世界で一番幸福なアスリートへ:吉田沙保里が負けた

不敗の神話を持つ者の不幸は、「神話の終わりをいつにするか」という困難な課題に、安易には立ち向かえないことだ。

吉田沙保里が負けた。

3分20秒にバック・ポジションを取られたシーンに言い訳はできない。

でも、ちゃんと負けた。

そして「たくさんの人に応援してもらったのに・・・ゴメンなさい・・・取り返しがつかない」と泣いた。

勝ったヘレン・マルーリスもマット上で泣いていた。彼女は、吉田の姿を観てレスリングを始め、吉田を仰ぎ見上げてここまできた。そして、その吉田に勝った。

万感胸に迫る涙だった。

不敗の神話を持つ者の不幸は、「神話の終わりをいつにするか」という困難な課題に、安易には立ち向かえないことだ。

いたずらに老醜をさらし、晩節を汚すこともある。

ある日突然啓示を受けたように、すっと消え去る者もいる。

しかし吉田は、「自分に憧れ、自分を目標にし、自分を倒すことだけを考えてきた若者」に敗れ、何かを終わらせることができたのである。

無敵のレスラーが、そんな素晴らしい者に敗れて五輪を終えた。

自分が種を蒔いた結果を全身で受け止めて、一つの仕事を終えた。

勝ち続け、神話を無謬なるものとした者は、後に続く人を育てることがなかなか困難である。なぜならば本人には「勝てない理由がわからない」からだ。

しかし、神様は吉田に最後にとてつもない祝福をした。

それは「負けて、ちゃんと負けて、負けた者しか学べない何かを、これからも若者に伝えよ」というメッセージである。

つまり吉田は、普遍なる存在に「お前の仕事は終わらない」と言われたのだ。

何という幸福なアスリートだろう。

そして、何と過酷な宿題が与えられたのだろう。

「日本のキャプテンなのに優勝できなかった」などというツマラナイ事実を嘆くことはない。

吉田は、本当の意味で、今日「選ばれし者」となったのだから。