「陸前高田」で4度目の奇跡「名物ジャズ喫茶主」の夢と希望と笑顔(下)--寺島英弥

新しい年に、希望がつながれていく――。

店の「再開」でなく「新装開店」として冨山勝敏さん(77)の3代目「h.IMAGINE」がオープンしたのは、震災からちょうど1年後の翌2012年3月11日のことだった。場所は、最初の店があった大船渡市の街中だ。

全国から寄贈されたレコード

長年の常連客だったブティックのオーナー夫妻が、「身近にも津波の犠牲者がいる。地元の人が心を癒やし、楽しむ場を開きたい。あなたのジャズ喫茶こそふさわしい」と、店の一角を提供してくれた。

分厚い木製のカウンター、風合いのあるグランドピアノ、ジャズを聴くのに最適と言われる『JBL』の大きなスピーカー、そして三方の壁にぎっしりと並ぶ綺羅星のような名盤。そのピアノは、地元の大船渡小学校で長年使われていたが、被災後、引き取って修理をした楽器店から贈られたものだ。そして、レコードやCDは、冨山さんに全国から寄せられた激励の品々だった。

最初の取材の後、『河北新報』の「ふんばる」という連載で、冨山さんの「東京にはなかった人の情が何よりの財産になった。しばらく、みんな苦労の日々が続く。心を癒やしに集える場をつくるのが、次の仕事だ」という言葉を伝えた。

すると、被災地発の記事が全国の地方紙に配信され、読者たちから「つらい状況だからこそ楽しみが必要だ。役立てて」「また元気に立ち上がってほしい」「陸前高田に届けてもらえたら」と、レコードやステレオの寄贈の申し出が冨山さんや筆者に続々と届いた。新「h.IMAGINE」の開店日に流れた1曲目は、アメリカのジャズ歌手、ヘレン・メリルの名曲『You'd be so nice to come home to』(帰ってきてくれたら、うれしいわ)。「この店を、皆が帰れる場にしたい」というマスターの願いがこもっていた。

「2代目」跡地に建てたバンガロー

だが、新「h.IMAGINE」になじみの客が戻ってきても、冨山さんの気持ちは晴れなかったそうだ。隣の陸前高田では、膨大ながれきの山が撤去された後も、むき出しの土色の大地が広がっていた。避難先に離散した住民たちが戻ってくる未来図は見えないまま。冨山さんが、流された店の跡地を訪れるたびに目にしたのが、遠来のボランティアたちだ。吹きさらしの更地に車を止め、テントを張って頑張る姿だった。そこで、「陸前高田にボランティアに来る人、被災地を知る経験をしたい人、店の支援をしてくれた人が、いつでも泊まれるようなバンガロー村づくりはどうか」というアイディアが浮かんだ。

冨山さんは「ひらめき」をすぐ、形にする人だ。被災地の風景を一望できる店の跡地に、虹色の宿を意味する「レインボーサライ」という7色の施設を建てようとイメージし、仮設住宅の居室で自らスケッチや図面を作った。そのアイデアは内閣府の募った「復興支援型地域社会雇用創造事業」に採用され、補助金と自己資金で実現できる運びになった。

オープンしたのは、震災からちょうど3年が経った2014年3月11日。屋根がピンク、オレンジ、緑、青などに塗り分けられたバンガローが、1泊2500円で貸し出された。冨山さんは、ホテルの経験も生かした運営に専念しようと決意し、両立が難しくなった大船渡市のジャズ喫茶を店じまい。以後の9カ月で、約500人の来訪者が泊まる場所に育て上げた。

区画整理工事の区域に......

ところが、翌2015年10月末、レインボーサライは閉鎖となった。バンガローが並ぶ店の跡地が、「海抜12.5メートル」を目標に地盤をかさ上げする区画整理工事の区域に含まれ、撤去せざるを得なくなったのだ。もともと海抜10メートルの高台だったが、津波を防御するには足りないという市の判断で、「工事区域に入る場合には施設を撤去する、という約束が最初から市との間にあった」と冨山さん。跡地は、造成後に新市街地の商業地区の一角になることが決まった。

ただ、造成完了の時期はその時点で2016~2018年度とされ、見通しがつかず、代わりに割り当てられる仮の移転先(仮換地先)も分からなかった。「待たされることに疲れ、再開を希望していた商工会の事業者も、当初の約300人から120人ほどに減った」と言い、諦めも広がった。それでも冨山さんは、「私は待つ。『h.IMAGINE』を再建する」と語った。

「お客さんや街がどうなるかではなく、自分がどう生きたいかを大事にしたい。ここが被災地になったからと言って、離れようなんて考えたことはなかった。何度目の挑戦だろうと、やってみようじゃないか」

それから間もなくだ。うなりを上げる重機群が、幻の店の跡地を深い土の下に埋め去った。

出番を待っているレコードの箱

それから3年が経った2018年11月、筆者は陸前高田に開店した大型商業施設「アバッセたかた」で冨山さんと会った。

真っ赤な実をつけたリンゴの木が連なる、山あいの米崎(よねさき)地区。津波による被災を免れた農村部に、プレハブの仮設住宅がある。冨山さんは以前、規模の大きな地元高校の仮設住宅で暮らしていたが、入居者が新設の公営住宅などへ引っ越したり、市外へ転出したりして減り、市の集約化方針により2018年3月末で閉鎖、解体された。やむなく市内に残された今の仮設住宅に移ってきたが、40戸の部屋の大半が空き家になっている。

