ロヒンギャ男性「ミャンマーの現状、子供に言えない」 館林の難民家族を追う【ルポ】

ミャンマー西部ラカイン州で治安部隊によるイスラム系少数民族ロヒンギャへの人権侵害疑惑が深刻化している。群馬県館林市のロヒンギャ家族を再び訪れた。
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Wataru Nakano

ミャンマー西部ラカイン州で治安部隊によるイスラム系少数民族ロヒンギャへの人権侵害疑惑が深刻化し、国際社会からの批判が高まっている。仏教徒が大半の同国で長年「不法移民」として扱われ、国籍も与えられないなど迫害を受けてきたそのロヒンギャの人々は、日本にもいる。

ロヒンギャの多くが住む群馬県館林市。2015年7月に筆者が訪れたアブル・カラムさん(53)宅に1月下旬、約1年半ぶりに再び足を運んだ。

前回の記事のあらまし(2015年8月11日掲載):カラムさんはバングラデシュ国境に近いラカイン州北部の出身。首都(当時)ヤンゴンの大学生だった1988年、アウンサンスーチー氏が率いる民主化デモに参加。軍政が民主化運動を弾圧したことを受けて隣国タイに逃れ、2000年に来日して難民申請をしたが入管施設に収容されて15カ月間を過ごした。2007年に難民に認定された。難民認定を受けたため在留資格と法令の範囲内での権利と公共サービスの利用が認められており、現在の暮らしは一応、安定している。

日本に暮らすロヒンギャは約230人いるといい、館林にはその9割の約200人が住んでいる。在日ロヒンギャの人たちが集まる協会の初代代表がこの地に住んでいたことから集まったとされる。200人の半数は工場に勤めており、他には中古車販売業を営んで車を東南アジアなどに売っている人が多いという。中には難民認定されず、仕事や医療などの面で苦境にある人々も少なくない。

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話をするアブル・カラムさん

■「父にもう一度会いたかった」

「最後にもう一回会いたかった。残念です」。カラムさんは肩を落とした。故郷ラカインに残した90歳の父が1月下旬に老いて亡くなった。カラムさんがミャンマーを逃れてから四半世紀以上の時が過ぎたが、母国の大地を再び踏む日は訪れていない。

館林の郊外にある公営住宅に住む。家族は、入管施設に収容される前にバンコクで出会ったタイ人の妻ブンヌアン・マニタさん(44)と長女アティカさん(9)、それに7歳、6歳、5歳の3人の息子がいる。上の2人の子供は小学校、下の2人の子供は幼稚園で日本語を使い、子供と両親の会話はタイ語や日本語が混在する。カラムさん以外の家族はミャンマーの言葉を話すことができない。

イスラム教徒のマニタさんは、いつも肌の露出を最小限に抑えた衣服に身を包んでいる。アティカさんも頭を覆う布をかぶり、夏でも長袖、長ズボン姿だ。学校給食はイスラム教徒の戒律に沿う「ハラル」でないためアティカさんと長男は給食を口にせず、弁当を持参している。ただし、子供たちが好きな食べ物は、塩ジャケやワカメ、コロッケといった日本の食材や日本料理だという。

アティカさんはほぼ毎日、放課後に自宅近くのモスク(イスラム教礼拝所)に通い、イスラム教の聖典コーランを読むためアラビア語を学んでいる。アティカさんは「先生は厳しい」と話したが、練習の甲斐もあり、コーランを読み上げる発表会では上手に読んで先生たちに褒められたという。カラムさんが、スマホで撮影した発表会の動画を自慢げに見せてくれた。

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カラムさんが、娘のアティカさんがコーランを読み上げる姿を捉えた動画をスマホで見せてくれた

「この子は学校でも成績がいいです」。母のマニタさんはそう言って、アティカさん最近の小学校でのテストの結果表を見せてくれた。ほとんどの科目が平均点を大きく超え、特に国語(日本語)は高得点だった。一方、父のカラムさんは「家で宿題を教えることが難しい」と苦笑い。日本語については、日本人と毎日接している子供たちの方が両親よりも上手だ。

カラムさんは2016年6月、自動車関連工場での塗装の仕事を辞めた。リサイクル業で独立するためだ。現在、「準備を進めているところ」というが、新しい仕事はまだ本格的には始まっていない。

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アウンサンスーチー氏(2016年11月)

■ミャンマーではロヒンギャが弾圧受け、多数の死者

ラカインでは、2012年に仏教系住民とロヒンギャとの衝突が激化して多数の死者が出た。その後、軍や警察がロヒンギャの移動の自由を制限するなど締め付けを強化しており、襲撃に怯えたり環境が劣悪な難民キャンプで生活したりしている人たちも多い。

そして2016年10月には、ロヒンギャとみられる武装集団が警察施設を襲撃する事件が発生、これを受けて治安部隊がラカインで掃討作戦を実施した。無差別射撃や拷問、暴行、住宅への放火などの証言も数多く、国際機関や国際メディアはロヒンギャへの「弾圧」とも指摘、ロヒンギャ数百人が死亡した公算が大きいとみられている

カラムさんの母親や親類は故郷のラカインに残っている。インターネット電話などで毎日のように知り合いと連絡を取っているが、行方不明になっている知人もいて、カラムさんは心を痛めている。

ミャンマーは2011年から民政化が進み、多数派のビルマ族の難民では母国に帰る人たちも増えている。しかし国籍のないロヒンギャの人たちは、帰国の見通しが立っていない人がほとんどだ。

「日本に来ているロヒンギャはラッキー。日本で生活し、母国のことを忘れてしまっている」。カラムさんの家を訪れていたロヒンギャ難民のゾーミントゥさん(44)はそう語った。かつて館林に住み、「在日ビルマロヒンギャ人協会」の会長も務めていたが、現在は埼玉県川越市でリサイクル業を経営している。

「僕たちも同じ人間なのに、信じられないことが起こっています。ミャンマーやラカインの悲惨な現状を子供たちに聞かれても答えたくない」。カラムさんはそう話し、表情を曇らせた。

難航するロヒンギャ問題。ミャンマーでは政府が少数民族との和平問題を抱えているが、現政権の事実上トップで国家顧問兼外相であるアウンサンスーチー氏は多数派のビルマ族で、ロヒンギャ問題については積極的な発言は控えている。この姿勢に、ロヒンギャや国際社会からは批判の声も上がっている。

しかし、カラムさんの思いは少し異なる。今でも国軍が絶大な政治権限を保持しているからだといい、「僕は学生のときにアウンサンスーチーについていった。アウンサンスーチーがやれることは限度があって難しいと思っています」と話した。「でも、アウンサンスーチーには期待をしています。国際社会にもっと訴えてほしい」と力を込めた。

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