旧日本軍の従軍慰安婦問題に関する朝日新聞の報道とその後の対応が波紋を呼んでいる。韓国人女性に対する強制連行があったとするずいぶん前の朝日新聞の報道について根拠がないのではないかという疑義がかねてからあったわけだが、それを今年になって朝日新聞が検証し、なかったとして記事を撤回したものの、その撤回のしかたがよろしくないと批判を浴びている、という話だ。
「慰安婦問題とは」
(朝日新聞2014年8月5日)
この問題に関しては、世に詳しい方々がたくさんいらっしゃるので、私ごときが何かためになる知見を示せるというものでもないとは思うのだが、とはいえ関心がまったくないというわけでもないので、ちょっとだけ、調べたこと、考えたことを書いてみる。専門家の方々には「何をいまさら」な話かもしれないし、「何を寝ぼけたことを」かもしれないが。
この問題は、韓国が特に熱心に追及していて、国際的には日本の旗色はあまりよろしくないようだが、日本側にも言い分はいくつかあって、それを誰かが言うたびにまた批判を受けて、という繰り返しになっている。日本側の言い分は、ざっくりまとめると、朝鮮の人たちを日本政府ないし軍が強制連行して慰安婦にしたとする事実はないという点と、日韓の戦時賠償問題については日韓基本条約締結時にすべて解決済みであるという点、それから当時慰安婦のようなしくみを作っていた国は日本だけではないという点あたりだろうか。
朝日新聞が今回検証の結果取り消したのは、このうち強制連行に関する点。朝鮮で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏の証言を報じた記事だ。併せて、慰安婦と挺身隊を混同した記述に対する訂正が行われている。その上で朝日新聞は、河野談話が吉田証言に基いていないこと、及び1993年のいわゆる河野談話が「募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」ことなどを根拠に、吉田証言が否定されても問題の本質は変わらないとした。
(2014年8月5日)
朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。
(2014年8月28日)
だが朝日新聞に対する批判はやんでいない。他にも問題があるというわけだ。批判の多くは、90年代初頭の同紙報道が慰安婦問題に火をつけた、という主張かと思う。たとえば産経新聞はこう書いている。
(産経新聞2014年8月10日)
だが、朝日が最も検証すべきは、1991年夏の「初めて慰安婦名乗り出る」と報じた植村隆・元記者の大誤報だ。記事は挺身隊と慰安婦を混同、慰安婦の強制連行を印象付けた。しかも義父にキーセン(芸妓)として売られていたことを書かずに事実をゆがめたからだ。しかし今回、同紙は誤報を認めなかった。
批判されているのはたぶんこの記事。この記事は慰安婦と挺身隊の混同があったとして訂正されているが、取り消しはされていない。
「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦を韓国の団体聞き取り【大阪】」
(朝日新聞1991年08月11日朝刊)
【ソウル10日=植村隆】日中戦争や第2次大戦の際、「女子挺身隊(ていしんたい)」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた「朝鮮人従軍慰安婦」のうち、1人がソウル市内に生存していることがわかり、「韓国挺身隊問題対策協議会」(尹貞玉・共同代表、16団体約30万人)が聞き取り作業を始めた。同協議会は10日、女性の話を録音したテープを朝日新聞記者に公開した。テープの中で女性は「思い出すと今でも身の毛がよだつ」と語っている。体験をひた隠しにしてきた彼女らの重い口が、戦後半世紀近くたって、やっと開き始めた。
この批判は、強制連行でないものを強制連行であるかのように印象づけた、ということかと思う。つまり、この問題を数多く取り上げている池田信夫氏の弁を借りればこういうことだろう。
(池田信夫blog 2014年08月06日)
問題の本質は女性の人権といった一般論ではなく、公権力による強制の有無である。民間の商行為に政府が謝罪する理由はない。
