PRESENTED BY 佐賀県

日本酒市場に革命を。伝統+革新+αで造る佐賀県産の日本酒が国内外で人気な理由

日本酒の輸出量は過去10年で約2.7倍になった。今や日本酒は新たな層からも熱い視線が注がれる。国内でも沸く日本酒ブームの火付け役たちに話を伺うと、意外なことが見えてきた。
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昨今、日本酒のイメージが変わってきた。かつては晩酌の友として、年配の男性が飲んでいる絵が容易に思い浮かんだものだ。しかし、最近の「日本酒ブーム」というと、女性や海外マーケットが主流だ。たとえば国税庁によると、過去10年で日本酒の輸出額は2.7倍にもなった。日本酒は今や「オヤジ」から愛されるだけではなく、新しい層から熱い視線が注がれているのだ。

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日本酒は全国各地で造られているが、その中でも佐賀県が注目を集めている。もともと佐賀県は良質な米や水に恵まれ、江戸時代の藩主が日本酒づくりを奨励したことから、清酒産業が盛んだったという。県内消費量はとても多く、都道府県では初めて「佐賀県日本酒で乾杯を推進する条例」を制定するほどだ。ただ、九州といえば焼酎のイメージが強いこともあり、これまでは県外に佐賀県産の日本酒が出まわることは多くなかったそうだ。

ところが、そんな佐賀の地酒がここ数年で海外でも高く評価されるようになってきた。県内の鹿島地区で数年前から行われている「鹿島酒蔵ツーリズム®」というイベントは、昨年は2日間で延べ4万人が訪れた。1つの産業が地域を盛り上げるまでに至っているのだ。なぜここまでの盛況を生み出すことができたのだろうか?

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「鹿島酒蔵ツーリズム®」の様子。今年(2015年)は3月28〜29日に開催される(詳細)。

その理由を探るべく、地酒ブームをけん引する酒蔵の若手代表たちに話を伺ってきた。

天吹酒造:日本酒のイメージを変えたい。「女性に人気」を獲得するまで

「今年の蔵開きには、とても多くの方がいらしてくださいました。7割が女性だったのは、正直驚きました」と語るのは、天吹酒造の木下壮太郎さん(42)だ。働く女子たちから根強い支持を得る雑誌「steady.」とのコラボレーションを行うなど、昨今の“新しい日本酒ブーム”の火付け役となった酒蔵が天吹酒造だ。

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天吹酒造十一代目蔵元 木下壮太郎さん。登録有形文化財にも指定されている酒蔵は紅白歌合戦(2010年)の際に嵐の大野智さんが訪れたことで話題になった。

「僕が東京農大(東京農業大学)から地元に帰ってきたのは、90年代の終わりごろ。当時、日本酒は『悪酔いする』だとか『酒臭い』というイメージが強い時期でした。なんとかしてそのイメージを払拭したいと思っていた頃に出会ったのが、花から酵母をとる手法です。これは東京農大で研究していたもので、試しに飲ませてもらった時にビビッときたんです。未体験の味わいだった。エレガントで優雅。花びらのエッセンスと米本来の甘みが感じられました。花からとった天然酵母を使った日本酒……今までにない日本酒の可能性を感じたんです」

一般的に、女性は男性と比べると飲酒量は少ないうえ、日本酒よりもカクテルやリキュールベースの甘いものを好むイメージがある。一体どのようにして昨今の「女子人気」を獲得したのだろうか?

「どの分野にも言えることかもしれませんが、男性は日本酒を“アタマ”で飲む方が多いです。情報と共に味わうというか。一方女性は“感性”で楽しむ方が多いです。なので、僕たちは自分たちの日本酒が“存在する空間”を意識しましたね。見た目も、香りも美しく、会話が弾むような。だからこそプロダクトデザインにもこだわりました。女性ユーザーの意見を参考に、ボトルの色もグリーンからブルーへ。フォントのテイストも変えました。僕は、日本酒をもっとフランクに楽しんでもらいたいと思ったんですよね」

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「伝統的な酵母を使っていないため『奇をてらった品か』と色眼鏡で見られてしまうことも少なくありませんでした。そのため酒販店での取り扱いには時間を要しましたね。ただ、一般ユーザーからの評価がとても高かったんです。酒販店にいらした方から『天吹ないの?』と声がかかることが多く、クチコミで取り扱い店舗が広がっていきました。エンドユーザーに支えられて、今の『天吹』があるんだと思います」

