライベートなことを描いた。内面的なことや異性との関係で「自分を傷つけるようで傷つけない」という若干の露悪をするという物に変わっていった。ところが、本来の私小説に行くはずの自然主義、すなわちフローベールやモーパッサンは社会性を持っているんですよ。個人的なことについて語ってるんだけど、社会について語ってると。

私が最初に塾の課題で読んだ小説はモーパッサンの『首飾り』なんです。それだから原点のところを、私小説的なものを描きたいと思ったんです。私にとっての「私小説」という表現の実験なんです。

—では、ご自分の体験を通して、当時の日本社会を描くというのが狙いなんですね。

そうです。だから全く個人的なことではなくて、一行一行に社会的な話を描いています。だから団地で猫を飼うのがどんなに大変な話だったか。あるいは父親が3日に1回くらい泊まるような、いわゆるモーレツ社員のような時代の話だったとか。そういうことを入れ込んでいく。それから沖縄県久米島出身の母親が経験した沖縄戦であるとか、あるいは私の父親というのは生活保守主義ですね。自分の家族だけを守っていくことができればいいんだと。そういう夫婦での感覚の違いであるとか……。

教育ママとか言われた時代で、うちはそうでもなかったけど、なぜ僕らの世代の親達はあれだけ教育に熱心だったのか。それは自分達が教育を受けられなかったからなんです。現代の人からすると想像が及ばないところなんですが、マーケティング的なことを言うと、僕らより上の世代に向けた『三丁目の夕日』(西岸良平)はあるんだけど、僕らの世代を描いた作品ってないんですよ。

『なんとなく、クリスタル』(田中康夫)は世代的には近いんですが、時代の先を行ってるんですよ。『限りなく透明に近いブルー』(村上龍)は僕らより上なんです。我々の世代は空白なんです、その点で。1960年代前半に生まれた人にとっては、その世代を代表する文学がないんです。今、50代の前半あたりになります。

—この本の中では高校受験の話。中でも進学塾の講師の方から様々な影響を受ける姿が描かれていますよね

塾というのは当時においてはすごく新しい機関であるのと同時に、「行っていることを隠さないといけない」存在だったんです。今となっては考えられないことなんですが。僕らの頃は「塾に行ってることは学校では言わない」ということになってたんです。勉強は学校で完結しないといけない。学校の勉強をおろそかにしているってニュアンスが出てしまうからです。

ところが、伏線的に同じことを習うっていうので塾に行き出すと、その教え方のうまさが全然違うんです。ただ、僕の10年後の人は同じことを経験してないと思う。僕の時期は非常に特殊だったんです。全共闘運動の余波がちょうど来た頃だったから、本来だったら一部上場企業に就職する、法曹関係者や、官僚、大学の研究者になるはずだった人間が「別の選択肢」として生きていく場合に、学習塾が一番てっとり早かったんですね。知恵を切り売りすると。特に東京大学や早稲田大学出身者の比率が高かったと。

—塾の講師に全共闘運動に関わっていた人が多かったわけですね

全共闘運動の比較的上の世代です。ゲバ棒を振り回していて、完全に勉強を捨てた世代ではなくて、専門課程に入ってから全共闘の波が来た。あるいは大学院にいる頃に来た。そういう流れだったんです。その辺の時代の雰囲気も伝わるかなぁと思った。もちろん書いているときは自分でも気づかないんだけど、あとで振り返るとそういう風になっている。

—佐藤さんの世代の特徴には何があると思いますか?

僕の世代は作家などよりも、官僚であるとか学者であるとか。資質のある人が、作家よりもそっちの方向に行ってしまった気がする。僕も高校時代に文芸部にいたから、いっぱしの小説を書いていた連中が今は何をやっているかというと、信用金庫の理事とか金融損保関係が多いんです。

—全共闘世代の講師がいる塾で教わったけど、生徒はそういう固い職業に就いたわけですね

ある意味で非常に保守的な世代なんです。知的冒険で先鞭をつけるのは同世代で浅田彰さんがいるんだけど、浅田彰さんの影響を受けるのは、僕らより若い世代ですから。ある意味で、一番つまらない世代なんですよ。

—なぜそのような世代になったとお考えですか?

やっぱり親達が戦争を体験した世代だから、極度の安定性を子供に求めたということはあると思いますね。子供たちに同じような思いはさせたくなかった。だから僕らより上の全共闘世代になると、親もちょっと上なんだよね。親達も戦争は経験しているんだけど、全共闘世代、いわゆる団塊の世代が生まれたのは終戦の直後くらいなんです。そうすると、親は太平洋戦争当時に年齢が高くて、実際には戦地に行ってない人もいる。あるいは戦争で将校クラスだったりする。

私の父親くらいの世代だと、ひたすら上官に殴られる二等兵だった。渡辺恒雄さんは保守的だけど軍隊が嫌いじゃないですか。それは負け戦の中で、自分の殴られた体験を背景にしてるからなんです。僕らの父親くらい世代は、勝ち戦を体験していないんですよ。そして戦後の焼け野原の中で食べるのに非常に困ったという経験もある。そして満足な勉強もできなかった。

ところが、全共闘世代の父親たちは戦前のシステムの中で勉強は出来ているんですよ。だからちょっとそこは世代の差があるんです。

—なるほど。教育を受けられなかった世代だったと?

僕らの父親・母親の世代は、自分たちが戦時中という非常に困難な時代を若いときに過ごしたから、逆に子供は安定させようという志向が強かったんです。すごく僕らの世代は生活保守的だと思います。ホリエモン(元ライブドア社長の堀江貴文氏)のように企業の時価総額を最大にするということにあまり価値を見いださず、その代わり出世には関心がある。

僕らの世代の特徴は、(状況に)投げ出されると競争をしてしまう。「競争は嫌いだ」と思っていても、常に競争してしまう。そういう資質は強い。受験戦争もそうだけど、若いときから常に競争にさらされてきたことが、その後の人生にも強く影響を与えていますね。

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佐藤さんは埼玉県大宮市出身。実は筆者も隣接する浦和市出身で、現在は両市とも合併してさいたま市になっている。佐藤さんの通っていた「山田義塾」は私も入塾テストを受けた覚えがある。

私の場合は高校受験ではなく中学受験して、都内の中高一貫校に通うことになった。1976年生まれの私にとっても受験戦争は青春を色濃く覆っていた。その受験戦争がなぜ生まれたのか、その起源について自分の中で特に疑問に感じたことすらなかったが、今回のインタビューで「戦争で満足に教育を受けられなかった世代が、自分の子供達の教育に力を注いだ」という佐藤さんの指摘には目が覚めるような思いだった。

もちろん「先生と私」は受験戦争だけを描いたものではなく、1970年代に少年時代を過ごした人間の「時代の記録」としてさまざまな観点から読むことが可能だ。すでに『十五の夏』というタイトルでの続刊が決定しており、「我々の世代は空白」と評した佐藤さんが、どのようにその空白を自伝で埋めていくのか期待したい。

(文責:ハフィントンポスト日本版編集部)