1856年--。セントラル・パークの建設が決まり、公園内のどこに小径をつくるのかを決めるときのこと。
セントラル・パーク運営委員の1人のロバート・ディロンは、プランの決定を延期して、かわりに多くの人に歩かせてできた小径を採用することを提案した。
多くの人が歩いて自然にできた小径が最も利用されるルートになるはずだという理由だ。
ディロンの案が実現することはなかった。それから1世紀半が経過したいま、新しい通りをつくるとしたら、ディロンの考えをとりいれるべきだろうか。
1.
都市を走る通りは混沌としていて、秩序とはほど遠いようにみえる。だがネットワークとしてとらえてみると、そこには一定の規則性がみえてくることが多い。
ほかの通りとつながっていない通りは意味がない。つながりは多い方がいいが、すべての通りがつながりすぎると、いたずらに複雑になるだけだ。
米国40都市の「ストリート・ネットワーク (道路網)」を分析した研究によると、どの都市もおよそ80%の通りは (平均よりも) 短く、他の通りとのつながりも少ない。
逆に、20%の通りは (平均よりも) 長く、多くつながっている。
そして1%の通りは著しく長く、つながりの度合いも著しく大きい。
少数の通りに長さとつながりが集中し、圧倒的多数の通りは短く、つながりも少ない。
40都市のストリート・ネットワークを両対数グラフにプロットしたのが右だ。
どの都市の通りの分布も「べき乗則」に従っている。自然現象や社会現象に多く観察されるべき乗則は、適切なつながりの分布と考えることもできる。
ニューヨーク市のストリート・ネットワークもべき乗則に従っている。だがよくみてみると、そこには不規則性も存在する。
2.
マンハッタンの通りは「1811年委員会計画」とよばれるプランにもとづいている。
1810年時点でのマンハッタンの人口は96,373人。そのほとんどがカナル通りの南の今日のロウワー・マンハッタンに住んでいた。
1860年に人口が50万人に達するとの野心的な予想から、南北を走る11本の「アベニュー」、東西を結ぶ155本の「ストリート」から成るグリッドを委員会は準備した。
「ファースト・アベニュー」、「サード・ストリート (3丁目)」というように、アベニューもストリートも通りの名前は数字で表わされた。
土地の分割が容易で開発がしやすく、デベロパーが最も安価に建物を建てることができるためグリッドを採用したといわれている。
重視すべきことは利益だ。ニューヨークはこの頃からニューヨークだった。
3.
ブロードウェイは最も古いマンハッタンの地図にすでに描かれている。17世紀のオランダ人の入植以前から存在する、先住民がやぶを踏みならしててできた道だ。
もともとのブロードウェイは、現在のバッテリー・パークから10丁目近辺まで南北に続いていた。そこでさらに北へと続くブルーミングデール・ロードに合流する。
ブルーミングデール・ロードも、土地の隆起に沿ってやはり人びとがふみしめてできた小径だ。この2つの通りは南北を斜めに走っている。グリッドとは相容れない。
1811年計画はブロードウェイとブルーミングデール・ロードを23丁目まで維持し、それより北は消し去る予定だった。
だが消してしまうにはそれは人びとの間に浸透しすぎていたようだ。
多くの人がブルーミングデール・ロードを利用し続け、市はその道を地図上に戻さざるを得なくなる。
1838年にはブロードウェイを正式に残し始めることにした。
その後も北へと拡張は続き、1899年には59丁目より南の部分を指していた「ブロードウェイ」という呼称がその北も指すようになる。今日のブロードウェイの完成だ。
長い間先住民が歩いてできた通りは、プランを上書きして生き残った。
ディロンが多くの人に歩かせてできた小径をセントラル・パークに採用しようといったとき、彼はブロードウェイのことを念頭においていたのかもしれない。
4.
1811年計画の歴史をふりかえってみえてくるのは、プランの万能性ではなく、むしろその継続的な変更と適応化のプロセスだ。
1811年計画は、それ以前から存在していた小さな公園を少しだけ残していた。しかし急速な人口の増加を目の当たりにして、公園が足りないことに気づく。
その結果いくつかのスクエアが追加された。非公式だが歴史的に踏みしめられたブロードウェイに人が集まったため、ブロードウェイとの接点にスクエアができた。
ユニオン・スクエア (14丁目)、マジソン・スクエア・パーク (23丁目)、ヘラルド・スクエア (34丁目) --。
いまでもブロードウェイ沿いにスクエアや公園が多いのは偶然ではない。
人口はさらに増え続け、小さな公園では対応できないと判断した市は、1853年にセントラル・パークの建設を決める。
1860年にはマンハッタンの人口は80万人に達した。1811年計画の委員会の予想を大きく上回っている。
5.