河野談話にいう「業者らが或いは甘言を弄し、或いは畏怖させる等の形で本人たちの意向に反して集めるケース」は存在しないか存在したとしても問題ではないという主張になろうか。
整理すると、慰安婦問題は90年代に入って大きな関心を呼ぶようになったが、その元となる情報は80年代からすでに存在し、朝日新聞もそれを報じていた。韓国で元慰安婦が初めて名乗りでたのは1991年8月のことだから、朝日新聞の報道がこうした動きに影響を与えたのではないかという批判が出てきたのかもしれない。
朝日新聞はこれに対してむしろ韓国側から起きた動きだと反論している。
(2014年8月28日)
韓国では、長く続いた軍事独裁政権が終わり、社会の民主化が進んだ1990年代にはいって、慰安婦問題に光があたり始めた。
その大きな転機となったのは、90年1月に尹貞玉(ユンジョンオク)・梨花女子大教授(当時)が日本や東南アジアを訪ね、韓国紙ハンギョレ新聞に連載した「挺身(ていしん)隊『怨念の足跡』取材記」だった。
同年6月、参院予算委員会で当時の社会党議員が、慰安婦問題を調査するよう政府に質問したのに対し、旧労働省の局長が「民間業者が軍とともに連れて歩いている状況のようで、実態を調査することはできかねる」と述べ、韓国で強い批判の声が上がった。この答弁に反発した金学順さんが翌91年8月、初めて実名で「慰安婦だった」と認めると、その後、次々に元慰安婦が名乗り出始めた。
細かい事実関係はややこしそうなので詳しい皆さんにお任せするとして、私はいつものように、大学で契約している朝日新聞の記事データベースをちょいちょいと眺めてみた。まずはキーワード「慰安婦」で検索してみる。1879年から1989年までの記事のデータベースは見出しとキーワードによる検索なので、全文検索ではないが、ここでひっかかったのは19件。最も古いのは1971年のこの記事。
「(2)性の犠牲 おんなの戦後史」
(1971年8月14日東京版朝刊)
これは朝鮮の人たちではなく、戦後の占領軍向けに日本が作った慰安所の日本人慰安婦たちの話。これは当時生きていた日本人なら実際に見聞きして知っている人も多かっただろうが、当時はGHQの報道規制で記事にはできなかったらしい。
それはともかく、この記事をみると、興味深いことが書いてある。
「新聞広告では「職員・事務員募集」となっており、高給優遇とある」
「実態は慰安婦だと言われ、考えこんでしまう者が多かったが、業者は、あつかましくも「お国のため、国際親善に貢献し、日本婦人の貞操の防波堤ともなる特別挺身隊員なのだ」と説得した」
朝日新聞が朝鮮人慰安婦問題に関する検証記事で、当時は「慰安婦問題に関する研究が進んでおらず、記者が参考にした資料などにも慰安婦と挺身隊の混同がみられたことから、誤用し」たとしていることに対して、「慰安婦と挺身隊はまったく別であり混同はありえない」とする批判があるが、制度としてはともかく現場では混同されたり、あるいは意図的に混同する部分があったのだろう(上に挙げた産経新聞の記事では「韓国では混同があった」としているが、日本でもあったと考える方が自然だ)。この記事は、そうした混同が生じた背景の一部を示唆している。慰安婦の募集の際に「挺身隊」ということばが使われたのではないかということだ。
実際、性産業分野ではあからさまな表現を避ける言い換えがしばしば行われる。「ファッションマッサージ」「ブティックホテル」「ソープランド」といった名称がそのままの意味ではないのと同じ意味で、慰安婦を募集する際に「挺身隊」と称することは充分ありうるのではないかと思う。もちろんそれが「強制連行」を示すものではないし日本政府や軍が行ったことを示すものでもないが。
で、その次の記事は1979年。
「従軍慰安婦の涙 朝鮮女性の悲惨さ追う」
(1979年9月7日東京版夕刊)
これは記者による記事ではなく山谷哲夫氏の寄稿。この人はドキュメンタリー映画の制作者であったようだ。朝鮮人慰安婦についてのドキュメンタリー映画『沖縄のハルモニ』を撮っているらしい。同名の本も出版されている。ちょっと引用。
「軍が管理買春させていた女達は、従軍慰安婦と呼ばれ、そのほとんどが朝鮮人だった。日本人慰安婦も少数いたが、大半が公娼出身で性病経験者が多かった。そのため軍部は、これら日本人慰安婦より、むしろ若くて健康で、性病とは無縁な朝鮮人慰安婦を歓迎した」