現在では、海外でも人気のある「天吹」だが、木下さんは現地で商談するだけでなく、自らの足で飲食店に出向いて直接飲んでもらうこともある。

「国外であろうとも、直接『天吹』の良さを味わってもらえば、自然と評判が生まれて販路を持つディストリビューターの目にとまるようになる。やっぱり最終的に手にする方を意識することが一番重要なんだと思います」

富久千代酒造:ローカルを極めた先に広がったグローバル

「音楽で言うとインディーズのアーティストみたいな感じですね」

自身の手がける「鍋島」をそう語るのは富久千代酒造の飯盛直喜さん(52)だ。「鍋島」は、ロンドンで開催される国際的なワイン・コンペティション、IWC(インターナショナル・ワイン・チャレンジ)のSAKE部門で2011年にチャンピオン(最優秀賞)を受賞した銘柄だ。そのため国内はもちろん海外でも評判が高いが、飯盛さんが語るのは大量消費ではなく、徹底したローカリゼーションだ。

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富久千代酒造三代目蔵元兼杜氏 飯盛直喜さん

「もともと僕は酒蔵を継ごうとは思っておらず、大学進学と同時に上京し、一般企業へ就職しました。ただ、父が交通事故に遭ったのをきっかけに、地元への想いがぐっと強くなって酒造りをはじめました」

飯盛さんが帰郷したのは87年。徐々に酒類免許が緩和されていき、スーパーやディスカウントストアで手軽に地酒が買えるようになった時だ。同時に各酒蔵が東京を目指し始めた時期でもあったという。

「僕は市場の大きな流れに乗るのではなく、地元発の、地元の方に愛されるような酒を作りたいと思ったんです。『地元のお酒専門店さん』と、そこに来る人と共に生きていこうと。当時は淡麗辛口ブームだったので、マーケターの観点からするとその時流に乗ったほうがある意味で正しかったかもしれません。でも、佐賀は醤油も甘口なくらい、甘い食べ物が好き。この土地のアイデンティティを持った日本酒をどうしても造りたかった。これは佐賀にある酒蔵はみんな同じだと思います」

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富久千代酒造のラインナップ(一部)

「僕は10年以上の歳月をかけ、諦めずに周囲の支えを借りながら、『鍋島』を完成させました。名前は一般公募で決め、肥前の藩主だった『鍋島家』から頂戴することになりました。同家の財産を預かる財団法人鍋島報效会(ほうこうかい)からも正式に許諾をいただくことで、この銘柄を誕生させることができたんです」

飯盛さんは、大学等で専門的に酒造りを学び実家を継ぐスタイルが多い中で、ある種アウトサイダー的存在とも言える。そのため地域に住む人々の協力が大きかったという。

「実は自分が酒蔵を継ぐときに、父が造っていた銘柄の販売を減らしていきました。僕たちは数人で切り盛りする小さな酒蔵なので、銘柄の継承と刷新という2つのことは同時にできない。地元から新しいものを生み出したいという気持ちが強く、そのために若手小売店さんと一緒に考え、共に歩んでいく意思表示をしたかった。売り方の違う量販店の方と、地元の酒専門店の両方と適当にお付き合いすることはできませんからね。今はこの『鍋島』という1銘柄を造っていますが、後悔はしていません」

さらに、地元への想いを重ねる。

「富久千代酒造は地域に育ててもらっているようなものです。だからこそ佐賀を元気にするような銘柄を絶対に造りたかった。なので、グローバルなIWCを受賞した時は逆にびっくりしたくらいです(笑)。でも、『鍋島』をきっかけに地元が注目されるのを目の当たりすると、報われたような気持ちになりますね。親孝行……できているのかな、と」

天山酒造:ニューヨークに降り立った時衝撃を感じた

天山酒造の社長を務める七田謙介さんは現在44歳。東京で試飲会を開催したり、レゲエクラブで日本酒を提供したりするなど積極的に新規ファンを掴むアプローチを展開している。特に早い段階から海外市場を見据え、アメリカや台湾などでも人気を博している。