1811年計画の大きな誤算は、人びとが南北を移動するようになったことだろう。
マンハッタンのグリッドは、東西の移動を意図してつくられた。すべてのブロックは南北よりも東西の方が長く、東西を移動する方が交差する通りの数が少なくてすむ。
南北の移動は川の水路中心の前提だったが、どういうわけか多くの人たちが住居を北に構え、仕事場の南との間を往復するようになる。
予想外の南北の移動に対応するため、1830年代には南北を走るアベニューを追加することが提案された。
1から11までの番号がわりふられたアベニューの間に「レキシントン」や「マジソン」という名前のアベニューがまぎれこんでいるのはそのためだ。
6.
多くのブロックを斜めにつきぬけるブロードウェイは、不規則なロットや交差点をつくることになった。
1811年計画と比べて、四叉路以外の不規則な交差点の数はほぼ2倍に増えた。
それは信号を設置するエンジニアの頭を悩ませ、フラットアイアン・ビルディングを生み出すことにもなった。
短いアベニューとブロードウェイの追加は、通りのつながりを高め、ネットワークを複雑にしている。
それでもマンハッタンのストリート・ネットワークはべき乗則に従っていない。
ニューヨーク市全体のストリート・ネットワークはべき乗則に従っている。だがマンハッタンはほかのボロウと乖離している。
マンハッタンの通りの多くは非常に長く、そしてその長さがほぼ同じだ。
南北を走るアベニューがそのいい例だろう。
そして短い通りが少なく、長い通りと短い通りの間の中間の長さの通りが非常に少ない。
グリッドのプランが単調なため、マンハッタンのストリート・ネットワークがひとつの一貫したシステムを構成するのに十分な数のスケール (階層) が存在しない。
それがストリート・ネットワークの自律的な再編を妨げているようだ。
マンハッタンには1ブロックしか続かない短い通りがいくつかある。そうした通りにある不動産の価格は高い。市場はストリート・ネットワークの原理を理解しているようだ。
7.
プランが与えられて、おとなしくそれに従うほどニューヨークの住民は従順ではない。どんなものでも自分の都合のいいように使いはじめる。
人びとのふるまいがプランに変更を迫り、市がそれに対応する。その変更はまた人びとのふるまいに影響するだろう。その繰り返しから規則性が生まれてくることが多い。
グリッドに規定されたブロックは、19世紀に均等に分割したうえで、土地として売りに出された。
だがすぐにロットをまとめるビジネスが現れ、大小様々なサイズのロットをつくり始めた。
ビジネスが多様なニーズに投資機会を与え続けた結果、均等だったロットは著しい多様性へと再編され、サイズ分布は規則性に導かれた。
やはりグリッドに規定されたストリート・ネットワークは同じ進化をとげていない。グリッドのプランが重くのしかかっているようだ。
8.
人がつくるものには規則性があると私たちは考えがちだ。マンハッタンのグリッドにはあきらかな規則性がある。
だが表の見た目をめくってそのなかをのぞきこんでみると、多数間の作用がもたらす自生にこそ規則性が貫いている。
およそプランとは縁のない欧州の古い都市のストリート・ネットワークにもべき乗則が観察されている。今日でも多くつながり、利用されているのは古くからある通りのようだ。
古くから踏みしめられたブロードウェイが生き残り、今日も主要な通りとして利用されているのは必然だと思いたくもなる。
多くの人に歩かせて小径を決めるというディロンの考えは間違っていないのだろう。だが「完全な自生」から秩序がたちあがってくるのに、どれだけの年月が必要になるだろう。
「完全なプランニング」が非現実的なことも私たちは知っている。将来の都市をだれが予想できるだろう。
少しづつあきらかになってきているストリート・ネットワークの規則性は、「自生を助ける」ヒントを与えてくれているようにみえる。