「一説には二十万人、または七万人と推定される朝鮮人女性が、敗戦に至るまで、中国や東南アジアそして沖縄などの日本軍陣地に半ば強制的に連行された。そのほとんどが貧しい家の娘であった」
「ぼくは彼女たちの記録映画を作ろうと決意した」
「そこで七十七年七月、七十八年二月と二度にわたって韓国に取材に行った。計一カ月近くも足を某にして生き残りの慰安婦さがしをやったのだが、結局のところ徒労に終わった。何かの手がかりを得るどころか、むしろ韓国の人たちに「昔の忘れたいことをほじくるより、なぜあなたの父親に(慰安婦のことを)聞かないのか」と反問される始末であった。七十八年も八月に入って、沖縄に生き残りの六十四歳になる朝鮮人慰安婦がいる、という話を噂で聞いてさっそく南の島に向かった」
「「沖縄のハルモニ」という記録映画は、このハルモニの語りが中心となっている。朝鮮半島を炊事手伝いなどをして転々としていた時に「コンドーさん」という日本人に騙され、当時特攻隊基地のあった沖縄・渡嘉敷島に他の六人の朝鮮人慰安婦とともに連れてこられた」
つまり、強制連行された慰安婦がいると聞いて調べたが該当する人は見つからず、しかたなく代わりに、騙されて慰安婦にさせられたとする人の証言をとってきているわけだ。で、「半ば強制的に」連行された、と書いている。「半ば」というのは「事実上拒めなかった」ぐらいの意味だろうか。これも日本政府や軍による強制連行という話ではないようだが。
そのあとの記事を一気に並べてみる。今回取り消しないし訂正された記事が数件入っている。
「韓国の丘に謝罪の碑 「徴用の鬼」いま建立」
(2014年に取り消し)
(1983年10月19日東京版夕刊)
「朝鮮人を強制連行した謝罪碑を韓国に建てる」
(2014年に取り消し)
(1983年11月10日東京版朝刊)
「たった一人の謝罪 強制連行 韓国で「碑」除幕式」
(2014年に取り消し)
(1983年12月24日東京版朝刊)
「戦時中の女子てい身隊動員 日本に謝罪と補償求めよ 全大統領に公開書簡 クリスチャンの韓国女性七団体」
(1984年8月25日東京版朝刊)
「「私は元従軍慰安婦」 韓国婦人の生きた道(シンガポール)」
(2014年に慰安婦と挺身隊の混同につき訂正)
(1984年11月2日東京版夕刊)
天声人語
(1985年8月19日東京版朝刊)
「従軍慰安婦のために初めて鎮魂の碑を建てた 深津文雄さん」
(1985年8月29日東京版朝刊)
「著者の意地と執念_よむ」
(1985年10月6日東京版朝刊)
「知られざる戦争_クローズアップ」
(1986年6月30日東京版朝刊)
「はがき通信」
(1986年7月8日東京版朝刊)
「アジアの戦争犠牲者を追悼 タイと大阪で集会 元捕虜、通訳ら参加 体験語り、平和誓い合う」
(2014年に取り消し)
(1986年7月9日東京版朝刊)
「従軍慰安婦に鎮魂碑 館山 募金実り「かにた」村に」
(1986年8月16日東京版朝刊)
「戦争と平和を手紙にしませんか 作詞家が「ピース・レター運動」 輪は少しずつ 今80人 元従軍慰安婦や将校夫人からも」
(1987年8月11日東京版夕刊)
「従軍慰安婦で散った朝鮮女性の「恨」映画化」
(1987年9月14日東京版朝刊)
「大戦中の女性の受難を女性の目で記録映画に オーストラリア在住の関口さんの「戦場の女たち」 12月8日に公開の予定 ニューギニア住民や従軍慰安婦が証言」
(1988年4月14日東京版夕刊)
「朝鮮人従軍慰安婦の記録を調べる 尹貞玉さん」
(1988年8月18日東京版朝刊)
「「侵略」めぐる首相発言 外国の批判広がる 「最も無神経な首相」上海紙_批判・反発」(2014年に慰安婦と挺身隊の混同につき訂正)
(1989年2月23日東京版朝刊)
1989年以降については全文検索のデータベースがあるのでそちらを検索。数が多いのでヒット件数で推移を追ってみるとこんな感じ。
1989年 16件
1990年 23件
1991年 154件
1992年 737件
1993年 434件
1994年 384件
1995年 499件
1996年 592件
1997年 761件
1998年 396件
1999年 197件
2000年 237件
2001年 234件
2002年 154件
