橘玲さんが『言ってはいけない 残酷すぎる真実』で取り上げていた本『子育ての大誤解〔新版〕上』、『子育ての大誤解〔新版〕下』が気になったので原著『The Nurture Assumption: Why Children Turn Out the Way They Do』を読みました。 初めに書いておきますが、邦題の副題「重要なのは親じゃない」はミスリーディングです。 原著の副題「Why Children Turn Out the Way They Do」(どうして子どもはこういう人間になるのか)の方が良いニュアンスです。
1998年という、もう20年も前に書かれた原著の原題は、人間がどういう人間になるのかを決定すると考えられる2つの論派のうちのひとつ、Nature Assumption(遺伝がほぼ全てを決定するという考え方)に対するNurture Assumption(環境がほぼ全てを決定するという考え方)です。 ところが、当時のNurture Assumption派は「環境=親の育て方」の一辺倒だったのですが、これに対し、環境は親だけが与えるものではない、むしろ子どもが育つ同姓・同年代グループの影響が多大、というのがおおざっぱな骨子。 長いですが、興味深い箇所がたくさんありました。
その中で'Relationship'と'Groupness'という言葉が盛んに出てきました。 人間関係を考える上で非常にわかりやすいフレームワークなので今日は'Relationship'と'Groupness'の話です。 邦訳でどう訳されているのかわからないのですが、「関係性」と「集団性」と訳しておきます。
'Relationship'(関係性)とは1対1の人間関係のことです。 親子の関係、恋人・夫婦関係、親友との関係・・・ 1対1の人間関係はとても重要で、人生を豊かにしたり反対に惨めにしたりします。 ところが、人の考え方や行動規範は'Relationship'ではつくられません。
人の考え方や行動規範は社会的な'Groupness'(集団性)でつくられます。 「自分の周り」とか「居場所」とも言います。 Group(集団)というのは最低4、5人以上の構成員からなる社会的な集団のことで個人は帰属意識を持ち他の集団と区分するために用いられます。 集団が形成される社会的コンテクストに応じた区分(性別や年齢・人種・ガリ勉か不良か、など)で分かれ、構成メンバーが多すぎると更に細分化されます。 5歳頃から10代後半まではGroupnessへの同化・一体化・迎合が絶対的なサバイバルスキルとなり、とりわけ男子でその傾向が強いそうです('Groupnessへの圧力'を全て「同調圧力」と読み替えるとかなりすっきり読めます)。
例えば、夫婦関係というのは人生の中で大事な関係ではあるものの、夫婦関係で性格や考え方はつくられません。 外の集団でつくられた考え方や行動規範(長時間労働を当たり前とする企業風土など)を夫婦関係に持ち込むことはあっても、夫婦関係でつくられた習慣を外に持ち出すことはありません。 親子関係も同様で、友達同士で使っている言葉が家の中で出てくることはあっても、恥ずかしい親戚の存在を友達に打ち明けたりすることはありません。
そこで、こんな2 x 2マトリクスをつくってみました。 横軸の左端は1対1の関係性、右端はn対nの集団性です。 縦軸は心理的 and/or 距離的な近さ・遠さです。
というのも、最近、自分の人生の'Relationship'や'Groupness'についてつらつらと考えていたからです。
家族は上記マトリックスの中で人間関係の中でも(良くも悪くも)最も濃密な関係で①に当たります。 私が(結果論ですが)子どもは4人欲しかったと思ってしまうのは、家族が増えるとは結局、人生の中で自分と最も濃密な関係の人が増えることだと思うからです。 私は『イノベーションのジレンマ』で有名なクレイトン・クリステンセン教授がガン宣告を受けた後に行った講義"How Will You Measure Your Life?"(人生をどうやって測るのか? *1)の中で使った、「家族は'an enduring source of happiness'(絶え間ない幸せの泉)」という表現が好きなのですが、最も濃密な関係である家族を「絶え間ない幸せの泉」にするには文字通り絶え間ない努力が必要です。
日本では「三歳児神話」とか「亭主元気で留守がいい」とか、家族という関係が母親と子どもの関係、それも子どもがごく幼い頃の短期間の関係に意識が集中しすぎるきらいがある気がします。 が、本来はもっと長く絶え間なく水をやり続け育て続けなければならない関係ではないでしょうか。