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天山酒造六代目蔵元、七田謙介さん

もともと東京農業大学や愛媛の酒造会社で酒造りについて学び、帰郷した時に「日本酒=オヤジ臭い」というイメージを払拭したいと改革に取り組んだという。佐賀独自の日本酒を、どうすればもっと広げられるのだろうか? そこで、長年培ってきたアイデンティティを保ちながら、アプローチ方法を変えることにした。

ちょうど帰郷した時に日本酒輸出協会が発足し、複数の酒蔵で海外に向けてプロモーションを始めることになったという。初めてアメリカの地に降り立った時、ある場面に出くわす。

「生まれて初めて日本国外を飛び出した先がニューヨークでしたね。『デシベル』と呼ばれていた日本酒バーがあり、そこに行きました。壁は、コンクリートの打ちっぱなしでハードロックがかかっているような店内。そんなモダンな雰囲気の中、あるアメリカ人のお客さんが、『天山』を美味しそうに飲んでいたんです。その瞬間鳥肌が立ちました。海を越えて自分の造ったものが楽しんでもらえているということに。今でも鮮明に覚えています」

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東京で開催された試飲会。香りを楽しむためワイングラスで。

「僕は『和醸良酒』というコンセプトを大切にしているのですが、まさにその可能性を感じました。酒造りには和(チームワークの良さ)が欠かせないし、良い酒は、人を、雰囲気を、空気をも和ませる力があるという意味です。国境を越えて、多くの人に日本酒の素晴らしさを知ってもらいたいと思うようになりましたね。『日本で売れてないから海外に来たんでしょう』と言われたこともありました。もちろん、売り上げは商いをする上で大事なことですが、それ以上に純粋な気持ちとして『佐賀の日本酒を、海外の人にもより多く楽しんでいただきたい』と思いました。それが海外展開に力を入れるモチベーションになっています」

いち早く県外展開を始めた七田さんは、同世代の酒蔵の主である木下さんや飯盛さんとも交流が深い。80~90年代に帰郷した酒蔵の若手たちが協力し合い、佐賀県の地酒を広げる活動を行っているという。

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2013年に開催された香港試飲商談会。複数の酒蔵で海外の地に渡った。

そのきっかけとなったのが「和飲(わいん)会」だ。これは、女性をはじめ新しい層に向けた試飲イベントで、「日本酒のイメージをなんとかして変えたい」と企画されたものだという。そこで、イタリア料理と日本酒のマリアージュを提案した。この「和飲会」を皮切りに、各酒蔵が協力しあい佐賀の日本酒を広げていったそうだ。酒蔵同士の横のつながりが機動力となったのだ。

新時代に突入することで、ライバルが仲間になった

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IWCの様子(2010年)。1万本以上のボトルがロンドンに集まるという。

各酒蔵は、言わずもがな競合他社だ。しかし、今回の取材を通して見えてきたことは酒蔵同士の結束だった。天吹酒造の木下さん、富久千代酒造の飯盛さん、そして天山酒造の七田さん3人が口をそろえて「佐賀の酒蔵はみんな仲がいい」と話していたのだ。

佐賀県は面積も狭く、地形も起伏が比較的少ない。そのため集合の合図があがれば1時間ほどで集まることができ、各々協力することが可能だという。「和飲会」もそのような親交のもと開催される運びとなった。木下さんはこう語る。

「昔は、各酒蔵がライバルだったかもしれません。県内シェアを争っていましたらね。でも、たとえば東京に出ると県全体が見えてくる。そうすると『全国の中で佐賀県の日本酒を選んでもらいたい』と思うようになって、一気に仲間になる。海外に出ると『世界中の醸造酒の中で日本酒を選んでもらいたい』と、さらに仲間が増えていくんです。今のライバルは……ワインでしょうか(笑)」

何か新しい領域に踏み出すのはとても勇気がいることだ。だからこそ地域に仲間がいることがとても大きく作用する。生まれ育った場所への愛着を持ち、互いの手を取り合って何かを作り出すとき、そこには活気が生まれるだろう。行政のバックップはもちろん、自発的に生まれた地域コミュニティーから文化が発信されることを地方創生と言うのかもしれない。佐賀県の日本酒が元気な理由はきっとここにある。

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