2003年 92件
2004年 106件
2005年 194件
2006年 116件
2007年 432件
2008年 124件
2009年 76件
2010年 59件
2011年 95件
2012年 257件
2013年 749件
2014年 406件
取り上げられ方には年によって大きな差があることがわかる。何かあるとわっと記事が増える、ということだろう。たとえば1992年は、池田氏が指摘する朝日新聞の問題記事が出た年でもあり、そもそもその前年12月に韓国人元慰安婦が日本政府を提訴、政府が調査を行い、1月に宮沢喜一首相が日韓首脳会談で謝罪、7月に政府が調査結果として政府の関与を認めている。また1997年はアジア女性基金が償い金の支給を始めた年であり、また自民党の政治家たちが「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」(会長:中川昭一、事務局長:安倍晋三、幹事長:平沼赳夫)を結成して慰安婦問題を取り上げる動きをみせ始めた年でもある。
それはさておき朝日新聞に話を戻すと、どうもみたところ、吉田証言以外にも、1980年代から、数は少ないが朝鮮人慰安婦の問題を取り上げた記事はあったことがわかる。確かに92年に盛り上がったことはわかるが、朝日新聞の記事がきっかけで慰安婦問題に火がついたというのはいまひとつピンとこない。朝日新聞が8月28日記事で指摘した、「韓国では、長く続いた軍事独裁政権が終わり、社会の民主化が進んだ1990年代にはいって、慰安婦問題に光があたり始めた」とする説明の方がすんなり納得できる。もちろん、朝日新聞の報道がこうした動きを後押しするものであっただろうとは思うが。
もう1点、朝日新聞記事をぱらぱらと見ていて気づいたことがある。90年ごろの記事の「微妙」な書き方だ。2つほど引用するのでちょっと読んでみてほしい。
「強制連行の朝鮮人名簿を民団が独自調査 きょうから」
(1990年08月15日朝刊)
国家総動員法によって強制連行された朝鮮人は約70万人、軍人・軍属、従軍慰安婦も含めると第2次世界大戦に駆り出された朝鮮人は約120万人に上り、うち20数万人が犠牲になったと民団では推定している。
「梨花女子大の尹貞玉教授 従軍慰安婦の事実究明を」
(1990年12月14日夕刊)
戦争中、多数の朝鮮人女性が日本軍の「従軍慰安婦」にさせられたが、10年前から調査を続けている韓国・梨花女子大学教授の尹貞玉(ユン・ジョンオク)さん(65)が、このほど東京YWCAで開かれた「人権と戦争を考えるつどい」の招きで来日。もう1つの「強制連行」の事実究明を日本側に呼び掛けた。(中略)4度目の来日。「日本人も大多数は被害者でなかったかと思うようになりました。女は子だくさんを奨励され、兵隊にされた子供は弾丸を惜しんで自爆攻撃させられた」でも、「朝鮮の若い娘がだまされて、生涯故郷にも帰れないことを考えてほしい」。戦友会では慰安所のことが話題になると聞く。少しでも情報を寄せてほしい、と話す。
90年8月15日付記事の「強制連行された朝鮮人は約70万人、軍人・軍属、従軍慰安婦も含めると第2次世界大戦に駆り出された朝鮮人は約120万人に上り」との表現をよく読むと、従軍慰安婦は「強制連行された朝鮮人」ではなく「第2次世界大戦に駆りだされた日本人」の方に入っている。また同年12月14日の記事で「多数の朝鮮人女性が日本軍の「従軍慰安婦」にさせられた」「朝鮮の若い娘がだまされて」とあるのも、強制連行とのニュアンスはない。よく読むと従軍慰安婦が「強制連行」によるものだとは読めないよう微妙な(あるいは巧妙な)書き方をしているように思う。つまり、これらの記事を書いた人たちは、当時から事情をある程度はわかっていたのではないだろうか。
この視点でみると、「発端」とされる1991年8月11日付の朝日記事も、「「女子挺身隊(ていしんたい)」の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた」とは書いているが、軍が強制連行したとは書いていない。「強制連行があった」と書いてあるのは、誰か他の人の発言として伝える書き方をしたものが多い。たとえばこんな感じ。
「朝鮮人従軍慰安婦を考える会(手紙 女たちの太平洋戦争)【大阪】 」