*1・・・参照:『人生をどうやって測るのか?』
「絶え間ない幸せの泉」になりうるのは家族だけではありません。 長期間に渡る友人関係もそうです。 私も友人がいなければどうなっていたかわからない、というひどい時を過ごしていた時期もあります。 あまり思い出したくない時期ですが、当時の友人たちは今でも命の恩人です。
現在、私の②にあたる「自分の周り」は物理的に近いのが長男・次男が通う小学校のママ友、そして仕事で出会うデザイン業界やメディア・建設業などの人たちです。 とりわけ、自分や子どもたちを支える近所のサポートネットワークは意識して構築した方がいいと思い、去年は長男のクラスのPTAクラス委員までやりました。 あまりママ友付き合いは得意な方ではないのですが、リンダ・グラットンもベストセラーになった『ワーク・シフト ― 孤独と貧困から自由になる働き方の未来図〈2025〉』(*2)で、人類が地方から都市へ、辺境都市から中心都市へと移動を加速させる現代において、深い'restorative relationships'(元気を回復させる人間関係)の重要性を説いています。 子育て期においては、とりわけ『遠くの親戚より近くの他人』なことも多いのです。 ロンドンに来るまでにいろいろな場所に住んでいたので来た時もほとんどカルチャーショックを受けなかったし(*3)、今ではすっかりロンドンらしさが「自分の周り」になっています。
*2・・・参照:『未来に備える本』
*3・・・参照:『子どもはイギリスで育てたい!』
そして物理的には遠い③と④。 来年で海外生活がシンガポールとロンドンで合計10年を迎える私には、①と②が現在住んでいるロンドン、③と④が日本や他の場所に住んでいる昔の友人・知人になります。 生まれも育ちも日本で、生まれてから30年ほど①と②の人間関係や集団意識を築いていたのが日本。 海外移住をするということはそれまで築き上げたRelationship(関係性)とGroupness(集団性)を全て置いてくるという作業でもありました。 ・・・ということは、勢いよく出てくる時はあまり深く考えないものです。
私がシンガポールに引っ越した10年前にはすでにFacebookがあったので、「ああ、Facebookがあってよかった」と思ったものですが、"Out of sight, out of mind"(去る者は日日に疎し)ということわざがある通り、やっぱり人間関係も日々ちゃんと水をやり続けなければならないのです。 簡単には会えない人との関係のメンテをSNSに頼ることには2つ問題点があります。
ひとつは、いつも使うソーシャルメディアの通知機能が自分の人間関係まで決めてしまうということ。 情報が溢れる現代、様々なサービスが通知機能を備え常時「友人の○○さんが○○したよ」と叫び続けます。 朝起きるととりあえず通知機能を全部既読にするのが日課という人もいることでしょう。 でも通知機能にいつも現れるその人って自分の人生にそんなに大事な人なんでしたっけ? すぐ会える場所にいる友人とは長年の付き合いでお互いが好むコミュニケーションの方法も熟知し「ソーシャルメディアは全く使わないあいつには電話する」というような使い分けができますが、遠い人とはつい自分が使うツールに頼りがちになってしまいます。
ふたつめは、情報の非対称性。 FB上の自分のフィードに常に現れる人のことは、会わなくてもとてもよく知った気になります。 いつも「いいね」を押してるし、たまにするコメントにも返してくれるので、コミュニケーションも取れている気になります。 でも自分の友達の数が100で、相手の友達の数が2,000だったら、自分が投稿するポストは相手には次々現れるフィードに埋もれてほとんど見えていないし、相手にとってはFB上でコミュニケーションを取る数百人のうちのひとりなのかもしれません。 ファンとアイドルみたいな関係。
なので、やっぱり遠い場所にいる親や友人との関係を「絶え間ない幸せの泉」にするためには、努力して水をやり続けなければならないのです。 昔はそれこそ海外移住といえば片道切符のようなイメージだったので、努力は必要でも水をやり続けやすくなったのはいいことだと思いますが。
というわけで、クリスマスから年末年始は主に③の人たちとの人間関係に水をやりに一時帰国します。
12月18日から25日は東京、26日から1月8日は関西。
水やり中心ですが、取材やお仕事の協業などは積極的に受け付けておりますので、Contactページからご連絡ください。