桜宮高校体罰自殺事件に判決。被告の深い反省が逆に体罰問題の解決を難しくする?
大阪市立桜宮高校のバスケットボール部のキャプテンだった男子生徒に暴行を加えたとして、傷害と暴行の罪に問われていた元教諭の小村基被告(懲戒免職)に対し、大阪地方裁判所は9月26日、懲役1年、執行猶予3年の判決を言い渡した。同校の体罰による自殺問題は、刑事事件としてはこれでひとつの区切りを迎えたことになる。
小村被告は2012年12月、満足できるプレーができなかったとして、試合の休憩時間や終了後に男子生徒の顔などを平手で十数回殴打し、全治3週間の傷を負わせた。男子生徒は体罰を苦にして自殺した。
大阪地裁の小野寺健太裁判官は 「満足できるプレーをしなかった生徒に暴行したことは理不尽と言うほかない」としたうえで、すでに懲戒免職になっていることなどを理由に執行猶予付きの判決を言い渡した。
被告は深く反省しているといわれ、起訴内容をすべて認めたうえで「一生背負いながら反省したい」と謝罪している。また裁判の最後には生徒の家族や傍聴席に向かって深々と頭を下げた。
現在の刑法では暴行と傷害で裁く以外に方法はなく、犯罪の内容や本人の反省度合いなどからみれば妥当な判決ということになるだろう。ただ体罰問題という視点で考えた場合、今回の裁判によって、根本的な問題解決にはならない可能性が高い。
それは、逆説的な話だが、小村被告が自身の行為について、法廷対策としてではなく、本心から深く反省している可能性が高いからである。
もちろん被告は罪を犯したわけだから反省してもらわないと困る。だが裁判になった程度で、自分の行為をすべて全否定し深く反省できるということは、生徒に対する暴行という重大な行為を、明確なポリシーを持つことなく、その場の雰囲気だけで実行してきた可能性が高いことを意味している。実際、弁護側は最終弁論で「体罰は精神的、技術的に向上してほしいという気持ちの一環だった」として、明確なポリシーがなかったことを示唆する説明を行っている。
厳しいようだが、小村被告は自殺という相手のショッキングな行為と、世間で騒ぎになってしまった現実に驚愕し反省しただけの可能性が高い。体罰は決して許容されるものではないが、明確なポリシーと目的があっての行為であれば、なぜそれがいけないのか、どうすればよいのかについて、体罰論者と反対論者の間で、ロジカルな議論ができる。だがポリシーもなく何となく続けてしまったというのでは、同じような事件がいつ起きてもおかしくない。
かつて長野県知事に就任した田中康夫氏の名刺を本人の目の前で破り捨て大問題となった公務員がいた。その様子がテレビに映され、県民からの猛烈な抗議の電話が県庁に殺到した。本人は青ざめ、直ちに知事に謝罪し、知事も特に問題にはしなかった。
県民が選挙で選んだ知事を一介の公務員が公衆の面前で侮辱するなど民主主義の原理原則としてあってはならない行為だが、本人はその本質的な意味を理解して反省したのではないだろう。猛烈な抗議の電話が殺到した現実に驚愕しただけの可能性が高い。
日本社会には人間関係は存在するが、「論理的な対話」は存在しないといわれる。物事の決定は「空気」に左右され「何となく」や「気持ち」という理由で、犯罪まで行われる。
今後、小村被告が、なぜそのような行為を行ったのか、生徒が自殺した際や社会問題になった際に具体的どう感じたのか、ありのままに話をする機会があれば、「論理的な対話」が成立する可能性がある。本当に被告が反省しているのならば、こうした形での償いをすることによって、体罰問題解決の糸口を社会に対して提供できるはずである。
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