(1991年08月12日朝刊)
韓国挺身隊問題対策協議会の尹貞玉(ユン・ジョンオク)代表も次のようなメッセージを寄せている。尹さんは梨花女子大の前教授。以前から慰安婦問題に関心を持ち、各地で取材し、資料を集め、研究してきた。 「戦時中、日本は朝鮮に強制徴用、強制徴兵制を実施し、『天皇』の『赤子』である『皇軍』にささげる『下賜品』として従軍慰安婦を戦場に送った・・・日本政府は賠償はおろか、戦後46年が過ぎた現在も従軍慰安婦の事実を認めようとさえしない。それは、生命と愛の絡んだ性を蹂躙(じゅうりん)した犯罪である」
つまり、確認できない事実と配慮すべき事情との間の齟齬に折り合いをつけようとしたぎりぎりの表現のようにみえるのだ。だからといって朝日新聞を擁護したいわけではなくて、わかった上であえてそういう記事を書いていたのだとすると、なぜ今に至るまでそのままにしていたのかという批判を受けるのはまあしかたがないということになろうが。
とはいえ、この点はちがう視点からはちがったとらえ方ができるのではないかと思う。その意味で注目したいのは、1984年8月25日の記事。
「戦時中の女子てい身隊動員 日本に謝罪と補償求めよ 全大統領に公開書簡 クリスチャンの韓国女性七団体_韓国」
(1984年8月25日)
「韓国キリスト教境界協議会(KNCC)の女性委員会(朴英淑委員長)と同協会女性連合会(安相任会長=七団体加盟)は二十四日、韓国プロテスタント二十教団長がさる十五日採択した「全大統領の訪日に再考を求め、日本政府に対する謝罪要求」を骨子とした声明を全面的に支持する立場を表明するとともに、戦時中動員された韓国人女子てい身隊(軍慰安婦)に対する日本政府の謝罪などを求めるよう、全大統領あてに公開書簡を二十三日付で発送したことを明らかにした。
同書簡は①太平洋戦争中に駆り出された韓国人女子てい身隊に対する謝罪と応分の補償②帰国した韓国人原爆被害者(約二万人と推定)に対する国政レベルでの補償③日本人の妓生(キーセン)観光中止④日帝時代に動員されたサハリン在留韓国人の帰還問題の解決、の四項目を具体的に要求している。
この書簡はとくに女子てい身隊について、動員された約二十万人のうち五―七万人が軍の慰安婦に狩り出されたと推定、「無残な死に追いやった日本の罪は到底黙認できない」として、大統領に対し謝罪と応分の補償を日本政府に求めることを要求している」
この記事でも、「太平洋戦争中に駆り出された韓国人女子てい身隊」「動員された約二十万人のうち五―七万人が軍の慰安婦に狩り出された」とあって、軍による強制連行とはやや異なるニュアンスで書かれている。これは上記のような朝日新聞の記者側の見方を反映したものかもしれないが、ひょっとすると韓国側の人たちも、事情をわかった上でこのように主張していたのかもしれない、という気がしなくもない。
もしそうだとしても、彼らがうそをついている、という話ではないと思う。むしろ、「強制連行」と「騙して連れてきた」、「日本政府や軍による直接的な強制」と「軍の意を受けた民間業者の強引な勧誘や騙し」を事実上同じものとみている、と考えるべきなのではないかということだ。つまり、騙されたり、貧困ゆえにそうするしかなかったりしたような場合は自発的な「商行為」ではなく、事実上の強制とちがわないではないか、という考え方だ。
これは河野談話とほぼ同様の見解かと思う。こういう見方は、商行為一般についてはともかく、性産業の領域ではままあるのではなかろうか。性犯罪において「合意」があったかなかったかはよく議論になるが、「力を背景に迫られこわくて抵抗できなかった」はふつう「合意」とはいわない。それと同じように、当時の状況を考えれば、朝鮮において(おそらく日本でも)慰安婦の募集において、「民間業者との自由意志による契約」が事実上の強制の下に行われたという主張には、それなりに説得力がある。商行為ではなく人権問題としてみているわけだ。
慰安婦問題を女性の人権問題としてとらえるべきという考え方からみてこの記事の興味深い点は、韓国の女性団体側が慰安婦を「女子挺身隊」と称している点もさることながら(これも誤用というよりこれらの人々の主張とみるべきだろう)、この問題と併せて、原爆被害者やサハリン在留者など戦争関連の問題だけでなく、キーセン観光中止の問題を挙げていることだ。