「1人住まいの気楽な身は、どこにいようと天国だよ」と笑った。居室には金色のテナーサックスと、赤鉛筆で印の付いた譜面類。「震災の後にサックスを習い始めたんだ。なかなかうまくならないが、市民吹奏楽団に誘われて、コンサートにも何回か出ているよ」

ステレオのコンボが一面の壁を占め、日本を代表する三菱電機の大スピーカー『ダイヤトーン』から心地よいジャズが流れている。別の壁を埋めるのは、出番を待っているかのように何段も重なったレコードの箱。

「全国から寄せられたレコードのうち、歌謡曲やムードミュージックなどは近隣の高齢者の施設や集会所に寄付させてもらった。ここにある1500枚は、どれも素晴らしいジャズばかり。大船渡の店で使っていたピアノやJBLのスピーカーは、大事に預かってもらっているよ」

予期せぬ建築資材の高騰

冨山さんは自慢のコーヒーを入れてくれた後、棚から資料の束を出してきた。広げたのは、4代目「h.IMAGINE」の設計図だった。

木造2 階建てで、約102 平方メートルある1 階にはカウンター席が6つ、テーブル席が12あり、ピアノが置かれる。ピアノの上は吹き抜けになり、2階にもテーブル席が10ある。これまでと同じコーヒー、紅茶とパスタ、ピラフ、ケーキのシンプルなメニューで、夜はお酒も楽しんでもらう。

「あの津波の日以来、ずっと待たされてきた夢だよ」。そう語ったが、再び夢を遠のかせる現実の話が続いた。陸前高田の新しい商業地区の造成が終わり、レインボーサライの敷地の移転先(換地先)がようやく引き渡されたが、資金不足を招く別の問題が起きたという。

 冨山さんは3年前、国が被災地の中小企業のため施設再建費を支援する「グループ化補助金」を地元の仲間と共に申請し、1000万円余りの交付が決まっていた。自己資金と併せて1500万円の予算を組んでいたのだが、この秋、建築業者と着工の打ち合わせをした際、「この3年の間に建築資材が高騰し、こんな金額では請け負えない」と断られたのだ。不足額は約500万円に上る。

復興土地区画整理事業が長引く間に、しびれを切らした住民が流出しただけでなく、この地での再起を選んだ人々の側にも新たな難題が生まれていた。

クラウドファンディングで「4代目」

冨山さんと新しい商業地区にある移転先を見に行った。うれしい出来事もあった。「換地された土地が偶然に、店の跡地と半分くらい重なるんだ。これは、よほどの縁だ」。以前と同じ本丸公園の入り口近くの場所だ。冨山さんから市に要望したわけではないので、幻のジャズ喫茶が主人を呼んだとしか思えなかった。

新しい店の敷地となる土地には、ベージュ色の小さな家が建っていた。33平方メートルの平屋が1軒、遠くまで見渡す限りの更地にぽつんとある。

隣の土地には、持ち主がもはや戻って住むつもりがないのだろう、「貸地」の看板が立っている。「陸前高田の土地区画整理事業のエリア全体で、広大な空き地が生じるのでは」との懸念は、1年以上前から指摘されており、それが現実になりつつある光景だった。

冨山さんは、そんな寂しさを少しも気にする様子はない。「中を見てくれよ。700万円の費用ながら、なじみの大工さんが大サービスでやってくれた」と言い、コンパクトなワンルームながら、最近の家では珍しい漆喰(しっくい)や、香りのよい杉の板がふんだんに使われた部屋の温かみを自慢した。

もはや津波に流されることはない「終のすみか」の隣に、4代目の「h.IMAGINE」が建つ予定だ。「資材高騰はもう致し方がない。ここまで来たんだから、店を小さく変更したりはしない。設計士も交えて、いろいろ検討してみたよ。店の設備や敷地の外装、開店準備のために取っておいた、虎の子の資金を取り崩せば、不足分の残りを200万円くらいに減らせる。それから先も、方法がないわけじゃない」.

復興庁が被災者の事業資金の調達支援に用意した「クラウドファンディング支援事業」に申し込むつもりだという。冨山さんは2019年3 月11日の開店を夢見ていたが、それはもう間に合わないそうだ。「それでも、楽しみが少し先に延びるだけ。これまで応援してくれた人たちに、クラウドファンディングへの参加を呼び掛けてみるつもり。実現できたら、震災以来の感謝の思いをいろんな形でお返ししていきたい」

6年前に大船渡で3代目の店がオープンした折、全国から20組ほどのジャズマンらが来訪して、チャリティーライブをやってくれたという。「もう1度、彼らに声を掛けて、日替わりで演奏してもらいたい。いつもジャズが流れる店から、この街に人のにぎわいを生み出せたら」。 

いまだ夜も真っ暗な被災地に最初にともる店の明かりが、冨山さんにはもう見えるようだ。新しい年に、希望がつながれていく――。

寺島英弥 ジャーナリスト。1957年福島県生れ。早稲田大学法学部卒。河北新報元編集委員。河北新報で「こころの伏流水 北の祈り」(新聞協会賞)、「オリザの環」(同)、「時よ語れ 東北の20世紀」などの連載に携わり、2011年から東日本大震災、福島第1原発事故を取材。フルブライト奨学生として2002-03年、米デューク大に留学。主著に『シビック・ジャーナリズムの挑戦 コミュニティとつながる米国の地方紙』(日本評論社)、『海よ里よ、いつの日に還る』(明石書店)『東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘・南相馬から』『福島第1原発事故7年 避難指示解除後を生きる』(同)。3.11以降、被災地における「人間」の記録を綴ったブログ「余震の中で新聞を作る」を書き続けた。

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(2018年12月25日
より転載)