自分の「報酬」は自分で決めるべき/モチベーションとゲームと仕事

世の中の「仕事」には二つの種類がある。「面白い仕事」と「退屈な仕事」だ。

世の中の「仕事」には二つの種類がある。「面白い仕事」と「退屈な仕事」だ。

どんなに収入が多かろうと金融業や会計士の仕事は退屈そうに見えるし、たとえ収入が少なくてもマンガ家やイラストレーターなどの創造的な仕事は面白そうに思える。私たちの「面白い/退屈」を決定しているのは収入だけではない。

では、この二つを分かつ決定因子はなんだろう。

Open Image Modal

「Rootportさんの記事は長すぎます」という感想をいただいて、そんなことをビール片手に考えていた。

私のブログは文章量が多い、らしい。本人としては「言いたいこと」を表現するために必要最低限の量だと思っているし、まだまだ書き足りないと感じることも珍しくない。が、たしかに知人からは「短くまとめなさい」とお叱りを受ける。ブックマークを見れば「あとで読む」タグがずらりと並んでいる。――ううむ、やっぱり長いのかも。

で、「この文章量を継続的に書き続けるモチベーションの源泉はどこにあるのか?」というご質問をいただいた。

一言でいえば「文章を書くのが好きだから」となってしまう。言葉をひねり出すのが好き。うまい言い回しを思いついた瞬間のドキドキする感じが大好きだ。鬼才作家・大間九郎先生はしばしば「言葉と遊ぶ」というようなことをツイートなさっているけれど、本当にそうだよなあって思う。大間先生とは言葉の選び方や種類はぜんぜん違うし、才能は足元にも及ばない。だけど言葉とたわむれるのが楽しくてしかたないのは一緒だ。

作者: 大間九郎,ヤスダスズヒト

とはいえ「好きなだけじゃ続かないよね」というツッコミも至極当然。たとえば作家志望者のおよそ7割は、「書き上げることができない」から夢をあきらめるという。長編小説を一本書くのは孤独で、不安で、想像以上にたいへんなのだ。どんなに文章を書くのが好きな人でも、その最初のハードルを越えられずに筆を折る。マーク・ザッカーバーグは「Done is better than perfect」と言ったらしいが、そもそもDoneできない人が大半なのだ。ものごとを完遂するには、なによりもまず「続ける」ことが必要だ。継続は力なり。

では「続ける」ために必要なものは何か:

そのヒントを、ゲーム業界の方々が与えてくれる。ゲーム専門のジャーナリストやゲーム製作者のブログ――。ビデオゲームにかかわる方々の言葉には「行動とモチベーション」への深い洞察があり、とても勉強になる。

ゲーム読解(新清士)‐日経新聞

島国大和のド畜生

こどものもうそうblog

島国大和さんのおっしゃる「連続くじ引き」という発想が興味深い。

たとえば梱包材の「ぷちぷち」を潰すのは、なぜ面白いのだろう。引っ越しのあと、掃除や片付けなんてそっちのけで夢中になってしまうのはなぜたろう。それは「ぷちぷち」が「たまに上手くつぶれる」からだ。すべての「ぷち」が気持ちよくつぶれたら、あんなに夢中にはなれないはずだ。半々ぐらいで成功と失敗が分かれる――つまり「連続くじ引き」だからこそ「ぷちぷち」は面白い。「潰す」という労力に対して、「気持ちよくつぶれる」ことが報酬になっている。その報酬が確実ではないからこそ射幸心が煽られるのだ。

「労力」と「報酬」のバランス。

呼び方は違えど、ゲームのデザインをしている方なら誰でも意識していることなのだろう。世界的カードゲームMagic: the gatheringのデザイナー:通称「マロー」ことマーク・ローズウォーター氏も似たようなことを書いていた。

『ゲームに必要な10のこと その1』

ヒトの行動の多くは、この「労力」と「報酬」のバランスで成り立っている。もちろん、すべての行動を説明できるとは思わない。けれど私たちが「自分の判断」だと思っているモノのほとんどは、じつはこの単純な仕組みで動いていると思うのだ。たとえ収入が少ない仕事でも、喜んで働く人たちがいる。それは、その仕事から何がしかの快感を――「報酬」を得られるからに他ならない。