キーセン(妓生)自体は朝鮮に古くからある制度で、日本統治時代以降、戦後に至るまで公娼制度として運用されたものだが、いわゆるキーセン観光は戦時中ではなく戦後の話だ。この記事は韓国の女性団体の主張を伝えているわけだが、女性団体が動いているというのは1つのポイントかと思う。女性団体がこれらをまとめて取り上げたのは、慰安婦問題とキーセン観光問題を同根の問題ととらえていたことのあらわれではなかろうか。つまり、当時日本人によるキーセン観光が問題となっていたことと、韓国人慰安婦問題がイシューとなったことには関連があるのではないか、ということだ。
そこでというわけで「キーセン観光」で記事検索してみると、1973年あたりから記事が出てくる。
「"妓生観光"の実情 婦人団体の二人 ソウルを見る_家庭面」
(朝日新聞1973年12月8日 東京版朝刊)
「妓生観光に抗議デモ 梨花女子大生_学生デモ」
(朝日新聞1973年12月20日 東京版朝刊)
「キーセン観光反対 羽田に女性デモ_海外旅行」
(朝日新聞1973年12月25日 東京版夕刊)
「「キーセン観光やめて」反対集会 韓国女性も涙の訴え_海外旅行」
(朝日新聞1974年2月22日 東京版朝刊)
「ようやく実を結ぶ 妓生観光反対運動_家庭面」
(朝日新聞1974年3月9日 東京版朝刊)
「(4)妓生観光 ゆがんだ関係の象徴_日本と韓国」
(朝日新聞1975年1月9日 東京版朝刊)
「(8)おんな 暗い"外貨の支え"_韓国 沈黙の底で」
(朝日新聞1976年1月24日 東京版朝刊)
「「キーセン観光反対」叫ぶ 過激派のしわざ 大阪の爆発 当局、見方強める_大阪・東急観光爆破事件」
(朝日新聞1977年2月22日 東京版朝刊)
「(解説)のさばる"買春観光" 告発に対して"黙殺"_海外旅行」
(朝日新聞1977年12月7日 東京版朝刊)
「退廃文化 カネに飽かせた買春続く_ソウルの日本人 五輪大会の陰で」
(朝日新聞1988年9月27日 東京版朝刊)
この後も、数は少ないが毎年数件ずつ記事は出ている。1992年は他の年より多かったので、慰安婦問題と結びつける発想はあったのだと思う。
キーセン観光が70年代に問題視されるようになったのは、端的にいえばこのころから盛んになったからだろう。そしてその背景には、日韓関係と国際経済がこの時期に大きく動いたことがある。
1965年の日韓基本条約締結によって、日韓国交は正常化した。その後1966年に日韓貿易協定が締結される。当時の韓国は朴正煕大統領(現在の朴槿恵大統領の父)の軍事独裁政権下(1979年に暗殺されるまで続いた)にあり、この間日本からの援助もあって急速な経済発展を遂げたが、貧困にあえぐ人々も多かった。
一方、日本人の海外旅行が広まり始めたのも1960年代半ばのことだ。観光旅行が自由化されたのは1964年で、その後外貨持ち出し制限が次第に緩和されていく。1969年に49万2880人だった海外旅行者数は、1970年に66万3467人、1971年に96万1135人、1972年に139万2045人、1973年には228万8966人と急速なペースで拡大していった。この時期団体による割安なパッケージツアーが開発されたことも普及に一役買った。団体で買春旅行に行くわけだ。
1973年、つまりほぼ同時期に、ブレトン=ウッズ体制の崩壊により、外国為替市場は変動相場制へ移行する。長らく1ドル=360円に固定されてきた円は71年に308円、73年には260円前後まで上昇した。これにより日本人にとって外貨が一気に割安になったことも、海外旅行ブームの一因だったはずだ。
一方、韓国ウォンが変動相場制になったのは1980年で、70年代はまだ固定相場制だった。石油ショックの影響を受け、1960年代に1ドル=255ウォンだったものが1972年には400ウォン、74年には480ウォンと切り下げられた。すなわち70年代、日本人旅行者にとって韓国はきわめて物価の安い国になったのである。
キーセン観光は、上記の記事検索結果でもわかるように、1980年代にも続いていた。キーセンの制度が法的に廃止されたのは今世紀に入ってからのことだそうで、最近の韓流ブームしか知らない人たちには想像もつかないかもしれないが、70年代以降ごく最近まで、日本人の韓国旅行といえば男性の方が多く(男女逆転したのは2008年)、まず連想されるのはキーセン観光だったのだ。団体での買春旅行が下火になった後でも、1人で韓国に行く日本人男性にはそうした「疑い」がかけられることは珍しくなかったはずだ。
そしてこうした風潮が、韓国の少なからぬ人たちの反発を呼んできたことは想像に難くない。もちろん性産業とて(世界最古かどうかは別として)産業の一分野であり、誇りをもって従事している人たち(女性だけではないと思うが女性の方が圧倒的に多いだろう)もいるだろうとは思うが、一方でこの産業が実際には心ならずもこの仕事に就かざるをえなかった多くの女性たちの涙の上に成り立っていることも事実であり、その背景には女性の社会進出に関する有形無形の制約が未だに残っていることも否定はできまい。それは韓国の国内社会の問題ではあろうが、そこにやってくる「客」たちのうち少なからぬ者が日本人であるとすれば、それによってかつての慰安婦の記憶を否応なく刺激されたとしてもおかしくはない。いわばキーセン観光によって、慰安婦の記憶は現代の課題として引きずり出されたのだ。
こうした経緯を考えれば、韓国の人たちが特に慰安婦問題にこだわる底流に、キーセン観光批判のような、経済力の格差を背景にした女性への人権侵害に対する怒りという文脈があると考えた方がいいのではないかと思う。そしてもともとあったそうした動きが、80年代の韓国の経済成長や、朝日新聞の検証記事も指摘した同時期の民主化によって、表面に出てくるようになったのではないか。その意味でこれは、戦前の日本と韓国の問題というだけではなく、ごく最近まで続いていた日本人と韓国人の問題でもあり、同時に男性と女性の間にある問題でもある。
もちろん、だからといって韓国の政府や人たちが言っていることをすべて受け入れよと主張するわけではない。この種の主張をする人の中にはこの問題を政治的に利用しようとしている人もいるだろうし、単に日本が嫌いで貶めたいと思っているだけの人もいるだろう。自国の国内問題に対する不満を日本にぶつけているといった要素もきっとある。そうしたものをすべて無条件に受け入れなければならないというのはおかしい。日本として主張すべきものは主張していいと思う。思うが、主張するからにはある程度聞いてもらえないと意味がないわけで、聞いてもらえる内容は何か、聞いてもらえる環境をどうやって作るかをもう少し真剣に考えた方がいいと思う。
少なくとも、「政府や軍による強制連行の証拠はありませんでした(キリッ」みたいな主張で収まる話ではないし、「他の国も似たようなことをやってるじゃないか(ドヤァ」と言っても「お前がいうな」という反応しか得られないだろう。そして何より、「あれは民間業者がやったことだし自由意志に基づく契約だろゴルァ」みたいなロジックが説得力をもたないことは、当初の時期からキーセン観光批判と併せて主張されていたことから明らかだ。
女性の権利保護は、態度の差はあるにせよ概ね世界共通の課題でありかつ関心事項であるといってよい。そしてその領域では、ヒューマン・トラフィッキングの問題をみればわかるが、民間の自由な契約だから放置してよいという考え方は一般的ではない。だから、韓国のみならず他の国々でも総じてこの問題に関して日本への風当たりが強いのは、事実が伝えられていないからではない。誤りを正したい、事実を伝えたいと思うのはわかるが、そこは見誤らない方がいいと思う。
朝日新聞に関しては、取り消さざるをえない記事を出したこともさることながら、それを長い間放置していたことは非常によろしくないと思う。検証も充分とはいいがたいし、別に謝ってほしくはないが検証記事中に「申し訳ない」ぐらいのことばがあってもおかしくはないケースではなかろうか。会社全体への信頼を失いかねない危機ととらえた方がいいと思うし、日韓関係に対する悪影響も当然ゼロではなかっただろうから、もう少していねいに検証してほしい。朝日新聞の報道に誤りがあったからといって、それを批判する産経新聞の報道がすべて適切であるということにはならない。メディアの価値は、それぞれの意見を、それぞれが掘り出した事実をもって戦わせるよって高まる。今回の失敗を検証し、今後の改善に活かしてもらいたい。
(2014年9月1日「H-Yamaguchi.net」より転載)