文章を書くことも同じだ。

それなりの労力を投じてブログの記事を書いても、すべてがヒットするとは限らない。アクセス数、ブックマーク数、コメントやtwitterでのRT――。反響は誰の目にも明らかだ。毎日書いて、毎日反響をチェックする。そしてたまにヒットする。「ぷちぷち」と同じだ。幸運にもミューズの女神に導かれて「いい記事」を書くことができたら、たくさんの方に読んでいただける。すると脳汁が出まくって、とてつもない快感に包まれる。これは私だけではないだろう。ブログ著者やジャーナリスト、作家――。継続的に文章を書いているすべての人にとって、執筆は「連続くじ引き」になっている。

だからこそ彼らは書くことをやめない。やめられない。

これは文章に限らない。絵描きさんや写真家、詩人。あらゆる「モノ創る人」が必ず罹患する症状であるはずだ。「反響症候群」と呼ぶ人もいるようだ。仕事の面白さを決めるのは収入だけではない。収入も含めた「報酬」全体が決定因子になっている。そしてモノ創る人にとっては「反響」が、報酬のうち大きなウェイトを占める。

テレビブロスのコラムの後書き‐平民新聞

問題は、「労力」と「報酬」とのバランスに個人差があることだ。

たとえば単純作業のレベル上げが必要なRPGがあるとしよう。20時間ぐらい雑魚モンスターをひたすら倒し続けて、得られる快感は「ストーリーが少し進んだ」というだけ。そんなゲームはクソゲーだ。では「レベル上げに要する時間」がどれぐらいなら、この報酬でも満足できるだろうか。

逆の場合もある。たとえばパチンコは一回の労力が極めて低い。玉一個あたりの労力なんて微々たるものだ。それが「連続くじ引き」として高速で繰り返されて、ときどき大きく成功する。一回あたりの労力の低さに対して、ごくまれに極めて大きな「報酬」を得られる。これがパチンコの中毒的な面白さの源泉だ。

投入する「労力」と、そこから得られる「報酬」の期待値。このバランスは人によりけりで、それが私たちの個性を生んでいる。だからこそ孤独に長編小説を書きあげられる人もいれば、国産RPGをクリアできない私のような人間もいる。

典型的な日本企業では「社内運動会」をはじめとした家族ぐるみの人間関係が「報酬」の一部だった。誰かとつながりを持つのは、基本的に楽しい。でなければソーシャルゲームなど流行らない。しかし現在、日本企業的な――ムラ社会的な人間関係からはどんどん魅力が失われ、企業が提供できる「報酬」は漸減の一途をたどっている。働くことがクソゲーになっているのだ。「優秀な人ほどやめていく」という人事担当の嘆きの裏側には、「労力」と「報酬」が見合わなくなったという現実がある。

先日の記事に書いたスターバックスコーヒーの例や、あるいはディズニーリゾート。これらの企業は「労力」と「報酬」とのバランスをデザインするのがうまいのだ。収入ではない部分に「報酬」を作り出すことで、低賃金なアルバイトに献身的なサービスを提供させている。感動的な手腕だ。もちろん顧客によろこんでもらうのは何よりも大事だ。接客業とはそういう商売だ。が、それに見あった賃金が支払われているかどうかには一考の余地がある。

人を意のままに操る技術は、たぶん、ある。

「労力」と「報酬」とをバランスよく与えることで、他人の行動をコントロールすることは可能なはずだ。相手が年下の、大人になったばかりの人物なら、なおさら簡単だろう。文字どおり赤子の手をひねるようなもの。ゲーム業界で研究の進んだ「行動とモチベーション」の知見は、組織運営に応用できる。けれど「できる」からといって「すべき」だとは限らない。心を開いて理解しあうことはすばらしい。けれど「その方法」がマニュアル化されてしまうのは、やっぱり何かちょっと違うと思う。

「面白い仕事」と「退屈な仕事」とを分かつ決定因子は、「労力」と「報酬」とのバランスだ。が、それが誰かにデザインされた「報酬」であってはならない。何のために生まれて、何をしてよろこぶ。答えられないなんて、そんなのはイヤだろ?

自分の「報酬」は自分で決めよう。

(2012年2月15日「デマこい!」より転載)